急に幽霊が視えるようになったけど、私の日常は何も変わりません
「あ……」
──とか、もう声を出すこともなくなった。
高架の下に女の人が立っている。
どう見ても不自然な立ち方で、ずっとそこに立っている。
会社帰り、いつもは通らない道を、たまたま歩いて帰ったら、視てしまった。
ふつうに若い奥さんという感じの女性が、こちらに背を向けて立っているだけなのに、明らかにおかしい。
足が──足首から下が、ない、その女性は、生気を感じさせない立ち方で、ずっと重苦しくそこに立っている。っていうか浮いてる。
彼女の周囲の空気が淀んでいる。黒と灰の混じり合った冷たい渦が、どよーんと音もなく彼女をゆっくりととり巻いている。
たぶん、あれ、幽霊だ。
三か月ほど前からだろうか。私は急にそういうものが視えるようになった。
私、平凡な26歳のOLなのに、きっかけがあればこんなことになってしまうのだな。
大福餅を喉に詰まらせて死にそうな目に遭った時からだ。救急車で運ばれて助かったが、たぶん、きっかけはあれだ。あれで霊界と近くなってしまったんだ。
視えるようになりたての頃はいちいち怖がってたけど、慣れちゃいました。
幽霊って、意外なくらい、いる。1日に3回ぐらいは視る。
でもただそこにいるだけで、特に何も危害は加えてこないし、霊障みたいなものもないみたいなので、慣れました。近づくのはさすがに怖いけど、日常でたまに出会う不思議でおかしなデザインの家みたいなもん。こちらが気にしさえしなければ、どうってことはないのだ。
動画に収めてネットに投稿しようと考えたことはある。
でも、ダメなのだ。幽霊って、スマホを向けてみると、消えてしまうのだ。
よくある心霊写真とか心霊動画って何なんだろう。進んで映りたがる幽霊もいるのか、それとも全部作り物なのか、どっちかだと思う。
一応バッグからスマホを取り出し、カメラアプリを起動して、向けてみると、やっぱり高架下の女の人はそこに映らなかった。
ま、これからこの道は通らなければいいだけのことだ。あれが地縛霊ならたぶん、ここを通ればいつもあそこに立っている。
幽霊って、動き方や現れ方にパターンがあるのだ。その同一のパターンをいつでも繰り返してるというのが、この3ヶ月で私が知ったことだった。
これからこの道は通らないようにしよう。わざわざ視たいものではない。
マンションへ帰る前にスーパーマーケットに寄ると、駄菓子売場でずっとしゃがみ込んでチロルチョコをじっと見つめている男の人がいた。
幽霊だろうとは思う。でもたまに幽霊っぽいだけのおかしな人もいるから紛らわしい。
スマホのメモを見るふりをして、隠し撮りするみたいにカメラを向けてみると、やっぱり映らなかった。
チロルチョコに相当な未練がある幽霊なのだろうか。
マンションの入口の脇に、長い黒髪を顔の前に垂らした女の人が立っている。この人はいつもここに立っている。この人を見たら帰宅した気分になって、心が安らぐようになってしまった。
部屋に出られたら嫌だけど、幸いここに幽霊はまったくいない。
プライベートな空間でまったり寛ぎ、明日の仕事のための充電の時を過ごした。
☆ ☆ ☆ ☆
朝には幽霊を見ることはない。
よっぽど人気のない、薄暗い森の中でも通らない限り、出ることはないのだろう。朝の町にはそんな気配もない。
爽やかな朝だ。でも仕事に行く時の気持ちはいつも面白くはない。
今日もぱぱっと終わらせて、帰って寛ぎタイムを楽しむぞ。そう思いながら歩いていると、珍しく朝からへんなものを視てしまった。
歩道の脇に花が挿してある。ワンカップの小さな瓶に挿されたその花のすぐ隣に、幼稚園児ぐらいの頭部のない女の子が座り込んでいた。これは初めて見る幽霊だ。スマホを向けてみるまでもなく幽霊だった。
その前に、私と同い年ぐらいの、グレーのスーツ姿の男の人がしゃがみ込み、女の子を観察するように、じっと見ている。
「な……、何視てるんですか」
思わず話しかけてしまった。
「もしかしてその子が視えてるんですか?」
「えっ?」
男の人が振り返った。
朝によく似合うような、爽やかな顔をした人だった。
「君も、視えるの?」
彼の名前は大倉澤男。奇しくも同じ会社の別の部署に勤めている人だった。
私たちは急接近することになった。へんな意味ではなく、単に同じ『視える人』にお互い、初めて会ったからだ。
会社帰りに待ち合わせた。
噂にならないよう気遣って、会社から離れた公園で。
私がベンチに座ってスマホで面白動画を観ていると、遠くから爽やかに声をかけられた。
「水戸さーん」
名前を呼ばれ、振り向くと、彼が手を振りながらやって来ていた。
グレーのスーツはピシッとしていて、髪型もふんわり好印象な人だ。
きっかけは単に同じものが視えてしまう同士だったけど──水戸泉26歳、四年振りの春が来るかもしれないという予感がしていた。
二人で待ち合わせて、どこへ行くかというと、昨日の高架下の地縛霊を一緒に見に行く約束をしていたのだった。
「ふつうの主婦とかに見えるんだけどね、明らかにおかしいの」
私は足が地面から浮いていることはわざと隠して話した。見せてから彼がどんなふうに驚くのか、楽しみにしたのだ。
「ふーん。幽霊って、ふつうの人っぽいやつでも明らかに『なんかおかしい』よね」
「そうそう! わかるー? なんかおかしくて、明らかに人間じゃないのよ」
「かと思えば、幽霊に違いないと思ってた人がそうじゃなかったりね」
「あるあるー! 幽霊にしか見えないのに人間なやつって、いるよねー! たまに間違えちゃう」
私たちは会話がものすごく弾んだ。
お互い同じものが視える人に初めて出会えて、嬉しかったのだ。
彼女はやはり今日も同じところに立っていた。
高架下で、こちらに背中を向けてじーっと立っている。足首から下がない。
「おおー? 浮いてるねぇ」
彼が感動してくれた。
「大抵の幽霊って足があるけど、ないの初めて見た」
「ね? 面白いでしょ?」
昨日は気味が悪いだけだったけど、今日の私ははしゃいだ。
「スマホに映ってくれたら写真撮るんだけどなー……」
そう言いながらスマホを向けると、やはり画面の中で消えてしまう。肉眼で見るとまた現れる。
彼も隣で自分のスマホをかざしていた。
その中に自分の写真が入ることを妄想した。すると、なんだか私もあの幽霊さんと同じように、地面から足が浮き立つ心地がした。
「あんまりジロジロ見てると、ついて来られたりしたら嫌だな」
彼が心配そうに言った。
「帰ろっか」
「そんな幽霊いないよー。少なくともあたしは出会ったことないな」
彼を安心させるように、私は言ってあげた。
「でも確かに、万が一つきまとわれたら嫌かも……。幽霊にも色々なのいるのかもしれないし」
「じゃ、俺、こっちだから」
彼は手を振り、離れていった。
でも、私が「また幽霊ウォッチングしようね」と言うと、快い笑顔で約束してくれた。
幽霊が視えるようになってよかったと初めて思った。
これから私の日常はだんだんと変わりはじめるのかもしれない。そんな予感がしていた。
★ ★ ★ ★
その日は二人とも帰りが遅くなって、街はすっかり暗くなっていた。
彼とはLINEの交換をしていたので、帰り時間を知らせ合い、毎日一緒に帰るようになっていた。
「ねぇ、帰りにどっか寄っていかない?」
「あっ、ごめん。まっすぐ帰らないといけないんだ」
勇気を出して私が誘っても、彼は必ず断った。
部屋で待っている彼女さんでもいるのだろうか? そう思うのだけど、それを聞く勇気はなかった。
「大倉さんて、付き合ってる人、いるの?」なんて聞いたら私の下心がバレバレだ。彼のほうから何か話してくれるのを待っていたけど、彼は自分のことは何も話してくれない。
もう私は完全に大倉さんのことが好きになっていた。
同じものが視える仲間意識から、仕事帰りに幽霊ウォッチングをする趣味を共有する友達になり、そして今は片想いの相手だ。
彼と並んで写る写真が欲しかった。でも何と言ってお願いしたらいいんだろう。
「あ……」
彼が前方に何か見つけ、声を上げた。
「ねぇ、水戸さん。あれ、あれ見て」
見ると、前方をおかしな人が歩いていた。
頭をぶよぶよと左右に揺らして、チェックのシャツを着た若い男の人の後ろ姿が前を歩いていく。
「明らかに……なんかおかしい人だね」
私はうなずいた。
「幽霊かな? それとも幽霊にしか見えないおかしな人かな」
「どっちだと思う?」
「賭けよっか?」
「俺は幽霊だと思う」
「うーん……。じゃ、あたしは人間で」
「何を賭ける?」
そう聞かれて、私は即答していた。
「あたしが勝ったら、カラオケ奢って!」
あのおかしな人が人間でありますようにと願って、そう言った。二人きりのカラオケルームで、一緒に顔を並べて、笑顔で写真を撮るんだ。
「じゃ、俺が勝ったら──」
倉田さんはそう言って、口ごもった。
「その……。勝ったら言うよ」
なんだろう。
もしかして、「勝ったら俺とつきあってください」とかかな……なんて、期待してみた。
「じゃ、スマホで視てみよう」
二人でそう言って、それぞれのスマホを取り出す。
そしてゆっくりと、前を歩く人に気づかれないように、そんな盗撮みたいな失礼な行為を働いていることを知られないように、二人でスマホをその人の後ろ姿に向けた。
人間でありますように。
そう祈りながら──でも、幽霊でもいいような気がしていた。
彼が勝ったら何を言うのだろう? それを聞いてみたくもあった。
どっちに転んでもいい賭けに、そして私は勝った。前を歩くおかしな人の姿は、しっかりとスマホの画面に映っていた。
「人間だ!」
私は思わず大きめの声を上げてしまった。
「たぶんイヤホンで音楽でも聴いてるんだ。それであんなふうに、頭がぶよぶよ左右に揺れてるんだ」
「ちぇ〜……、負けたかぁ。絶対幽霊だと思ったんだけどなー」
悔しがる彼に、私はスマホを向けた。
「約束だよ? カラオケ奢り! 今から……」
スマホの画面を見て、言葉が止まってしまった。
画面に、大倉さんが、映っていなかった。
「あ……。気づいちゃった?」
彼が寂しそうに笑う。
「もし俺が勝ったら、『つきあってください』って言うつもりだったんだけどな」
私は即答していた。
「お……、お断りします」
「カラオケは?」
「いっ……、行かない!」
「そっか……」
彼の表情がもっと寂しそうになった。
「せっかくいい人見つけたって、思ってたんだけどな……」
そして私の目の前で、夜の闇に溶けるように、彼の姿はすうっと消えてしまった。
☆ ☆ ☆ ☆
結局、幽霊が視えるようになっても、私の日常は何も変わらなかった。あれから大倉さんは私の前から消えてしまい、部屋に現れたりするかとビクビクしていたがそんなこともなく、あっさりとあっちの世界へ戻っていったようだ。
今になって思う。人間とか幽霊とか、気にせずに、どっちでもよかったんじゃないのかなって。
幽霊が視えるなんて、口にしたらふつうの人間の男性からは気味悪がられて避けられることだろう。視えてしまうんだから仕方がないじゃん。視えてしまったものをスルーできるような図太さも私にはない。
同じものが視えて、同じ景色を共有することが出来るなら、相手が人間とか幽霊とか、気にすることはなかったんじゃないのかな。
そう思うと無性にまた彼に会いたくなってしまう。
カラオケルームに一人で行った。
彼はどんな歌を歌ってみせてくれるつもりだったんだろう。
一人カラオケは前からよく行っていたのに、隣に誰もいないことが寂しく感じた。
つきまとってくれてもよかったのに。
そんなバカかもしれないことを思いながら、一人でハードロックを熱唱した。たまにドアの小窓を気にしてみたけど、覗いてくれてる人は誰もいなかった。