10:故郷への帰還Ⅰ
故郷の村の小さな教会には、いつもよりたくさんの人の姿があった。
顔見知りの村人たちと、手紙を送った母の知人たちが、沈んだ面持ちで頭を垂れていた。
母の遺体は、すでに埋葬されている。この日行われたのは、彼女のために捧げられる葬儀のミサだった。キアラは一番前の席に座りながら、司祭の声を遠くのもののように聞いていた。
母は、もうどこにもいない。
そう思うのに、胸の内側は不思議なくらい空っぽだった。悲しいとか、寂しいとか、はっきりした形の感情が浮かんでこない。ただ、何か大事なものがなくなってしまったのに、それを探す手段を失ってしまったような感覚だけがあった。
「……主よ、彼女に永遠の安息を与えたまえ」
最後の祈りの言葉に合わせ、会衆の間から十字を切る気配が連なる。
ミサが終わると、人々はゆっくりと立ち上がった。
教会裏の小さな墓地には石碑が並び、その中に、キアラの母の名を刻んだばかりの十字架と土盛りがひとつあった。
「……お母様には、お世話になったわ。あの人の笑顔、今でも目に浮かぶよ」
「寂しくなったら、いつでもうちに来なさいね」
村人の一人一人が、キアラの肩に触れたり、手を握ったりしながら声をかけていく。キアラは微笑み、「ありがとうございます」と同じ言葉を繰り返した。口が自動的に動いているようで、自分の声が少し遠く響いた。
やがて足音が途絶え、司祭も教会へ戻っていった。
誰もいなくなった中で、キアラは墓を見つめたまま、動けなかった。どれくらい、そうして立っていたのか分からない。
ふと、背後で砂利の上を踏みしめる音が近づき、斜め後ろで止まる。
「……葬儀に間に合わなくて、悪かった」
振り向くと、黒い上着に身を包んだ青年が立っていた。沈みかけた陽の光を受けて、染めた明るい髪が淡く光る。ゼノだった。
「道が悪くてさ。途中で車輪がはまり込んで、馬車ごと引き上げる羽目になったんだ」
「ううん。来てくれて、ありがとう」
キアラは首を横に振った。
葬儀に間に合ったかどうかなんて、もうどうでも良かった。ただ、この場にゼノが来てくれたという事実のほうが、今は大きかった。あの夜からずっと胸の底で燻っていた苛立ちや悔しさが、彼の姿を見た途端に、どこかへ吸い込まれていく。
ゼノは墓の前に膝をつく。手に持っていた花を、土の上にそっと置いた。
「……優しい人だったよな。母さん」
ゼノの口から自然に「母さん」という言葉がこぼれた途端、胸の内側が強く締め付けられた。
母は、キアラだけの母ではなかった。ゼノにとってもまた、彼女は確かに母だったのだ。一緒に暮らしていた頃の景色が、音や匂いごと押し寄せてくる。
遊び疲れて、泥だらけで戻ってきたキアラとゼノの頬を、笑いながら拭いてくれた母の横顔。祭りの日、二人にマントを着せて、「離れてはダメよ」とお小遣いを持たせて送り出してくれた、あの眼差し。人込みを歩く時は、片方の手でゼノを、もう片方でキアラを繋いでくれた、掌の温かさ。
それらの思い出が、自分ひとりのものだけではないと思うと、喉の奥が熱くなる。
「……うん。ありがとね。本当に」
声が震える。
張りつめていたものがほどけたのか、そこで初めて大粒の涙がぽろり、と零れた。
ゼノは立ち上がり、キアラのほうへ向き直った。伸ばされた手が頬のあたりまで来て、指先が触れるか触れないかのところで止まる。一拍の間だけ宙に留まり、やがて頬に触れないまま、ゆっくりと降ろされた。
「これから、どうするんだ?」
問いかけられて、キアラは腕で乱暴に涙をぬぐい、言葉を探した。
これから、どうするか。
父は数年前に亡くなった。これで血のつながった家族は、もう誰もいない。親戚たちは海の向こうで暮らしている。けれど、キアラには小さな店があった。そこにいれば、少なくとも休む暇もないほどに動き続けることができる。それさえあれば、何とかやっていけるはずだ。
「……私は大丈夫。街に戻って、普通に店を続けるよ」
「そうか」
ゼノは短く返した。無理に慰めるでもないその調子が、逆に心に触れる。余計な言葉を重ねられるよりも、今はそれで十分だった。
少しの沈黙が落ちる。すると教会から、夕べの祈りを告げる鐘が鳴り響いた。
「あ、そうだ」
不意に、口が先に動いた。自分の中に空いてしまった穴を、何かで埋めたかったのかもしれない。
「ゼノ。帰りの馬車、いつ?」
「三日後だ。村を発つのは、夕方だって聞いた」
街から来る乗り合い馬車は、そう頻繁に出ているわけではない。キアラは一度瞬きをしてから、首をか傾げる。
「……だったら、うちに泊まる? ゼノの家でもあるんだから」
「いや、遠慮しておく。俺は別の所にでも行くよ」
「なんか私のこと、すごく避けてるよね……。お母さんを亡くしたばかりなのに。今夜寂しくて、私が、子供みたいにわんわん泣いちゃってもいいの? その時は、泊まってくれなかったゼノのせいにするから」
冗談めかして言うと、ゼノは少しだけ目を瞬かせた。すぐに、肩の力を抜いたように息を吐き、口元にわずかな笑みを浮かべる。
「分かった。泊まるよ」
「うんっ、行こ」
歩き出そうとしたとき、キアラは隣のゼノの手を無意識に探した。考えるより先に指が伸びて、昔と同じようにその手を掴む。
大きな温かさが、掌に伝わってくる。
あ、と気付いたのは、そのすぐ後だった。子どもの頃、市場へ出るときに、いつも迷子にならないようにと握っていた手。その記憶が先に身体を動かしたのだと気づいた途端、頬がカッと熱くなった。
「ご、ごめん!」
慌てて指をほどく。掴んでいた手を離し、何事もなかったふりをしようと、視線を前に向けたまま早歩きで歩き出す。
ゼノの表情を確認する勇気はない。それでも、横目に映る輪郭で、その口元がかすかに緩んだように見えてしまって、キアラの鼓動は、さっきよりもずっと騒がしくなった。




