09:訃報
その日は、朝から雨だった。
暮れ頃にはいくらか弱まったものの、夜になっても、細い糸のような雨が戸口のランタンの光の中を降り続けていた。
店を閉め、帳簿を片付けると、キアラは棚から数本の瓶を取り出した。今夜作るのは、神経痛に悩む老婦人から頼まれていた軟膏だ。
陶器の鉢に、赤みがかった油を少し注ぐ。夏の間、セント・ジョンズ・ワートをオリーブ油に漬け込んでおいたのだ。鍋に水を張り、その上に鉢を据える。火をつけると、水が温まり、底からじわじわと熱が伝わってきた。
木べらを動かすたびに、ハーブの香りが少しずつ立ちのぼる。
その香りの中で、ふと、ひとつの紙切れのことを思い出した。
あの夜、赤いドレスの女性から渡された、ゼノの住所が書かれた紙。あの紙は今も引き出しの奥にしまってある。だが、その場所へ行ったことは、まだ一度もない。行こうと思えば行けると思うたびに、胸の奥がきゅっと痛み、そのまま引き出しを閉じてきた。
気づけば日々の仕事が、躊躇いをそのまま覆い隠してしまっていた。
鍋の中で水が小さくはぜ、我に返る。鉢を火から下ろし、刻んでおいた蜜蝋を落とした。冷めれば、柔らかな軟膏になるはずだ。
すると、店の扉が突然、どん、と叩かれた。
こんな時刻に誰だろうと思いながら、キアラは手を拭い、扉を開けた。
「どなたですか?」
「サンタ・ヒルデガルトというお店はこちらですか? 手紙をお届けにあがりました」
雨の向こうに、フードを深くかぶった男が立っていた。彼は鞄の中を手早く探り、一通の封筒を取り出す。
「道がぬかるんでいて少し遅くなりました。申し訳ありません」
「いいえ、ありがとうございます。こんな夜に、ご苦労さまです」
男は一礼すると、また雨の中へ出て行った。扉を閉めると、外の足音はすぐに雨音に紛れた。
店の中が、再び静かになる。
キアラは手紙を両手で持ち替え、灯りの下に掲げた。宛名には、自分の名と店の住所。差出人の欄には、故郷の教会の名前が記されている。
手紙を受け取ること自体、そう頻繁にあるわけではない。
しかも故郷の教会からわざわざ送られてくる知らせとなれば、尚更だ。胸の奥に、言いようのない不安が生まれる。
封蝋を割り、慎重に紙を広げる。目に飛び込んできた最初の一文を読んだ瞬間、思わず息を呑む。
手紙に記されていたのは、母の訃報だった。
「……うそ」
声にならない声が零れ落ちた。
母は、元気だったはずだ。この前、送った手紙の返事には、店の話を喜ぶ文章と一緒に、「腰は少し痛いけれど、畑の野菜はよく育っている」と書かれていた。
それなのに、なぜ。どうして。と、頭のどこかが問う。だが、すぐに、もう一つの声がそれをかき消した。なぜもどうしてもない。人は、ある日突然、この世からいなくなることがあるのだ。目の前の文字が滲み、キアラは慌てて瞬きをした。
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母は突然、道端で倒れ、そのまま息を引き取ったこと。
村の人々と共に簡単な葬儀と埋葬をすませたこと。
キアラが帰って来られるなら、その時に改めて正式な葬儀ミサを捧げるつもりでいること。
司祭の整った筆跡で、淡々とした言葉が続いていた。
キアラの父はすでに亡くなっており、兄弟もいない。親戚は海の向こうに暮らしており、キアラが店を開くために都会へ出てから、母はずっと一人で家にいたのだ。
もしも自分がそばにいたら違っただろうか。もっと早く戻っていればよかったのか。そう問いかけては、きっと結果は変わらなかったのだと押しとどめる。それでも、胸の奥の冷たさは少しも和らがない。
目を瞑り、深呼吸をする。
「……帰らないと」
自分の声が、自分のものではないように聞こえる。それでも口に出してしまえば、もう、考えるより先に動くしかない。
立ち上がり、店の表へ回った。扉の脇に掛けてある木の板を手に取り、「休業」と書かれた面を外に向けて吊るした。二階の部屋に戻り、鞄を引き出す。中身をざっと確かめ、衣服を数枚と、最低限の薬瓶を包み布ごと詰め込んでいく。手は勝手に動くのに、頭の中はまだ手紙の文面の途中に取り残されているようだった。
ふと、母と親しかった人たちにも、この訃報を知らせねばと思い至った。インク壺の蓋を開け、ペンを取る。一通、また一通と、訃報を告げる短い手紙を書いた。文面はどれも似たようなものになったが、それ以上の言葉を紡ぐ余裕はなかった。
最後の封筒を閉じた時、手が止まる。思いがけず、ゼノの名前が浮かんだからだった。
ゼノは昔、キアラと一緒に暮らしていた。
家を出てから長い年月が流れたけれど、彼とキアラの母が無関係だったわけではない。母の死を、ゼノに伏せておくのは、どこか違うように思えた。新しい紙を一枚取り、ペンを走らせた。母が亡くなったことと、自分は村へ向かうつもりでいる事を簡潔に書き記す。
外は、まだ雨が降っている。
鞄を締め、手紙を抱えたまま、キアラは店を出て郵便を扱う駅馬車宿へ向かった。手紙を託した後、そのまま乗り合い馬車に乗るつもりだった。馬車にさえ乗ってしまえば、一日もかからず村に辿り着けるだろう。そう考え、足早に石畳の上を進んでいった。




