序章
※本作は十七世紀イタリア半島を想定しておりますが、フィクションのため史実準拠ではありません。実際の歴史とは異なる点が多々ございます。創作表現としてご容赦いただければ幸いです。
Multos enim vulneratos dejecit, et fortissimi quique interfecti sunt ab ea. Viæ inferi domus ejus, penetrantes in interiora mortis..
彼女は数多くの男を傷つけ倒し、殺された男の数はおびただしい。 彼女の家は陰府への道、死の部屋へ下る。※
【箴言 7:26-27】
『呪われよ、大淫婦の子。お前の血に関わった者は、みな等しく灰となる。お前が母の胎に宿った時より、人の運命を焼き尽くす火種は、すでにその身に抱えられている。ゆえに、ここから外へ出てはならない。この門の外に刻む一歩ごとに、その行く末で、ひとの生が断たれてゆく』
盲いた老婆が耳もとで囁いた。吐息と共に落ちてきた声は、彼を縫いとめる鎖のようだった。
今になって振り返れば、あれは外へ出さないための脅しに過ぎなかったのだと分かる。けれど幼い彼には、それが真実のように思えた。
また老婆は時折、匙を彼の唇に押し当てた。
濁った色の液体は、かすかな甘さのあとに舌の縁を痺れさせ、喉を落ちてゆくにつれ、胸の奥に鈍い熱を残した。
老婆は呪いをかけたのだ。
約束を破って門の外へ出たとき、誰かの生を断たないように。
この子だけがそこで息絶えるように。
そうして、呪いの名のもとで、わずか一つの幼い命は、誰にも気づかれぬまま静かに削られていったのだった。
* * *
誰に何が、どれだけ渡るのか。その加減は、いつだって不公平だ。
ある者の掌には掴めない程の喜びが溢れ、別の者の掌には、悲しみばかりが積もっていく。
神が平等ではないことなど、とっくに知っている。
理不尽だと嘆き続けても、分け前が変わるわけではない。だからこそ今、手の内に残っている札だけで、どこまで食らいつけるのかを試すしかないのだ。
そうと分かっていても、気付けば指折り数えてしまう。自分に残された時間はどの位なのだろうか、と。
「何を考えているの?」
舌足らずな甘い声と一緒に、細い指先が額へ触れた。
絹のような黒髪と紅の唇をもつ女は、妻のレジーナだ。ゼノは彼女と視線をあわせて苦笑した。
「あと、どれ位の間、こうやっていられるか考えていた」
「そんなの決まっているわ。どちらかが死ぬまでよ。健やかなときも、病のときも、死が二人を分かつその時までって誓ったでしょう?」
「そうだな。だとしたら、その先は?」
「その先?」
「死が分かつの先は、残されたほうは自由ってことになるのか?」
「自由って言い方、感じ悪いわね。……でも、いいわ。その先の話をしてあげる。もし私が先に死んだらね、カッシアの聖リタや、ボローニャの聖カテリーナ、ルッカの聖ツィタみたいに、腐らない聖女になりたいの。綺麗なガラスの棺に寝かされて、何十年も変わらない姿で眠り続けるのよ。だからゼノも月に一度は来てね。棺を撫でて、耳元で囁いて。ねえ、死んだ身体だって抱いてくれるなら嬉しいわよ?」
吐息混じりに囁くレジーナの声は、腐敗する寸前の果実のような淫靡さを帯びていた。そんな彼女に向かい、ゼノは口角を吊り上げた。
「残念だけど聖女はたいてい処女だ。神の奇跡は、清い身体にしか降りない。毎晩のように誰かを寝台に引きずり込んでる女は、その列から真っ先に外れるだろ」
「意地悪ね。夢くらい見たって良いじゃない」
レジーナは唇を尖らせながら、ゼノの左手を取った。その薬指には銀色の指輪が冷たく光っている。輪郭をなぞるように、紅い唇がゆっくり近づいた。
「私は悪い女でも良いけれど、あなたは真似しちゃダメよ。あなたは私だけのものだから」
指輪に口付けを落としてから、彼女はくすりと笑って身を離す。
そして寝台脇の卓に置かれた葡萄酒をグラスに注いだ。そのすぐ横に並べてあった銀の薬入れの蓋を、レジーナは親指で押し上げる。中の黒ずんだ樹脂を爪の先でこそぎ取り、葡萄酒の中へと落とした。
「さっきの意地悪の罰よ」
冗談めかして囁くと、葡萄酒を口に含んだ。そしてゼノの顎を掬い上げ、そのまま唇を重ねる。
熱を帯びた唇が深く重なり、葡萄酒の甘さと、わずかな苦さが押し込まれてきた。舌の上で広がる液体の奥に、鈍い痺れだけがかすかに残る。喉の奥へ落ちていくたびに、胸の中に火種が撒かれていくようだった。
少しずつ現実の輪郭がほどけていき、触れている肌の感覚だけが際立っていく。
唇が離れたとき、ゼノの呼吸は浅く乱れていた。
胸の奥で鼓動が強く打ち始め、肌の内側にじわりと熱が広がっていく。
「分かっていて飲んでくれるところ、ほんと、好き」
レジーナはゼノの胸に頬をすり寄せながら囁き、再び口づけてきた。
今度のキスは、先程よりも深く、長い。飲まされたもののせいで、視界の端が少し柔らかく滲んだ。
ゼノはレジーナを抱き寄せる。
彼女の指先が、肩から背中へとゆっくり滑り降りていき、その軌跡を追うように、うっすらと震えが走った。
「……ゼノ。私の愛しい子」
慈母めいた声で名を呼びながら、レジーナの唇はゼノの喉元から胸元へと降りていく。置かれていく口づけが、一つ一つ、細かな火傷のような熱を刻んでいった。現実感はふわふわと遠のきながらも、体温と息遣いだけが、際立っていく。
素肌を撫で上げると、レジーナの息は乱れ、胸の高鳴りが伝わってくる。その鼓動に煽られるように、触れ合う肌の熱がどんどん強くなっていく。
視界も時間の感覚も、ゆっくりと底の方へ沈んでいく。
残っているのは、腕の中で震えると、絡み合う息づかいだけだった。
※日本聖書協会 新共同訳「聖書」より抜粋




