08:仕事の功績
夜会の翌朝、光がやけに鋭く感じられた。カーテンの隙間から差し込む日差しが、容赦なく瞼をつつく。キアラは枕に顔を半分埋めたまま、うめき声を漏らした。
片目だけ開けて見回した寝室は、見事に乱れていた。
靴は片方だけ椅子の下に転がり、ドレスは椅子の背に引っかかったまま落ちかけている。小さなテーブルの上には、空になったワインの瓶と、水の減っていないグラスが放置されていた。
夜会の後、家に帰ってきてから、苛立ちをそのまま酒で流し、気が付けばベッドに倒れ込んでしまった。おかげで、今朝は見事な二日酔いだ。
キアラはどうにか上体を起こした。ベッドから足を下ろし、よろよろと立ち上がる。二階の寝室から一階の店へ続く階段を下りるたび、視界の端がじわじわと揺れた。
「……タンジー、タンジー……」
頭の奥で鈍い痛みが響くたび、逃げるようにハーブの名を口にする。
乾燥ハーブの瓶が並ぶ棚の前に辿り着いた時、タンジーと結びついた一節が、ようやくはっきりと浮かび上がった。
『頭に熱がこもり、重く痛む時は、コモンタンジーを冷たい水に浸して布に含ませ、額とこめかみ、喉に当てなさい』
それはヒルデガルトが記した、二日酔いに対する処方だった。
陶器の鉢に冷水をなみなみと注ぎ、乾燥させたタンジーを散らす。指先でもむようにして水に香りを移し、清潔な布を沈めてから、きゅっと絞った。
ひやりと濡れた布を額に乗せる。思わず、ふう、と息が漏れた。
冷たさが皮膚を通り抜けて、じわじわと内側に染みていく。こもっていた熱と一緒に、痛みが和らいでいく。小さな椅子を引き寄せて腰を下ろし、背にもたれる。目を閉じると、昨夜の光景が浮かんだ。
扉のそばで女性に囲まれていたゼノ。
次々と腕を絡められ、肩を叩かれ、腰に手を回されても、当たり前のように受け止めていた姿。勇気を振り絞って声をかけた自分に、「大した話もない」と平然と言い放った顔。バルコニーで赤いドレスの女と肩を寄せ合い、唇を重ねていた姿が脳裏に浮かんだ途端、腹の底から怒りが込み上げてくる。
「大きくなったら結婚しよう」と交わした約束を、キアラはずっと手放さなかった。
子どものやり取りだ。真に受ける方が愚かだと言われれば、言い返せない。それでも、ゼノの事が諦められなくて、誰かに言い寄られるたび、婚約者がいるのだと断ってきたのは、事実だった。
それなのに、その十年分の想いが「大した話もない」の一言で片付くなんて。
自分でも呆れるほど長く焦がれていたのに、それが一方通行だったのだと突きつけられた時の、あの足元が崩れる感覚と怒りが、まだ生々しく残っていた。
冷たい布を押さえたまま、キアラは大きく息を吐いた。
そういえば、怒りは体内の黄色い胆汁が多すぎるせいだと、ヒルデガルトが記していたな、と思い至る。
ギリシアの医師ヒポクラテスの流れをくむ者達は、人の身体には四つの体液が巡っていると考えていた。血と粘液と、黄色と黒の胆汁だ。ヒルデガルトの療法もその考えに則っており、黄色い胆汁が多い人は怒りに傾きやすいとし、その働きを静める香りや薬草を勧めている。
ヒルデガルト曰く、怒りが収まらない時は、バラと少量のセージを粉にして、香りを吸い込むのが良いとの事だ。
「……やってみよ」
布を片手で押さえたまま、立ち上がった。
乾燥させたバラの花びらとセージの束を棚から取り出し、小さな乳鉢に移した。
バラをひとつかみと、セージをほんの少し。すりこぎで潰していくと、花びらが粉になるのと一緒に、柔らかな香りが立ちのぼる。バラの甘さの奥に、セージの乾いた香りが細く混じった。
そっと息を吸い込む。
胸の奥で尖っていたものが、完全に消える訳ではないが、それでも輪郭が少しぼやけて、怒りの棘が丸くなっていく気がした。香りをしばらく吸い込んでいると、店の前に人影が立っているのが目に入り、キアラは慌てて扉を開けた。
差し込む光の中に、女性が一人立っていた。上質な外套の裾を揺らしながら、興味深そうに店内を見渡しながら入ってきた。
「ここが、昨日の夜会の香りのお店なのね?」
「はい。ようこそいらっしゃいました」
客だと悟って、慌てて額の布を外し、笑顔を作った。
「ジュリオさんという方に、このお店のこと教えてもらったの。昨晩、扉をくぐったときに、ふっと落ち着く香りがしてね。実は少し頭が痛かったのだけど、あの匂いを深く吸い込んだら、不思議と楽になった気がしたのよ」
「あの香りが少しでもお役に立てたなら、本当に良かったです。昨日のは、オレンジの皮とローズマリーと糸杉を加えたものなんですよ。これ、サンプルですが、よろしければどうぞ」
小さなサシェを女性の手にそっと載せたちょうどその時、ちりん、と鈴が鳴り、今度は別の客が店に入ってきた。彼女の顔には見覚えがあった。昨夜、キアラが飴を渡したあの婦人だ。
「わ、いらしてくださったんですね。昨日の飴、ちゃんとたくさん用意してあります」
本当に来てくれたのだと、思わず声が弾む。
「まぁ、覚えていてくれたのね。あの飴、とても気に入ってしまって。昨日もお話ししたでしょう? 知り合いに歌手の方がいてね。舞台の後、いつも喉がひりひりするとこぼしているものだから、差し上げたくて」
婦人の言葉を受けて、キアラはカウンターの下から、小さな包みを詰めた籠を取り出した。
「こちらが、昨日のものと同じ飴になります」
「では、このくらい頂けるかしら。その方の分と、自分の分も少し」
少しと言いながら、婦人の指先は包みをひとつ、またひとつと摘み上げていく。数え終わる頃には、両手に余るほどの包みが、カウンターの上に積み上げられていた。
「もし召し上がってみて、喉の具合が分かったら、今度教えていただけると嬉しいです。様子に合わせて、また少し薬草の加減を変えてお作りできますから」
「そんな事までしてくださるの? では必ず、お話を聞いておきますわ」
婦人は満足そうに頷き、代金を置く。扉のほうへ向かう彼女を見送っていると、また客が現れた。
夜会で香りを気に入ったという人達が、続けざまに戸口をくぐってくる。
ハーブを量り、香りの相談に乗り、棚から瓶を下ろす。手と口を動かしているうちに、頭の重さも胸の中の怒りも、いつの間にか遠くへ押しやられていった。気付けば、いくつもの紙袋と代金がカウンターを行き来していた。
陽が傾き始める頃になって、ようやく客足が落ち着いた。
昼食をとる暇もないまま動き回っていたが、嬉しい忙しさだった。キアラは奥から小さなパンを持ってきて、カウンター奥の椅子に座る。
一口パンをかじり、こわばった肩をぐるりと回す。静けさを取り戻した店内を見渡せば、棚の商品は思っていた以上に減っていた。補充しておかないと、と考えながらパンをもう一度口に運んだその時、扉が開く。
「いらっしゃいま……」
パンを包み布でくるんでカウンターの下に滑り込ませる。だが、扉の前に立つ女性の顔を見た途端、言葉は喉の奥で止まった。
「こんばんは、昨晩はどうも」
「昨日はすみませんでした!」
バルコニーでゼノと口付けを交わしていた赤いドレスの女性だった。慌てて立ち上がり、深々と頭を下げる。
「いいのよ。飴はとてもおいしかったわ。それに包装紙を見て、びっくりしたの。このサンタ・ヒルデガルトって名前、前から知っているお店だったから」
「うちを、ご存知だったんですか?」
「ええ。夫がこちらで調合してもらった薬に助けられたの。いただいた軟膏を塗ったら、長いこと悩んでいた湿疹が、すっかりおさまったのよ」
「そうだったんですね」
「だから昨日、びっくりしたわ。サンタ・ヒルデガルトの店主が、まさかゼノの幼馴染だなんて」
ゼノという名前が出た途端、キアラの表情は強張る。女は、その変化を見逃さなかった。
「……もしかして怒ってるの?」
「……いえ」
女は肩を竦めて、バッグから折りたたまれた紙片を一枚取り出した。
「ねえ。これ、彼の住所よ」
「えっ」
差し出された紙を、キアラは思わず両手で受け取った。
「久し振りに会った幼馴染って言ってたわね。あなた、会いたいんでしょう?」
「いえ、その……。でも、どうして。あなたは、ゼノの……」
そこまで言って、口をつぐんだ。恋人と呼ぶには、どこか違う。さっき、自分の夫のことを話していたばかりなのだ。女はキアラの迷いを面白がるように、あっさりと笑った。
「私は既婚者よ」
「じゃあ、ゼノとは……」
「気が向いた時に、夜を一緒に過ごす相手って所かしらね」
さらりと言われた言葉に呆然とする。
噂話の中では聞いたことがあった。貴族たちの社交界には、夫とは別に愛人を囲う者も多いのだと。けれど、それはどこか遠い世界の話だった。それが今、急に現実として迫ってきたのだ、何かが、がくんと崩れたような気がした。
女は棚から石鹸を一つ取り、包み越しに香りを確かめるように鼻先へ寄せた。それをカウンターに置き、ふっと笑みを浮かべる。キアラは手早く石鹸を紙に包んだ。
「夫の具合が良くなったお礼よ。住所くらい、安いものだわ」
「……ありがとう…ございます」
それだけ言うのが精一杯だった。
代金を受け取り、石鹸を渡す。その拍子に、指先に残された紙片が改めて意識に上る。女は「また来るわ」と言って、包みを受け取り、店を出ていった。
扉が閉まると、静けさだけが残った。キアラは手の中の紙をそっと開いた。慣れた筆跡で書かれた通りの名と番地に、鼓動が高鳴る。記された住所は店から、そう遠くない場所だった。
会おうと思えば、行けてしまう。
行きたくないと思えば、この紙を捨ててしまうことだってできる。
そのどちらも決められず、キアラは紙を見つめて、しばらくの間、立ち尽くしていた。




