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倫敦奇譚  作者: 如月翡翠
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境目の街1

一話完結にしたいプライドを捨てて、長いために二話構成になりました。悔しいです。

 あの衝撃の日からはや二週間。僕は《雛罌粟の貴婦人》の昼のカフェの時間帯に足繁く通っている。まだ夕暮れ時に店に入る勇気は僕にはないから、不思議の中心に存在する彼女に話を聞くのは昼の時間がいいと思い来ているのだが、コーラルは昼は眠いと言って、姿を見せることはごく稀。その結果ローズに接客してもらっている。

 この数日通ううちに気付いたことは、主に二つ。一つ目は、この店は意外にも繁盛しているということ。昼時は、ランチの為に勤労者で席が埋まる。このランチタイムの終わり際がスムーズに入る為の狙い期なのだ。ローズともゆっくり談笑できるし、ちょうどいい時間。その彼女曰く、昼前には上等な服装をしたご婦人方がお茶会に。午後にはアフタヌーンティーを楽しみに客が集まるそうだ。店の準備時間と称する時間には、近所の子供達がやって来て宿題を見てもらうらしい。そんなに忙しくて休む時間があるのか、と彼女に聞いてみたところ、彼女は優しく微笑んで『午後の三時ごろにはバイトの子が来るので大丈夫です』と話していた。

 二つ目は、昼間でも妖精たちは店の中を遊び回っているということ。まだ見えていなかった時は、あんなにも落ち着いていて雰囲気の良いカフェだったのに、次に来た時にはそのイメージは散って、新たに無法地帯と言う認識に塗り変わった。人間の客が居ようがお構いなしに、天井に垂れ下がるトルコランプを揺らして遊び、いつか落ちるのではないかとヒヤヒヤさせられている。だが、そんな光景にももうすっかり慣れた。ピクシーたちに勝手に髪を三つ編みにされていても何とも思わず、愚痴をこぼしながら食事ができるほどに。


「今日はミシェルさんをランチに誘ってみたんですけど断わられました。奢ってもらおうと思ったのに」


そう。それはついさっきの事。職場で少し遅めの昼休憩になった時に一番に彼に話しかけた。『一緒にお昼食べに行きませんか?』と。一緒に行ってくれることを期待したが、その期待はことごとく崩れ去った。『俺弁当あるから、新人くん一人で行って来なよ』と頭を撫でられたのだった。まさか、あのだらし無い上司に自炊の能力があったとは思っても見なかった。面倒だからと、取り替え子事件の処理を押し付けたあの上司が真面目に弁当を作っているとは。何よりもそれが衝撃的で悔しくもあった。だって、僕の方が自炊できないから。


「そりゃ、ヨナには愛妻弁当があるから来ないだろうな」


いつの間にか隣に座っていたコーラルは頬杖をついて、ハンバーグランチを頬張る僕の姿をニコニコと眺めている。その気配のなさに食べていたハンバーグを喉に詰まらせそうになるが、一度落ち着いて焦らず、ゆっくりと嚥下した。


「……今、なんて言いました?」

「ん? 愛妻弁当持ってるやつは店にわざわざ来ないって言ったんだ」

「奥さんいたんですか?」

「奥さんどころか、子供もいるぜ? あいつ」


『二人な』と人差し指と中指を立てて満面の笑みで右手のピースサインを見せてくる。暫しの沈黙の間、彼女がコロコロと飴を口の中で転がす音が聞こえるだけで、只々僕の反応を見ているのだった。ハッカの爽やかさと鼻腔を突く少しの刺激に連れられた、上司が既婚者と言う事実に驚くほかない。唖然として、彼女の示したピースサインを見ているとその手はカウンター席のテーブルに移動させられた。『なんだ? あいつに惚れてたのか?』とニヤニヤしながら彼女は尋ねてくる。答えにイエスの期待は無い。ただ純粋に楽しんでいるだけなのだ。


「いいえ、それは無いです」


一応わかってはいると思うが、キッパリと否定してから『ただ、想像ができなかっただけです』と繋げる。彼女は表情を変えることなく黙って聞いていた。


「あの人面倒臭がりなので家事とか手伝ってくれなさそうですし、育児にも消極的そうなので。夫人が大変なのではないかと心配なぐらいです」

「ははっ、そりゃ見て見ないことにはわからないだろうなぁ」

「結婚できてるのがびっくりですよ」

「若く見えるが、あいつももう中年だしな。いやぁ、時間は早いな〜」


『しみじみ思う』と本人は言っているが、それにしては軽快な表情をしている。本当にそんなこと思っているのか、口先だけではないのかと疑わしくなるほどであった。


「コーラルさんはお会いしたことあるんですね」

「ん、まーな。最近は会わないようにしてるけど」

「どんな方ですか? 気になります」

「ん〜、そうだな……聡明で、信心深くて、意地っ張りで、変なところで世間慣れしていないところが可愛らしい方だったな」


フッと目を細めて、過去を思い出しながらそう語る。どれだけ彼女にとって思い入れのある人物なのかがすぐに伝わってくるのだった。この人がここまで絶賛する人に会ってみたいと思っていると、一息置いて最後に『彼女は凄いんだぞ。かっこいいんだ』と誇らしげに、嬉しそうに、ちょっぴり寂しげに笑った。何か悲しいことを思い出したのかと感じ取り、別のことに話題を逸らす。


「……そっ、それにしても、不思議な空間ですよね。こ、こんなにも妖精がいるなんて」


ランチを愉しむ人間に混ざって、多種多様な妖精たちが飛び回ったり走り回ったり、中には人間に悪戯を仕掛けている光景を見回しながら流し目で彼女の表情を見る。先程の笑顔をすっかり変えて、彼女も周囲に目を向けた。小さな蝶の羽が生えた妖精は客の髪をいじって遊び、小人はテーブルの下でカードゲーム。電気をつけたり消したりするのもいれば、カウンターの隅っこに座ってビスケットを無我夢中で食べているのもいる。その自由さはまるで子供のようだった。


「まあ、妖精の存在を信じない人間には私たちは見えないからな。今のところ人間に危害は加えてないから多めに見てる。あいつらの悪戯の結果、幽霊が出るカフェで評判になってこんなに繁盛してんだ」


『ラッキーと言えばラッキーだな』とコーラルは苦笑いした。怖いもの見たさで通う常連客が多く、たまにテレビ取材に来ては何やら色々調査して帰って行き、それが放送されることで心霊マニアがやってくるらしい。『妖精は目の前にいるのに、そんな事には気づかない人間たちは滑稽だ』と彼女は言った。だがその話にはおかしな点がある。ずっと疑問に思っていたことを聞く時が来たのだと直感した。


「何でコーラルさんは信じていなくても見えたんですか?」

「意外に鋭いな、少年」


少し感心したようにコーラルは体の向きを変え、再びカウンターテーブルに肘を置いて頬杖をついた。


「妖精の姿が人間に見えるには四つの方法がある。一つ目は人間が妖精を信じること。一番メジャーで一番楽な方法だな。二つ目は妖精が見てもらいたいと強く思うこと。こっちはごく稀な例だ。気を抜けばすぐに見えなくなる。飽き性な妖精には向いてない方法だな。三つ目は、そう言う能力のある妖精だな。ヨーロッパの他の異種族管理官や人間に害をなす妖精はコレだ。最後に四つ目だが、これは私だけだ」


黒のリボン帯のボタンを外し、ワイシャツのボタンを一つ開けて自身の首に掛けている黒い紐を引っ張り出す。徐々に見えてくる黒いレザー製の紐の先には、直径2cmほどの赤い石が揺れていた。見事な楕円形の何の不純物も混ざっていない真っ赤な珊瑚のように見えるが、何かが違っていた。似ているが、存在感が普通の宝石とは違っている。真紅の奥底で蠢く禍々しさを感じるが、同時にその赤の滑らかさと輝きが魅力的な奇怪な石であった。


「この石は妖精にとっては唯の人間の前に姿を現すだけの石だ。だが人間にとっては違う。かつて錬金術師たちが求めた卑金属を貴金属に変える力を持つ石。人はこれを、“賢者の石”と呼んだ」

「“賢者の石”って……、確か不老不死になれる凄い石でしたよね?」

「ああ、そうだな。でも、妖精は生きてないから死ぬこともない。それに、常時人間に姿を現し続けるのは余程の物好きだけ。だから基本的に不必要。ただのちょっと変わってる石だ。私たちには」


不老不死になれるなんて言う魅力的で、古来から人間が喉から手が出るほどに望んだ伝説的な石をちょっと変わった石呼ばわり。さらには妖精にとっては不用品と言われ、やはりこう言うところで人間とズレが生じるのかと顕著な違いを痛感する。


「ちなみに譲ってもらえたり」

「無理だな。さっき妖精には不必要とは言ったが、私は物好きの部類に入るからな。だからダメ」

「ですよね」

「人間辞めて得することなんてないぞ、少年。妖精みたいに中途半端で人間を模倣しただけの不完全な存在じゃなくて、成長が出来て複雑な感情を持つ完全な存在の人間。そっちの方がいいじゃないか」


不老不死で気儘な妖精の方が明らかに愉しそうに思う。それに、明らかに彼女の方が確立した立派な人間のようだ。なぜそこまで妖精を卑下するのか。これこそ隣の芝生は青く見えるということなのかと自己納得するのだった。


「まあ〜、私も最初は妖精の方がいいこといっぱいだと思ってたぞ。でもなぁ、長く生きてると……。いや、時間じゃないな。自分とは違う、とんでもない奴に会うと考え方も変わってくるもんなんだ」


『少年にもそんな奴ができたら良いな』と笑って、彼女は何食わぬ顔でコーヒーカップに口をつけた。


「それ、僕のですよね?楽しみにとっておいたんですが」

「冷めてて勿体なかったな。コーヒーと紅茶は熱いうちに飲んだ方が美味いぞ、少年」

「猫舌なんです! お代はちゃんと貰いますからね!」

「あー、はいはい。そんなことは今どうでも良くて、少年このあと暇か? 買い物付き合ってくれ」


ポケットから財布を取り出し、2ポンド硬貨を空のカップの前に置いて、先程賢者の石と説明していたネックレスを再び服の中にしまった。ワイシャツのボタンを一番上まで留めて、リボン帯をつけて彼女は僕の返事を隣で待っている。


「特に予定はありませんよ。それに仕事は貴女の方を優先しろと上層部から態々通達がありましたし。ほんと、何者なんですか」

「少年だってまだ自分が何者かわからないだろう? それと一緒だ。ちょっと荷物取ってくる。ああ、コート忘れるなよ。向こうは死ぬほど寒いぞ。準備できたら裏庭に来い」


指示の嵐が過ぎ去り、彼女は二階へと姿を消して行った。強奪されたコーヒーカップのそばに置かれた硬貨を回収し、財布に入れる。本気で言ったわけではなかったのに、妙なところで律儀な性格を知ってしまった。目の前の3分の1程度のハンバーグは気付けば冷めていて、少々残念に思うが、急いでそれを掻き込んでコートを着る。すると、ローズの優しい声で呼び止められた。


「グリフィンさん、良かったらこれ使ってください。マフラーと手袋。おばあさまが死ぬほど寒いと言う時は本当に寒いので。あとカイロもお渡ししますね」


きちんと畳まれた赤いマフラーと同じく赤い手袋。そして、メガネの下から温かい眼差しが送られる。ありがたい気遣いを受け取り、『ありがとうございます』と返しながら、彼女にランチの代金を手渡しせば『ちょうどお預かりします』とまた笑顔を向けられて嬉しくなる。『裏庭までご案内しますね』と声をかけてから彼女は歩いて、階段横のドア前で、マフラーと手袋を着ける僕を待っていてくれた。昼間だと言うのに薄暗い廊下を歩き、一番奥のドアの前で彼女は歩みを止めた。その時、明らかに間取りが歪で、奥行きが広過ぎていることに気づいたがもう今更気にするほどのことではなかった。


「この先が裏庭です。お気をつけて行ってきてくださいね」


柔らかな笑みを浮かべて、彼女は元来た道を帰って行く。その後ろ姿を見送ってから、意を決して金色のドアノブを回した。

 ドアを開いた先は花の匂いが舞う庭園。今日は一日曇りのはずが、なぜかこの庭だけは快晴だった。一番に目を引くのは中心にある古いが、きちんと掃除の行き届いた井戸。その周りを囲むように多種多様な植物が植えられている。魔法使いが薬草を育てるための庭園だと言われれば頷ける庭であった。お世辞にも華やかで美しい庭園とは言えないが、親しみのある美しさを持った庭。その中心の井戸の前に立つコーラルが手招きをして僕を呼んでいた。


「こっち来いよ、少年」


その井戸まで続く赤煉瓦の敷き詰められた、人ひとり分ほどの幅がある道を歩いて行く。この裏庭を囲う白いペンキが塗られた木製のピケットフェンスの奥はボヤけていて見えないようになっている。現実感のない空間であった。コーラルの元に辿り着くと、彼女の足元に取り替え子事件のトロールたちがしがみついているのを見つけた。


「あれ?コーラルさんと仲良くなったんですね」


最初はあんなにも彼女に怯えていたのに、今ではすっかり気を許しているような表情を感じる。表情、よくわからないけど。全然変わってないようにも見えるけど、なんとなくそんな気がして嬉しくなった。


「ん?基本的に妖精は強い者、尊敬できる者、恩がある者について行きたがる習性があるから。仲良くなったと言うより、こいつらが服従したの方があってるな」


もう少しマシな言い方はなかったのだろうか。そう言われるとこの二匹が可哀想に思えてくる。小さな母子に視線を落とすと、洋服のポケットいっぱいに小さなビスケットやドライフルーツが詰め込まれている。きっと服従したのではなく恩を感じた方なのだと悟って、安堵と嬉しさが溢れ、自然と笑顔になった。すると、小さなトロールがトテトテと近寄ってきてポケットから一個ビスケットを渡してきた。屈んで子トロールの目線に近くすると、その目は少し輝いていた。


「あげる」

「いいんですか?」

「うん……、あ、ありがと……いっしょに怒られてくえて」


感謝の言葉を口にする子どもトロールは可愛いく、目尻が下がりそうになるが、あの一件はわざと一緒に怒られたわけでは決してないという心のつかえが邪魔をしてくる。と言うか恥ずかしいのでその話は持ち出してもらいたくない気持ちの方が大きい。何もしていないのにコレをもらって良いものかと思い、腕を組んでこちらを見下ろすコーラルの顔をチラリと見るとゆっくり彼女は首を折った。


「ありがとうございます。大切に食べますね」


恥ずかしそうにトロールは頷く。初めて見た時はあんなに醜いと思ったのに。今では可愛く見えてきた。撫でたい欲求がまさって、その小さな頭を指先で優しく撫でると、頭をその手に摺り寄せてきた。まるで小動物のようだ。


「飼ってもいいでしょうか。癒されます」

「ダメだ。そいつら向こう側に送るために連れてきたんだから」

「向こう側?」


僕が立ち上がりながら問いかけた疑問をよそに彼女はバッグの中から瓶を一つ取り出して、コルクの栓を開ける。中の毒々しい紫色の液体が揺れたのを見て嫌な予感がし、後退りをしてしまった。だが、彼女は問答無用で僕の頭の上で瓶をひっくり返した。冷たい感触を覚悟して目を瞑っていたが、それが一向に訪れる事はない。『あれ?』と目を開いてみると、視界にキラキラ輝く紫色の粒子がゆっくり落ちていく様子が映る。神秘的な光景であった。


「目は閉じておけ、入ったら最悪失明するからな」


無数の粒子の向こう側で彼女は真剣な面持ちでそう言った。それを信じて、すぐに目を閉じる。暫く目を閉じていると、『もう開けていいぞ』と声をかけられた。何をかけたのか問いただそうと、目を開いた瞬間。足首に硬い何かがぶつかった痛みが走ったかと思えば、足の裏が地面から切り離され、世界が反対になった。そして、次に見えたのは石を積んだ壁と丸い光。井戸に落とされたのだと気づいたのは、その白い丸の端から出てきた黒い小さな丸を見た時だった。コーラルの頭だ。彼女が足払いをかけて井戸の中に落としたのだ。

 段々と白い丸が小さくなって行くのを漠然と眺め叫びながら、このまま死んでしまうのかと覚悟を決め始めた時、パッと当たりが明るくなった。そして、背中と後頭部に衝撃と冷たさを感じ、無慈悲な寒さと視界を覆う澱んだ空から落ちてくる白く小さな粒が見えた。暫く動けずにそのまま大の字になってからゆっくり腕に力を入れて、地面から上半身を起こそうと試みる。


「いったた……」


上半身を起き上がらせてみれば、目の前には古くさいボロボロの井戸が佇み、周囲には全く見覚えのない廃れた様な街の景色が広がっている。知らない場所で独りと言う不安が胸を侵食し始めたとき、井戸の中から颯爽と人影が飛び出した。ヒールが地を踏みつける音を響かせたあと、バサッとマントが風に靡く音がした。その華麗なる着地を披露したコーラルは、未だに上半身しか起き上がっていない僕を見下ろして笑いながら手を伸ばす。


「立てるか? 少年」

「……なんの説明もなく井戸に落とすのやめてくださいよ」


その手を取ることなく自力で立ち上がり、背中の汚れを払っていると彼女は『悪いな、さっさと行って見てもらった方が早いと思ったんだが』と悪びれもせずに言う。


「そういうところが雑です! 大雑把です!」

「でも少年。落とす前に説明したら絶対質問攻めするだろ?」

「うぐっ、それは……そうですけど」

「ほーれ見ろ、落とした方が早いじゃないか。いいから行くぞ。早く買い物終えて帰らないと店の開店時間になるからな」


足速に歩きながら灰色のフードを頭に被り始める後ろ姿を追いかけようと一歩進むと、彼女は『ああ、大事なこと忘れてた』と顔をこちらに向けた。


「絶対に人間ってバレるなよ。そのために匂い消したんだから。あと逸れないようにしっかりついて来い」


 まばらな大きさの石が敷き詰められた凸凹でこぼこの道を、トロールたちを肩に乗せるコーラルの隣を歩いて行く。と言うか、彼女が僕の歩くスピードに合わせてくれている。初めてみる光景に終始驚っぱなしな僕の横顔を彼女はくすくす笑いながら見ていた。《レプラコーンの靴屋》に《クラリコーンの醸造場》、《モリガンの劇場》に《エルフの魔術屋》、《グレムリンの整備工場》。御伽噺おとぎばなしの世界に入ったのではないかと錯覚するほどに魅惑的な看板たちから目が離せない。


「ここは妖精の国と人間の国の境目の街だ。一番奥を見てみろ」


そう言って彼女が指差したのは息を呑むほど豪華絢爛な宮殿だった。遠い距離でもはっきりわかるその荘厳さは人間の手によるものではないと一瞬で感じ取れる。


「あれが妖精の宮殿。名称は、勝手に夢幻宮殿って呼んでる。女王ティターニアオベロンが住んでるんだ。あと、向こうにある川はとても綺麗な川なんだが、ネス川と繋がってて時々人間が迷い込んでた。今までは人間界側からも入れたんだが、とあるバカが入り込んでからは入れないようになった」


その人物が何をしでかしたのかは聞かないでおくが、その話をしている隣の人は楽しそうだった。妖精の国というのは面白くて、彼女曰く井戸は大抵こちらの世界と繋がっているそうだ。井戸に飛び込む勇気さえあれば来られるらしいが、実際来るのは酔っ払いと自殺者だけだったそうだ。現代では井戸自体が廃れた文化であるために迷い込む人間はめっきり居なくなったとか。


「こちらに来た人間はどうなるんですか?」

「治安維持隊のディーナシーが見つけて人間界に案内してくれればラッキーだがそれ以外は食われるだろうな」

「く、食われる……」

「ああ、妖精は必ずしも人間に友好的な存在じゃない。確かに一定数友好的なのはいるが、反対に悪意を持つのもいる。悪戯で済む奴もいるが、人間を食うのもいる。人間の肉は旨いらしい。食べたことないから知らんが、知り合いはそう言っていた。だからさっき香をかけた。あれは人間特有の匂いを上塗りする為のものだ」


その言葉を聞いてホッと胸を撫で下ろす。少し安心した。だがそれも束の間で『でもわかるやつはわかる。香の下の本来の、人間の旨そうな匂いがな。だから逸れるな』と強く言った。


「はい!」


『良い返事だ。こっちだ。まずはこの店』と彼女は僕の手を引いて、店にそそくさと入り、ドアベルが鳴り止まぬ間にドアを素早く閉めた。目の間には床から60cmほどの高さの段差があり、その段差の向こう側に座るひとりの小人がこちらを見上げていた。段差だと思っていたのは受付カウンターだったらしい。奥の工房の様な場所で、熱した金属を打って錬える老人の小人たちがせっせと働いているのが見えた。


「秀才コーラル・フォーサイス様も大変だの。お忍びでご来店か」

「ああ、大変だよ。バレたら妖精集ようせいだかりで揉みくちゃにされるんだから」


ため息をつきながら、薄ら雪を被ったフードを下し、顔を見せる。そして、小さなカウンターに座る幼児と同じくらいの身長の白髪白髭のお爺さんの前に正座して目線を合わせた。そして持っていたバッグの留め具を開けて、中から古びた布製のケースに包まれたものを取り出してカウンターに置いた。


「煙管の定期メンテナンスを頼む」

「まだ使っとるのか」

「思い入れのある品だからな」

「お主の能力ならメンテナンスの必要は無いと思うがの」

「ん? 人間みたいでいいだろ? 態々店に行って、綺麗に磨いてもらう。趣深くて楽しいぞ」

「ワシにはわからぬ感性だの」

「お代はどうすればいい?」

「前回の支払いで事足りるわい。全く。お主の能力はお釣りが支払い切れんぐらいなんだからの。正直迷惑だの」

「そんな文句言われてもどうしようもないだろ。それで? いつ取りに来ればいい?」

「このくらいの品、二時間で終わるわい」


『ならまた二時間後に』そう言って正座から立ち上がり、再びフードを被る。そして、ドアに手をかけて開けると寒い風と粉雪が店に入り込んできて、先程のお爺さんが文句を言っている。だがそんなことお構いなしに、彼女は振り返り『またな』と笑った。扉が閉まる前に僕も外に飛び出した。歩き出す前に振り返って、その店の看板を見てみると《ドワーフの修理工房》と書かれていた。

 また再び、コーラルの隣を歩いて街を物色する。次の店に入るのは思いのほか早かった。次に入ったのは《ノームの花屋》。中は両サイドの壁に花屋らしく何種類もの花が生けてある。見たことない花もあるものの、馴染みのある薔薇や季節外れの向日葵、ガーベラなども生けてあった。そこまでは人間の花屋とほぼ一緒。大きく違っていたのは店内の中央を陣取る何にも植えられていない丸い花壇。ただ土だけが敷き詰められている奇妙な花壇だった。店の奥に目を向ければ、奥には先ほどの店とは違い、人間の世界のカウンターと同じ高さのものがある。一番奥の壁には、一面の引き出しが存在していた。天井まで続くその何百もの引き出しに言葉を失う。


「イラッシャイ……」


くすんだ緑色のマントを羽織り、フードの上には同じ様な色のとんがり帽子を乗せて、見えているのは白い髭と白い目の丸だけと言う不思議な格好の小人。その背丈はトロールたちと似たような身長で、店の奥のカウンターにちょこんと置物のように立っている。なんとも不思議な花屋だ。


「白いポピーの花をくれ。いつも通りに」

「……マイド……アリ……ソッチイッテ」


カウンターから飛び降りて、トテトテと歩いて来て途中で振り返る。そして、またこちらを向くと『コーラル……タネ、トッテキテ……ワスレタ』と照れたように頭を掻く仕草を見せた。呆れながらも、彼女はカウンター奥の引き出しに向かって歩いて行く。


「ああ、はいはい。何段目だっけ」

「ミギカラ、サン……ウエカラジュウイチ」


指示通りの位置にある引き出しを引き、中から包みを一つ取り出して投げると、小人の小さな手がキャッチしてその紐を緩めた。中から出てきたのは1mm程度の黒い粒。ポピーの種だった。それを慣れたように花壇に蒔く姿を見ていると隣に戻ってきたコーラルと彼女の両肩にいるトロールもその様子を見守り始めた。


「これから何が始まるんですか?」

「この花屋ノームの能力は“人間がつけた花言葉の通りの効能を持つ花を咲かせること、その種を作ること”だ」


種を蒔き終えたノームは花壇の縁に移動すると何やら呪文を唱え始めた。人間には聞き取れない呪文に反応して、小さな芽が土から頭を覗かせたかと思えば、勢いよく茎を伸ばし葉を茂らせ、あっという間に蕾をつけた。それがゆっくりと膨らみ始めると、真っ白な大輪開花した。その後も、一つ、また一つと緑の中から白がポツポツと現れる。思わずトロールたちと一緒に拍手をしてしまうほどに見事な芸当だった。咲かせた当の本人は何一つ変わった素振りなく花壇から降りて、今度はカウンターの下に潜り込み、剪定鋏せんていばさみを二つ持ってきて僕と隣の彼女に手渡した。


「ツミトリ……コーラルト、オマエデ」

「はい」


鋏を受け取った後、花壇の中に入っている間にコーラルは乗せていたトロールを肩から下し、花壇の縁に座らせる。するとその隣に花屋ノームも腰を下ろした。その並んでいる三つの小さな背中に癒されていると、隣で白いポピーの茎を切る音が聞こえた。それに触発され、僕も摘み取りの作業に取り掛かる。パチンパチンと軽妙なリズムで切っていき、何本か左手にポピーを持った時『花の匂い、嗅ぐなよ。記憶が飛ぶからな』と隣で作業するコーラルは言った。


「記憶が飛ぶ?」

「白いポピーの花言葉は“忘却”だ。匂いを嗅いだ人間は眠くなり、目が覚めると妖精に関する記憶が綺麗に忘れ去られる。一緒にいる時間の長いやつほど時間がかかるから、少しなら問題ない」


そう言えば二週間前のあの事件の別れ際、若夫婦に白いポピーの花を渡していた。あれは記憶を消すために渡したのか。疑問に思っていたことが腑に落ちてスッキリした。その間も手を止めることなく、花束を大きくしていく。


「キョウハ……ヨナ、ジャナイノカ」

「ああ、あいつはもう家に帰ってるだろうな。あいつの方が連れてくるのが楽でいいんだが、ちゃんと後任にも見せるべきかと思ってな」

「えっ、大丈夫なんですか? 僕が人間って言って」

「オレハ……ニンゲン、タベナイ……スキダカラ。ソレニ、コーラルガ、エランダヤツハ、ツレテルヤツハ、イイヤツダ」


いいヤツ。果たして本当にそうなのだろうか、自分に自信がない。隣でただ只管ひたすらに花を摘むコーラルを見て、なぜ自分を後任に認めたのか聞きたかった。


「手が止まってるぞ、少年」

「は、はい!」


 やっとの思いで全ての花を摘み終えたのは、ノームとトロールたちがいつの間にか紅茶を用意して、それを飲み干した頃だった。息切れしながら、ノームに花を渡す。するとその花束を包装紙に丁寧に包みながら、凛とした態度でその様子を見ているコーラルに話しかけていた。


「オマエガ、モチカエッテ……ソダテタホウガ……コウリツガイイノニ」

「悪いが私の庭園はいっぱいだ。それにお前のその能力見たさで来ている節がある。綺麗だからな」

「……ソウカ」


暗闇の中から白い丸が細められ、横に長い楕円形を描く。心なしか先程まで手際の良かったその手はぎこちなくなった。

 腕いっぱいのポピーの花束を二人で一つずつ抱えて店を出る。しんしんと降る雪の中を、あの井戸に向かって帰路に着く。すれ違うのは人間とかけ離れた姿の妖精たち。可愛らしいものもいれば、恐ろしい形相の者もいる。やはり興味深くてキョロキョロしてしまう。行きは店ばかりに目が行っていたが、行き交う妖精たちに目を引かれた。


「好奇心旺盛だな」

「楽しいです」


彼女は『だいぶ慣れたみたいでよかったよ』とフードの奥の林檎のように赤い唇が弧を描く。


「あの、さっき言ってた能力って何ですか?」

「能力っていうのは、妖精の種として元々ある性質の他に後天的に現れるものだ。結構その種族によって似たり寄ったりなことが多いが、さっきの花屋のように特殊なものもある。この町ではこの能力で物々交換のようなものをしたり、自分で作ったものを交換してもらったり、自分が見つけた珍しい物と交換したりする。これがこの街の会計システムだ」

「コーラルさんの能力はどういうものなんですか? 気になります」

「私は……」


すると、反対側から同じようにフードを深く被った妖精がこちらに歩いて来て、すれ違い様にコーラルの被るフードに手をかけた。一瞬にして彼女の薄桃色の髪が露呈し、驚きで赤い目を見開く彼女の顔も現れた。何の悪意も感じさせないままに行われたその行為に、彼女はすぐに振り返って犯人の姿を視認した。犯人はゆっくりと黒いマントのフードに手をかけてそれを外す。フードの下から現れたのは優しそうな美青年の姿だった。ミルクティー色のストレートな髪。長い前髪が右側の目を隠す。愛おしそうに垂れ目気味な伏せられ、淡い緑色の瞳にはただ一人コーラルの姿だけが映っている。


「やあ、コーラル」


落ち着きのある人懐っこいような声のはずなのに、背筋がゾクゾクする。美しくも狂気を感じるその笑顔に体が動かない。まさに蛇に睨まれた蛙の状態だった。恐る恐る左隣のコーラルに視線を送ると彼女は眉間に皺を寄せていた。


「その顔、その声……!」

「顔を隠すなんて勿体無いよ。こんなに美人なんだから」

「お前に言われても嬉しくねえよ」


怒りのままに飛びかかろうと彼女が一歩足を踏み出した時、大勢の妖精たちが彼女の姿を見つけて、好奇心から駆け寄り、周りを囲んだ。一瞬でできた群れに行手を阻まれ、思うように彼の元に辿り着くことはできないコーラルの姿を見て彼は満足そうに背を向ける。

 一方僕は彼女の意識が彼に向いている間に、集まって来た妖精、異形たちに後ろに後ろに押されてどんどん彼女から離れていってしまう。何度も何度も彼女の名前を必死に呼んだが、周りの『コーラル様!』と彼女を呼び止める無数の声と同化してしまうため、彼女の耳に届くことはない。焦りながらも原因を作った彼の方に一瞬だけ目を向けると、光の宿っていない瞳が僕を睨みつけているのが見え、恐ろしさのあまりすぐに目を逸らした。たった一瞬の出来事のはずなのに、忘れられないその目に背筋が凍りついた。そして、すぐに苛立たしげな悔しげな彼女の『Bollocks!(クソ!)』と怒鳴る声が響くと共に、彼の後ろ姿は霧の中へ消えて行った。

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