マイナラティブ
マイナラティブ
知人の還暦男が自伝小説を書こうという。彼には学生時代からの親友がいるのだが、その大学教授が編み出した物語手法を参照しようと思い立つ。自分の物語を劇的なものへ。自分だけの小説を傑作たらしめるためにも。
六十歳を越えて思い返す男の追憶はまずは青春半ばの若き日のあれこれへ。彼ら学生時代の八十年代半ば。友は「1984年」に出会った。1984年は意味深な当年であった。ジョージ・オーエルが近未来をデストピアとして描きアップルコンピューターがマッキントッシュを世に問った。幾星霜が過ぎまさに光陰矢の如し。友は早稲田大学の城下町のような学生街の外れ鶴巻町に住んだ。今現在新潟で教鞭べん。阪大東大を経て学問を職業にできたラッキーな男だ。生物学から倫理学へ。生命倫理から看護学理論の正義物語論へ。ケアマネのロジックとセオリー。人間万事塞翁が馬のような学者人生はあと五年・・。
さて還暦男は考える。あぐねてさえいた。自叙小説の難しさは作品と作者の妥協と癒着と混濁その融合化合の実験小説の吟味と玩味にある。どこまで事実現実として自己を客体化できるかどうか。しかもギミックなパロディも辞さない自己否定のエンターテイメンツを本当に実現できるかどうか。そこで今流行りの「百年の孤独」を援用するのも一興だね。マジックリアリズム。作者が読者をどれほどまでに揶揄うことができるのかむしろ翻って語りまくって語り尽くす。極論を言えば法の逸脱も辞さないくらいのメタファ行使ができるかどうか。すなわち文学的に凌辱できるかどうか。虚構の虚実。嘘か誠か。詐欺か正義か。善悪を度外視すると。真実か虚偽か。さて自叙小説はまず時系列が作者の時間経過と並走する。作中の時間と作者の実体験の時間が共有共振する。いやしなくてもいい。でもどうかな。自分にこだわらなくてもいい。でも描きやすさもあるんじゃないの。自分のことを書く楽しさもある。世界と自分。世界の構成要素になっている自分と関係する全ての人びと。自分が今まで出会ってきた人間たちを作中に登場させてもしかしたらここでこんなことがあったかもいろんな可能性を試しながら。文学世界の中で文学的事実として記していく。日記も実は小説にできるスケッチメモなのだけど。新聞や学術論文は「事実」しか書くことができない。ちっともおもんない。
医学と文学そして若干の社会学。人間と物語。そして誰でも今まで生きて来た現実の蓄積を省みる時に物語を吟味する。自伝も実は来歴の告白であり入社プロセス、自分だけの会社の。社長も社員もひとりだけ自分だけの自己存在株式会社なのだ。文学は営利団体の資金の如きフローなのだ。
自分の物語を考えるには過去の出来事をその時の心理を思い出すことから始まる。もしあのときこうだったらああだったら。無限回廊の思い出迷子。錯誤でも試行でもなく。妄想も空想も想像と創造へ。自由気ままな出鱈目し放題の思考を拡散拡大進化発展させる。
畏友半田野文夫と還暦男・藤咲達仁は久方ぶりに再会した。元号が変わり世界的な疫病が流行った。パンデミックのどさくさにワクチンが措置された。医学部の半田野は多忙を極めた。大学はリモート講義を余儀なくされそのコンテンツ制作に没頭した。大学の施設を使用できないのに生半可な講義しかできないのに授業料は値引きしない。大学人の真価が教育的にも問われた。
やがて自然的にパンデミックは終焉した。機を見て藤咲は学会の会合のため新潟から上京した親友・半田野を高級ホテルのラウンジに招待した。
この還暦男は宝くじ連勝の不可思議な能力が具備されているらしく何回も賞金をゲットした。何億も普通口座に預けっぱなしだった。まるで金銭に興味がない。日常生活は酒もタバコもギャンブルも投資もしない。晴耕雨読の小欲知足を目指した。わずかにテナーサックスを吹いたり小説を読んだり書いたり。ネットで映画やドラマをみたりするだけだ。偶に区から支給された区内の銭湯入浴券で営業開始直後の銭湯に入る。カルキの匂いが気になるので寝る前にも入浴するのだが。村上春樹の小説が大好きで今も長編小説の再読会を自ら企画実行中だ。村上春樹がとてもお金にシビアで吝嗇なのだけどこの作家が言うには性分として節約倹約の節度を保つそして決して無駄な出費をしないことが自然であるという。それでも親友の半田野との再会は熱くもてなしたい。
小説執筆の現場時空をまさに突き進む勢い。既に始まっている。藤咲達仁の小説は動き出しているのだ。脳髄の奥深く深層心理の真相を目指す。気安く気楽に追憶に浸るわけでもなく。未だに大学で働く男の矜持とやらをとくと観察したい。
「新しい恋はどうなの?」
「SMみたいなことにならないように気をつけないといけない」
「あいつの場合は自分のしでかしたことの言い訳に学問を出してきた」
「確かに言い訳が下手すぎるよな。教育者たるもの責任回避も当事者からの逃避も許されない」
「反面教師でいいじゃないの」
「現実批判ばかりしているとその拠り所の自己なる主体をいつでも擁護しないといけなくなる。チンケなポコチンすら尊大な巨像となってしまう。ロリコン好きの大学教授ってどうなの?実際小柄でキュートな今回の女子学生を自分勝手に弄んだわけでしょ。そんなことやっておきながら。実は学問でした、研究でしたじゃぁ言い訳にならないけどな」
「SMはかなりのロリコンだからしょうがない。年上が好きな社会学者ならあいつだね。YOくんがいうように学者じゃないかもしれない」
「Fね。S社の出版部長が「あなた童貞でしょ?」いきなり芥川選考のころフジテレビの「我らの時代」に作家のMMとFの鼎談で言ったよね。画面見ながら大笑いしちゃた。N部長の言い方がほんと下品だったね。さすが文芸出版の編集者だけあるよね。でもさ直木賞選考委員のM女史にふぐをご馳走になってその無邪気な援助活動を自慢するFに取り巻きの編集者が作家一般を援助する私怨の怨嗟を揶揄るように言ったんだよな。だったらM子先生に童貞捧げなさいよ。さもなきゃあたくしが貰ってあげてもよくてよ。禁断の芥川賞・・でもS社なら三島由紀夫賞みたいに村上春樹賞も将来的には創設できるはずだから」
吝嗇の童貞社会学者のFはどうしてもロリコン変態性欲の先輩学者である筈のMちぇんちぇが気になる。かのSM氏。インフルエンサーのネット番組に出て散々負け組底辺の愚民を嘲ったその顛末で滅多刺しにあったあの事件や女子学生を学問と称してやりまくった一部始終の暴露記事なども。まともな醜聞すらないF君の無害な無毒な存在感の偽悪にも偽善にもならない体たらく。トリックスターになれないから気色悪いKYを繰り返す。かまってほしいだけの気色悪さ。
「だってボクはママ活で全然お金使ってない」
そんな自慢げなFを揶揄ったN部長も自ら愛した作家の死に直面したラブロマンスに殉じようとでも。作家と編集者。作品と読者。
「そりゃそうと国立大学がやばいな」
「政商なごん・Hが東大解体を叫んでいるけど完全な部外者じゃないの?東大すら出てないあいつが全共闘みたいなこと言うの変じゃないの」
「HTさんは慶應大学の名誉教授の肩書きがあるんだね」
「東大に入っても出てもいないでしょ」
「学説を横取りパクパク。パクられついでに元同僚の学者が告白してるの読んだけどさ」
「構造改革の果てが国民奴隷化政策で公共財の新参横取りだった」
「Hさんの常套句は改革なんだけど新規参入の口実なんだね。それでいつも事後は必ず世の中は改悪になる。しかもアビトレなんだな。ポジ持った瞬間に利益確定・・お前のとこもやばいよ。地方国立大学・・コスパの悪い教員の給料が高過ぎる。全然業績が出せてない・・そもそも存在価値あるの?」
「おいおい大学は営利企業の利益追求が目的じゃないんだ。その研究・学問は人類への真理の貢献・・」
「全くなぁ全然HTには通じないよ。そんな戯言。ハーバードみたいに自分達で資金調達しろってことさ」
「学問教育はそんな一般企業の論理じゃぁないんだよな全くな」
「だったら自分達で自分達の研究費用を集めなきゃ」
言われた学者は専門家が素人一般人に向ける悟りの眼差しを畏友に注いだ。
「ところでお前はどうなんだよ」
「俺はもう還暦だよ。繰り上げが一番さ。早いもんがちね。速攻さ。さっさと年金受給申請やったよ」
「もうもらうのかよ。こっちはまだ五年後だけどな。定年」
「あれ?早稲田は七十定年だったね。でもさ一般的な会社員じゃないお前は今まで随分特権的な生活を送ってきたよね」
「そりゃ地方とは言え国立大学の教授の生活は世間一般とは違うさ。自分で言うのもあれだけど知的貴族と言ってもいいよね。年間の休暇は春夏合わせても一年の半分以上はある。しかも理系の実験施設にこもるでもなく。年中無休二十四時間、我が脳髄の研究室は稼働しているわけ。大学の研究室には行かないまでも日々知的作業は峻厳を極めるわけだね」
「凄いな」
「お前も気づいてると思うけど大学教授はさぁ自分で惚気ちゃうほど女子学生にモテちゃう。アカデミックなインセンティブだよ。下手すりゃセクハラだのアカハラだのなっちゃうけど俺は絶対に下手コカない。ある知的領域を超えると知的であるが故の性的発露が顕著極まるわけだね。しかも大学内部の封鎖的封建制がエロスを淫靡に咲き誇らせちゃう」
「凄いな。バレなきゃなんでもできちゃうの?大学ってとこはそんな乱れまくってて大丈夫なのか?そんなんじゃぁTHたちにやられちゃうよ。国立大学なんかもう全然費用対効果ないんだからね。各県にもれなく国立大学要らんわな。大学教育なんかもう企業附属の下部組織でいいんだよ。どれだけ経済に貢献したかそれだけじゃないかしら」
「リベラルアーツって体制スキームに合致しないんだよね」
「お前の倫理学だってそうだろ。倫理だの正義だの。そんなの嫌がる行政の連中多いんじゃないの?お義理にも倫理なんかいらんわ」
「まぁ倫理は真理だよ。でもさ学問の自由も結局は表現の自由に包括されるからね。学者の優劣の区別だけじゃぁ足りない。表現力も人間を選ぶからね」
「やはり軍事転用されるべく知的汎用性の枠内にミリタリーが侵食するのかな」
「大多数の大衆は欲しがらないよね。知的なそれをね」
「反知性主義が跋扈するわけね。怠け者が偉そうに無知ならではの能書き垂れるわけか。でも専門家も自分の分野以外は無知なる存在なんだけど」
「まず学者たちのエリート選民意識の内在的論理があるわけ。知的ブランドに身も心も脳髄までも支配されちゃってる相当なお馬鹿さん達のご都合主義ね。でもさぁ知性を輝かせるには誠実さが必須なんだよね。この誠実さを言い換えれば謙虚さでしょ。スティーブ・ジョブズがいみじくも語ってるんだよね。超一流人物に共通する特徴は誰に対しても同じ態度だった。しかも質問されたならば全身全霊の謙虚さ誠実さで答えたって言うんだね。今の学者は無知なる素人にそこまでやる謙虚で誠実な人間いるかな?どうよ?」
「それってあれでしょ。ナチ的・知的・誠実的の三つのファクターのロジックテーゼだよね。知的で誠実的であればナチ的ではない。ナチ的で誠実であれば知的ではない。ナチ的で誠実であれば知的ではない。知的でナチ的なら誠実ではない。ナチ的でないためには知的に誠実に生きること」
「そんな単純じゃぁないんじゃないの。ナチ的って何に言い換えるか。それは政治的つまり党派的というもっと言えば思想的かな。カリスマドグマ。ある特定の政治信条を信奉する。教条的でかつ狂気的な信の領域・・」
「信じること知ること。もしくは考えること感じること」
「知ることと疑うこと」
「今だけ金だけ自分だけの効率優先のコンサル論法に対抗するにはまず政治的優位性に回帰しなければならず。信じ切る信念の相対化が必要だよね。知的戦略の政策論だね。HTらは痛いとこついてくるわけ。情報を持たない大衆を煽動するのうまいわけ。改革してみせます。でも誰のためかは隠蔽している。絶対の秘匿だね。あとは生き残りをかけた大学改革を教授たち自らが断行する。大学の知識はこれほどまでに世の中にとって有用ですよ。決して我々は法外な休暇も所得もありませんよ」
「実情はかなり違うけどな。世のため人のためなんかあるかよ。誰もポコチン学生たちを心底思って講義なんかしないよ。安定は希望さ。教員の最高峰は大学教授なんだよ。それでゲームは終わるんだ。あとは大学運営したけりゃ学長でも総長でもなればいい。俺は自分の大好きな学問領域を存分に生き抜くだけさナラティブ」
「俺は還暦を始点にした自叙伝風の自己伝記小説をマジックリアリズムをベースにしかもお前のナラティブ論を参考参照して文芸創作してみたい」
「ほぉ我がナラティブをねぇ」
「知は行動化する。思念も想念も明瞭化ないしは相対化する宿命が内在する。世界と自分。個人と集団。システムとデジタル。アナログと集合。大学のシステムは早急に変容を余儀なくされる。もう経済財政的な前提がなくなったからね」
「どんな自分小説書くの?論文でも新聞記事でも雑誌のコラムでもなく。どうせエロとかになっちゃうんじゃないの?」
「確かに自分の中にある固有の物語性を表現していくしかない。しかもエロでもゲロでもグロでもいいわけね。売れなくていい。商業の採算を一切無視できる自由なポジションなんだ」
「それはさぁ僻みでしょ。書いてボロ儲けできない妬みでしょ?」
「ないわけじゃないよね。お金誰だって欲しいさ。美人といちゃいちゃしたい。モテモテバコバコやりたい。人間誰しもでしょ。でもそれだけが文学でも文芸でもない。かと言って道徳でも説教でも説話でもない。思想の下僕でもないんだ」
「何がやりたいの?何を書きたいの?」
「書きながら追求するしかないね。誰も完成された人間じゃないからね。完成を目指すには作品に魂を込めることだけど」
「お前も大学教授やってみればよかったんだよ。作家とか今からなりたいわけ?選挙に立候補して落選してもボロ儲けしてる選挙ビジネスを考えた配信者いるよね。内部告発して組織から追放されたけど今じゃぁいろんな組織の内部通報者のスターになったやつ。TTね」
「いろんな悪事や不正行為がリークされるんだけどこぞって潰されている。真のジャーナリズムはスクープがコア中のコアなんだけどそれが今は全然・・」
「自給自足できてるの?豊作らしいじゃないの」
「野菜農事は最高だね。学者はすべからく農民でいいんじゃないの。植物作物。食物を育むその全プロセスが教育の行程でもあるわけね。害虫も駆除しながらそれでも手間暇惜しまない。大自然の恵に頭を垂れながらしかも畑を整備する。かの太宰治が書いたじゃない。カルチベートしなければならない。読んで字のごとくだよ。まさに農業さ。宮沢賢治も農業学校で教えながら晴耕雨読の知的快楽を勧めたよ」
「お前のとこの新潟は水も綺麗だし酒も美味いし。農業天国のようだね」
「学者連中はとかく農業を見下すね。知的産業のサービス業は農業に生かされているわけ。学者こそ野に放たれるべきさ」
「まぁ中国では文化大革命があって知識人は下放された過酷な残酷生活もあったわけだけど」
「俺なんか日曜のたった一時間だけ農作業に充ててる。それで収穫できるんだよね。秋はわくわくするよ」
架空の対談は問答形式でもなくて互いが物語を相互に創作する起因を持つ。対決姿勢とは違い座談の趣きもある。語らいの大切な時空を学ばねばならない。今時の言い合いや揚げ足どり最終的には属人人格誹謗へとなってしまう日本語の問題性も含めて健全な対話の生産性の吟味は間断なく継続していく他はない。小説が虚構性を武器に言語作品として構築させる過程において幻想や空想そして創造の想像が表現性を高める。現実の制約を取り払った枠外の自由を獲得できた時様々な創造性がはばたく。
人生において思い出しても痛快な会話は枚挙にいとまなしのはずだ。
「どんな小説になるかはあれだけどお前も東條英機かな」
「まさか俺をそのまま書くのか?」
「未だに書いている『菩薩ガール』とリンクさせるかもしれない」
「お前の『1984夏』にも俺が出てたよな」
「そりゃしょうがないさ。そのものを描くわけじゃないんでね。小説の中は全てフィクションなんだよ。それを名誉毀損だのプライバシー侵害だの騒ぐ奴がいるけど逆に自分で宣伝してるようなもんだよ。親告罪とはいえ深刻にならんでもよさげだけどな」
「俺はまだ大学在職中の教授先生なんだよな全くな。経歴が小説ごときで汚されたくないんだよ」
「そんなの知らないよ。俺は自分の小説を好きなだけ描くだけさ」
「でどうなんだよ。こんどの半田野文夫はさぁ」
「そうね。85年夏の青春小説になっちゃう。漫画の影響で努力すれば願いが叶うとかいう単純ストーリーがあるよね。スポーツ根性物語。それに対して「めぞん一刻」が出てきた。高橋留美子は天才だよ。宮部みゆきと同世代だけど恋愛を軸にギミックなコミックを描いたんだね。青春小説は大体が後悔と斬鬼の暗い病的な終焉になっちゃうわけだけど。三島由紀夫だってそうでしょみな破滅じゃん。春樹だってなーんも救いがない。日本語を諦念で使う典型的な日本人だからね。私小説の太宰もノーベル賞獲ったのに自殺しちゃった川端康成なんかもさ。なんであんなに暗いのかな?」
「お前は希望の小説を書くの?」
「何も論点も争点も提示しなくていいわけ。社会的な関係性もいらないわけね。小説として成立さえできればね」
「そんなの意味あるの?」
「あるんだ。意義も意味も全部ある小説なんだよな」
「確かに説教とか説話とかね。人生いかにいくべきかなんてさ。くだらんわけだけど」
「お前も大学教授なら生き方の見本みたいなもんを要求されたりするわけでしょ。真面目に学校で学びました。学問を職業にすることができました。定年まで無難に生きたいです。波風立てたくありません。自分が不利になることなんか絶対にしません」
「まぁそんなもんかな」
「でもそれじゃぁダメじゃん。大学教授は歴とした知識人だろ。世のため人のために生きないとだめじゃん。安定だけの保身なんてサラリーマンじゃん。人間のために奉仕する貢献するそんな義務も使命もあるのに」
「大学は単なる職場なんだよな全くな。身の危険を犯すわけないじゃん。危なくなったら逃げるしかないんだよな全くな」
「お前ほんとすごいな全くな」
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知り合いの還暦男はマンション暮らしだ。高校時代の先輩が近くに住んでいるという。大きな団体の経理マンをしていた。既に定年であるはずだったが。どこか関連団体に転職したかどうかはわからない。
還暦男が通った高校は二年生まで市街の城郭の敷地内に校舎があった。いわゆる城址の中の高校である。先輩の経理マンとは上京してからしばらく同郷の集まりで活動した。世のため人のため郷里のため。そして一番大切なのは自分以外であるはずだったがそのボランティアの活動は多忙を極めた。1984年には大きな集いの祭典のようなイベントもあった。大学四年の先輩は勇んでいた。そのまま協会団体に就職が決まった。学校のような同好会のような親睦団体のような。世のため人のため。最後に自分のため。
その還暦男の先輩は久徳信秀。古きを温め新しきを知る。徳のようなお得感も漂わせながら。笑うとギミックな雰囲気を醸した。アニメだか漫画だかのキャラクターにも似ている。還暦男は音楽系クラブに属したが先輩の高校時代は帰宅部だった。無駄な青春の不完全な燃焼もなく堅実に抜かりなく大学受験の準備にさっさと取り掛かった。志望大学にこだわらず東大でも医学部でも良かったが確かに学力が足りなかった。大学時代は郷里の同好会のような親睦団体で勇んで活躍した。
武田節が好きだった。人は石垣、人は城。情けは味方、仇は敵、あだ~はぁ~て~え~きぃ~。
実家からの仕送りはゼロだった。奨学金もなかった。久徳は銭湯の隣の二階建ての民家に下宿した。中橋宅。三人の下宿生が二階に住んだ。早稲田の夜学生と高校時代の同級生の志田川である。一階は中橋一家が住んだ。鍵屋を営んだ。息子が2階の騒音に苛立った。ごく普通の高校生だったのだが。早稲田の夜学生の部屋は6畳で一番広かった。他はありふれた四畳半だ。清貧の性欲。三人ともそれぞれ自慰には難儀であった。還暦男の先輩の一人である志田川によれば部屋で自慰ができないので一階のトイレの中で家族団欒をバックに喘いだと言う。確かに各自の部屋は割に横断的に開放的だった。いつも誰かがやってきた。大学のラウンジのような機動力すらあった。しかしエロの解放はゼロだった。抑圧の性欲も青春の白濁と化した。所詮は住宅民家は大学とは大違いだったのだ。
さて現役合格の大学を無難に卒業し大きな団体に就職して定年まで過ごす。そして余生も余白もどうでもいいはずはなかった。久徳はこれからフリーを楽しもうという。世界を旅するのかそれとも。特に好きなことがなかった。趣味が何もない。久徳はそれでも他にラブロマンスでもやるのか。定かではない。
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知り合いの還暦男は少ないながらも年金を受給している。昔なら六十歳になれば満額の年金が貰えたのだが。百年安心とか言われていた年金保険料劇的アップの口実も嘘だった。今や年金の計画はどんどんその場しのぎの言い訳になった。
せめて払った分を全額取り戻したい。少しでもちょっとでもいい。誰よりも早く。早いもんがち。一寸先は闇。損だの得だの細かい計算はどうでもいい。減額25%のなけなしのほぼ全部を貯金すると言う。投資よりも安全の貯金だ。金融機関が今まで顧客をどれだけ騙してきたか。大損させておきながらも自分たちの利益は最優先する。これからも免責事項に守られながら。だから現金主義に徹するという。本当に大丈夫か年金男。あとから後悔してもしかたないよな。
男の決意は揺るがない。意気揚揚たる年金男になってやる。還暦だからこそ。貯金と倹約。断固支出を削っていく。まさに自分の身体をその心身を深く削っていく。自己矛盾のような倹約と節約を節制するなら。豊かさを削減しながら逆に心豊かになるとでも。貧すれば鈍するわけないと思い込んでそれでもボロは着たくないけど心は錦であるはずもないけれど。
「あのさぁあ。ボロは着てても心は錦なんて流行んないじゃぁない?」
還暦男の知人である実業家のトムが言い放ったその清貧への排撃。やっぱり貧すれば鈍する。衣食足りて礼節を知るはず。
「あのねぇえ。がめつく稼いで綺麗に使うのよぉ~」
あの勢いはどこからきたのだろう。海千山千。バクダットの盗賊を経営した。盗賊ビジネスを得意とした。客から金品を略奪する暗喩さえあった。がめつく稼ぐ。綺麗に使えばいいからカネの亡者になって奪うが如く稼ぐ。バクダットの盗賊だなんて。
片や還暦男はリーマン人生だ。業界再編の時代潮流によって悲しき中小零細の悲哀が顕在化した。キャピタリズムの弱肉強食の理どおり。業務提携から系列傘下に組み込まれて。一旦御破算のキャリア。親会社のいいなりなすがまま。謙虚なプライドも虫の息猫の額・・。
貧しても鈍しなければとかの。ミニマムに節約倹約を自慢する連中のネット配信が話題にもなる時勢だけど。やはり倹約こそが還暦年金生活のキーワードなのだ。気は緩めない。倹約の罠を賢く回避せよ。その罠とは。まるでベジタリアンのようなビーガンのような制限禁止することそれ自体が自己目的化する加速性である。過剰な一方性のその先の話はどうですか。
貯金が趣味だった男が運よく百億円の資産を構築したり、宝くじの高額賞金をたまたまゲットできたり。ラッキーな大金の招来するその後の人生の諸問題において単に金銭感覚を狂わせない明快なプリンシパルを貫けばいいだけのこと。お金のことは忘れて美味しい水とタダの読書そして歌を歌ったり楽器を演奏しながら謙虚に生きたい。そりゃお金は多いほどいい。貯金も多いほどいい。しかし無駄遣いはダメさ。幸せのバランスシート。憧れのキャッシュフロー。
明るい借金が大嘘であるように楽しき浪費は人生では絶対厳禁だ。バランスよく節制生活。人気作家の村上春樹も諭す。節約が大切。巨額の印税生活を八十年代より現在に至るまでしっかりちゃっかり送りながら。もはや人生の目的と言っても過言ではないマラソンや創作にも活用できる音楽教養にもなるであろう中古名盤レコードを集める趣味を持つ。タダ同然のフルボけたレコードでさえもっともっともっと安く。値切ってダメなら断固買わず他をあたる。かなりの吝嗇・変わり種の小説家だ。もはや作家生活も半世紀に及ぶ齢七十後半だ。今や余生なのか老後なのか。この小説家は文芸分野でもかなり特異な領域をフォローする。去り行く戦後ベビーブーマーの旗手たる小説作家なのだ。お金で自由を買ったというのだけど。
いまや活字不況だ。書籍の小説が売れない。デジタルへの遅々として進まない移行の顛末に誰しも不安がよぎる。出版販売あっての印税生活なのだから。
しかしながら村上春樹は新刊発売になる前からすでに宣伝効果抜群であって年一回の世界イベントのノーベル賞の受賞云々もかなりブームになっている。著名効果の蓋然性までも飲み込む誠にモンスター的存在の小説作家だ。つまり日本人の文芸作家は二つに大別できる。村上春樹とそれ以外である。連載を持たない好きな時に好きなだけ書きたいように書き上げた小説を皆が欲しがりオークションで一番高価な買い手が落札する。書き下ろし競売である。その他の作家たちは細々連載をもって時間的制約に抗いながら自らを締切で鼓舞してエンカレッジしながら執筆に勤しむ。かつて開高健が三島由紀夫にアドバイスを受けた。
ーー 連載はビジネスだ。書き下ろしは仕事だ。君は書き下ろすんだ。もう筆下ろしは終わってるよな。頑張れ ーー
著作の印税収入は年金受給とは違う文化的業績の応能作用である。売上に比例する経済営為そのもの。確かに年金は保険の一種だから掛け金の相関性や変数の制限性があって天文学的な発展性は全く期待できない。一応の安定安心の収入源だ。印税はとにかく当たれば大きい。売れないなら発生すらしない。一応は配当金や利子や地代と同格だ。はたまた宝くじの賞金の胸算用・・。
当然ながら年金はありがたい。悲しいほど少額でも経済的恩恵を嗜好できる。少ないけれど大切な年金だからこそ感謝を忘れない慎ましい年金男の生き方だ。人生の黄昏時。少しのお金がどれだけ勇気と想像力を沸き立たせてくれるか。挑戦だ。証明するのだ。文学の新しい胎動を覚知せよ。
総量規制された厳しき財政でもあるのだけどそこで気になるのが物欲解放の小欲知足だ。世俗を脱却した出家連中の言い草にしては神妙な叡智だと感じてならない。無限定無制限の物欲を適切に抑制して知的生産性を上げる。でも知ったからと言って楽しくないかもしれない。知り過ぎた故の悲しみもあるかも知れない。だから慈悲なのかな。我慢してもたかが知れた効果かも知れない。
無人島にたった一冊持っていくことを許された本がそんなに価値のあるものに思えない。足らないことを知る。たった一冊で事足れりなのか。好きなだけ島に持ち込んでもいいじゃぁないか。
すなわち諦めの夏かよ。しみったれた秋にならなきゃいいが。欲しがらず白けてもなお。ないものを手に入れたと想像してリアルな獲得感を実感する。まるでチャーリー・チャップリンかよ。息子チャーリーに誕生日プレゼントを無心された貧乏な父親の言い訳を信じて物欲を乗り越えた想像力の力用でもって傑作映画を数多く作って成功した後日談の美談サクセスかよ。人生に必要な勇気と想像力そしてすこしのお金。そんなにも人生は単純なのか。この三つだけなわけない。他にもたくさん必要なものがあるはずだ。確実な錬金術そしてその資金管理術。言うまでもない的確な判断と実行。確実なコミュニケーション。そのためにもリテラルが必須なのだ。どんなにAIが発達しても人間の基礎能力を衰退させてはいけない。これだけ世の中が劣化した今となってはやがてデマゴギーが人気を集め権力を掌握して王様気取りの独裁をやるだろう。だからこそ凄まじき恒産の燦然たる圧倒性をゲットキープせよ。そして憎悪と不安恐怖を煽る煽動者を見極めよ。
無人島に持っていく座右の書をどうするか。祈りと文学。確かに知足の意味は小欲とイコールに語ることではない。知的快楽と欲望総体。物欲物神の抑圧とお経やお布施の世界。少なくとも満足できること。煩悩即菩提・生死即涅槃。
足りないを知るからこそ小欲で満足して知足する。イメージと現実の無駄な対比。無限の欲望を解放するに足りる知識その見識を喚起させる芳醇なイメージを確保せよ。
あぁ還暦の年金生活。老齢に達すれば思い出や記憶が行動を狭めたりする。もう誰も気にせず好きに生きればいい。好きなだけ読みたかった本を読んだり好きなポルノを好きなだけ鑑賞したりデジタルフォトの収集や自ら街に出て面白い写真を撮影すればいい。どんどんスマホで電子書籍をダウンロードして読破すればいい。社会との接点はもうほんのはずかな飲食店やネットだけになっていく。他人の風聞も気にせずSNSも関係ない。
老齢時代の作家古井由吉の話では調査や研究の必要のない私信や古の詩歌や身辺雑記や交友関係の雑感や所感を起点にした包括的な小説記述に収斂するという。大衆受けの有無に関わらず物語をわざわざ構築しなくてもプロットの設定によって自縄自縛の罠に自らを貶めることなく散文の自由の極地を目指す。奏でる文学。歌い上げる文体。まるで小島信夫のような晩年の作風だ。加齢進行に伴う脳髄の萎縮現象や心身ともに最盛期から加速する衰退の醜態を乗り越えて。
三島由紀夫の最後の遺作『豊穣の海』の通奏低音響き渡る反小説への意気込み。東大法学部時代に学んだ刑事訴訟法のロジックにも通じる虚構の物語を構築して自らの小説創作論的な実践行動を再度虚構化しながら現実生活への過剰な反転攻勢も辞さず。輪廻転生をプロットに劇的効果を狙った半自叙そして半分反小説の試み。傍の政治運動がそのまま小説創作へのフィードバックになっていたのかどうか。世界的文学賞を巡る師弟関係の葛藤劇。互いに悲運へ向かったパラドキシカルな受賞のアベコベ。三島が貰って川端が貰わなかったならば。その受賞を巡る師への反発を見抜いた編集者の後日談。小説の人為作為の矮小化を脱却して脱物語の文学活動を実践することが新たな小説への発見になるのかどうか。
純文学を脱して大衆娯楽のエンタメ小説であればミステリーもラブロマンスもサイエンスフィクションも売れる小説が最高である。もう小説は作者から奪われる。売上至上の成れの果て。
(了)