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倫敦奇譚  作者: 如月翡翠
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とりかへばや

 ロンドン橋を渡ってすぐの場所、サザーク大聖堂がよく見える位置にその店は建っている。十八世紀のイギリスを思わせるヴィクトリアンスタイルの店構えに、《雛罌粟の貴婦人レディ・ポピー》と書かれた小さな看板が風に揺れている。店の前の花壇には冬に似つかわしくない雛罌粟が赤、白、オレンジと花を咲かせ出迎える。その店だけ春から時間が止まっているような外観に不思議の念を抱く。隣に並ぶ、街を歩くたびに大衆の目を惹く程の色男な上司は慣れたようにアンティーク風の黒いドアハンドルに手をかけ、木製扉を開ける。チリンチリンとドアベルの音を連れて中に入れば、そこは暖色の灯で照らされたクラシックな喫茶店。カウンターの内側にはお淑やかな女性がコーヒーを淹れていた。ミルクティーカラーの軽やかな前髪の下、金縁の丸眼鏡の奥に金色の大きな瞳が輝く。そして、その瞳が客である僕たちを捉えると優しく微笑むのだった。その甘い微笑みについ見惚れてしまうが、すぐに今は仕事中だと言うことに気がつき、照れ隠しも兼ねて隣の上司に『事件のプロに会いに行くんじゃなかったんですか⁉︎』と小声で強く言う。ムカつくほどに整った顔を『何言ってんだ』とでも言いたげにコテンと斜めに傾ける彼に嫌な予感がして『ただのサボりですか⁉︎ただのサボりのカムフラージュのためにわざわざ僕を連れて来たんですか⁉︎いつもいつもだらしない人だと思ってましたけどまさか僕のこと利用してまでサボるなんて』と抗議をしていると、その女性がカウンターから出て来て礼儀正しく頭を下げた。その様子はカフェ店員というよりも、メイドの方に近く、上品な印象を受ける。


「ミシェルさん、こんにちは。珍しいですね、他の方もご一緒なんて」

「こんにちは、お嬢さん。気分だよ、気分。それより、早速だけど婆さんいる?」

「ええ、すぐにお呼びします」


コツコツとブーツの踵から音を立てて歩き、階段を登って行く。その後ろ姿を見送ったあと上司の方を向いて『僕たちは警察なんですよ?こんなところで道草食ってる場合じゃないんですよ。それに、“この手”の事件のプロに会いに行くって言ったじゃないですか?』と疑問に思ったことを尋ねる。胡散臭い紳士の形容が似合う上司は終始笑顔のまま、飄々としている。こののらりくらりとした態度が少し苦手だったりする。


「うん、だから今呼んでもらってるでしょ?」

「婆さんって人ですか?」

「うん」


再び視線を階段に戻し、果たしてどんな老女が姿を現すのかと気になってきた。腰の曲がった魔女のような人なのだろうか、それともあの女性のように温厚そうな老貴婦人なのだろうか。クイズ番組を見ているようなワクワクを感じる。来る途中に『この手の事件の専門家』と言われた時は、シャーロック・ホームズのような人物を想像していたが、ミス・マープルもいいかもしれない。

 木製の階段から人の降りてくる音が二つ近づいてくるにつれに期待で胸が膨らむ。まずはあの店員が降りて来て、階段の手摺りの隣に立った。そして、足音と一緒に聞こえてきたのは期待に反した若々しい声の『なんで昼に来るんだよ』という文句。おかしい。だって上司ははっきり『婆さん』と呼んだのに。頭が混乱し始める自分の横で彼は何の動揺もなくその文句に対抗している。


「夜来ても同じこと言うくせに」

「仕事しながらの酒は不味くなるんだ。休憩中ぐらいゆっくりさせろ」

「小言が多い年寄りは嫌われるぜ?」

「老人は敬えと教わって無いのか?教養の無さが見えるな」


一歩も引かぬ強気な様が言葉から伝わる。遂に姿を現したのは想像していた魔女でもなければ、貴婦人でもない、婆さんと呼ぶには明らかにはるかに若い女性。それも、たいそうな美人。薄いピンク色の髪に目尻が緩やかに釣り上がった目元、その中心を陣取る真っ赤な瞳、薄らと笑いを浮かべる口元の左下にはホクロがひとつ装飾され、大人っぽい雰囲気を漂わせる。店員さんとは正反対のクールなお姉さんって感じの人。一瞬だけ綺麗な男かと思ったことは内緒である。


「この人のどこがおばあさんなんですか!? 歴とした若い女性じゃないですか! 失礼です!」


自分の一言が想像以上に店内に響いた。まだ開店前なのが不幸中の幸いである。そして、場が一瞬静かになったあと、目の前の女性は表情を一変させてゲラゲラ笑い出した。人の神経を逆撫でするほどに品のない声のはずなのに嫌だとは思えない不思議な笑い声。それが一分ほど続いたあと、彼女は笑い疲れて呼吸を整え始めた。右目の目尻に滲む笑い涙を指先で拭き取り、時々抑えが効かなくなり笑い出してしまいそうになりながら話し出す。


「はぁ〜、若い女性か。久しぶりに言われたな。あっはは」

「こいつ俺らより全然年上だから。それにお嬢さんのひいおばあちゃんだよ、血の繋がりないけど」

「はい! おばあさまです!」

「……え?」


喫茶店の一番隅に当たる席に、テーブルを隔ててその女性の目の前に座る。彼女の名前はコーラル・フォーサイスと言うらしい。先程彼女自身がまだまだ抑えられぬ笑いを必死に堪えて自己紹介をしていた。そして、あの美人店員はローズ・マクガーデン。このカフェでは昼間はいつも彼女が店番をしているらしい。驚きのあまり呆然としていたら、その間に流れる様に椅子に着席させられて、目の前には香ばしい匂いを漂わせるコーヒーが提供されていた。ローズが入れてくれたに違いない。一旦落ち着こうとまだ熱い陶器のカップを口につける。混乱していてもそれは美味しかった。きっと『おばあさま』と言うのはただのジョークで、揶揄われただけに違いない。だって、見た目の若さが姉妹程度だし。仲のいい先輩後輩なのだろうと結論付けて、自分を納得させ、落ち着かせる。その間に上司とコーラルの会話はトントン拍子に進んでいた。


「で? 今回はなんだ? 窃盗か? 誘拐か? 強姦か? 不正売買か?」

「ゆーかい、ロンドン市街の赤ん坊がひとり」

「ふーん」

「犯人が入った痕跡はなし、窓もドアも開いてなかった。犯行時刻は昨日の正午で、母親が昼飯を作ってる間に揺籠の中にいたのは別の赤子だったらしい」

「らしい?」

「だって俺見ても全然わかんねえもん、母親の直感ってやつ?なんか違うって。俺にはただの赤ん坊にしか見えなかった」


胸ポケットから上司はタバコの箱とライターを取り出し、『吸っていー?』と軽く尋ねる。取引先に近い関係のはずなのに、古い友達のようなラフさだ。しかももう火をつける一歩手前の状態である。彼女は即座に棒読みで『ダメでーす』と返したが、『吸いまーす』と既に咥えたタバコに躊躇なく火をつけた。最初にお伺いを立てた意味は何だったのか。先端からゆるゆると紫煙が登る。その煙を見て彼女は口角を釣り上げ、不機嫌な笑顔という器用な表情を見せた。


「無作法男。それとも耳が聞こえてないのか?良い耳鼻科紹介するぞ」

「あんたも吸えばいーじゃん。良いやつ持ってんだから」


ピクっと動きが一瞬だけ止まり、バツが悪そうに横目でゆっくりと彼女は隣に立っている孫娘の姿を見る。孫娘はニコニコと笑って彼女に圧をかけていた。ひとり苦々しい顔を見せながら視線をテーブルに移し、苦痛であるかのように重い口を開いた。


「……絶賛禁煙中だ」

「へぇー、じゃあもっと吸おーっと」

「悪魔かよ、性悪野郎」


その一連のやりとりを見ていたローズは口元に手を当てて微笑を見せる。そして『窓をお開けしますね』と店中の窓を開けていった。軽やかに歩くたび揺れるスカート姿が可憐で、天使のようにふわふわとした雰囲気の乙女。窓を開ける後ろ姿が可愛らしい。華奢な手がしなやかな所作で窓の鍵を外し、開ければ冷たい風が彼女を襲う。一つに結われた三つ編みヘアが靡く姿につい見惚れてしまっていた。隣で面白い出し物を見物しているかのように、ニヤニヤとしている上司に気づかずに。


「あら~、新人くんも男だねぇ~」

「おい、少年。話聞いてるか?」

「あっ、はい! すみません! 聞いてませんでした!」

「清々しいほど素直だな。これから現場に移動するって話だ」


椅子を引いて彼女は立ち上がり、面倒ごとを引き受けたことによる気怠さを表すように頭を掻く。窓を開けているローズに近づいていくと包み込むように彼女の頭に手を乗せて、そのまま頭を撫でながら『留守番頼むぞ』と言って笑った。それに釣られてローズも柔らかな微笑みを浮かべ『お任せください! おばあさま!』と意気込んでガッツポーズを見せた。そんな姿もポワポワしていて可愛らしい。頭から手を離すと、コーラルは先ほどの階段を降りて行く。一体どこに行くのかと思って見ていると頭に自分の、香色のトレンチコートが被せられ、『外行くぞー』と上司が右腕を引っ張って半ば強引に寒い街路に連れ出された。


「なんであの方がプロなんですか? 探偵なんですか? それともミステリー作家とか?」


雑に頭にかけられたトレンチコートに袖を通しながら頭ひとつ高い身長の上司に好奇心でいっぱいの視線を向け続ける。相変わらず、飄々とした態度でタバコをふかしているが、黒い瞳がどこか遠くを見てどう説明しようかと考えあぐねている様だった。その立ち姿さえ様になるのだから神様は不平等である。黒い天然パーマの長い髪を一つに纏め、肩に流す。切長な目は深い紫色で、左の目元には黒子が大人の色気に拍車をかけていた。タバコを持つ右手が口から離れると、口内から煙が天をめがけて登っていく。


「んー、犯人が人外の事件専門の……刑事的な?」


彼なりに必死に振り絞った解答だったのだろうが、期待していたものとは違う上に非科学的な話が飛び出し、彼の正気を疑う。そういえば、先ほどのコーラルの年齢の件も有耶無耶にしていたのを思い出し、更にそれを疑ってしまう。この哀れみの表情を見た上司は『うわぁ、表情出やすいタイプだね』と苦笑いを溢した。


「……疲れてるんですね。わかりますわかります。不思議な存在の仕業にでもしたい事件ですもんね」


言葉では共感を示してみるが、一切そんなことは考えていない。取り敢えず頷くことが大切だと昔誰かが言っていた気がする。ただそれを実践しているだけ。

 事件の概要を伺いに例の母親に会いに行った時、アルバムの中で一番最近の赤子の写真をも見せてもらった。何度も見比べて確認したが、その時と全く変わりない赤子が揺籠で眠っていたのを思い出す。それと同時に『全く同じ子です』と奥さんに告げた時の彼女の絶望の表情が脳裏をよぎる。何度説得しようと、それでも母親がその子を指差して『この子は私の子じゃない』と泣き叫ぶ姿はさぞ異様に、痛ましく映ったことだろう。自分も何か込み上げてくるものがあった。今隣にいる彼が『専門家を呼ぶ』と言った時は児童相談所にでも任せるのかと思って安心した。きっと育児ノイローゼのあまり子供を手放したいだけでついている嘘なのだろうと思っていたから。その母親の姿を見てそう考えたが、同じフラットに住む住人たちに聞き込みをすると、彼らは口を揃えて『子供想いの良い母親』とその女を評していた。周りの目にはそう映っていたのかもしれないが、実際はどうなのか。孤独に初めての育児の苦悩と闘っていたのではないだろうか。それは内側に入ってみないことにはわからない。外側の自分達には測り知れることではないのだから。


「……世の中見えるものが全てではありませんから」

「良いこと言うな、少年」


地下に続く外階段を上がってきたコーラルは灰色のマントを羽織り、先程までおろしていた長い後ろ髪を下の方で纏め、薄ら笑いを浮かべている。少々不気味だが、それを打ち消さんばかりの整った容姿である。


「さっ、行こうか」


年季の入った栗色の堅苦しいダレスバッグを右手に、スタスタ歩く後ろ姿はただでさえ女性にしては高身長な彼女の背を伸ばしているようだった。


 太陽が傾き始めた時間に側から見れば奇怪なメンツで事件現場に向かって歩く姿を想像してひとり可笑しくなって来る。男二人が並んで歩く先頭で、コーラルが堂々と行くさまは宛らお嬢様と護衛のよう。


「そっちじゃねえよ」


先頭を陣取るくせに当の本人は目的地がわかっていないため、間違った道に進もうとするたびに上司が後ろからマントのフードを引っ張って彼女の歩みを止める。まるで犬のリードのようだ。それが何度続いても、彼女が先頭を譲ることはなかった。何度も逆方向に進んでいこうとする彼女をなんとかフォローして、やっとの思いで目的のフラットに辿り着くのだった。赤煉瓦造りのパーパスビルトフラットの三階。ドアベルを鳴らし、暫く待っていると、出迎えたのは衰弱しきっている若い奥さんと、その体を支える旦那さん。彼らに挨拶して、経緯を話し部屋に上がらせてもらう。赤子は昨日初めてきた時と変わらないシンプルな揺籠の中、すやすやと眠っていた。


「ほー、なるほどな」


部屋に入って早々にコーラルは揺籠の中の赤子の顔をまじまじと覗きこむ。さまざまな角度で赤子を見たあと、たった一言『奥さん、キッチンでこれから私が言うことを忠実に再現していただけますか?』と優しく尋ねた。店で上司に使っていた言葉とは比べ物にならないほどに丁寧な言葉遣いに驚きが隠せずにいると、見透かしていたように上司に『そいつ、女性には優しいんだよ、差別だよね〜』と共感を求められた。だが、答える間も無く『婦人への奉仕は騎士道精神だろうが』と彼女は喧嘩腰に対抗した。


「……え、っと」

「ああ、すみません。これが最善のお子さんを取り戻す方法なのです。どうかご助力お願いします」


『お子さんを取り戻す方法』と言う言葉に光を見出したのか、先程よりしっかりとした足取りで女はキッチンに入って、『何をすれば良いですか?』と声が聞こえた。力強い声に少し安堵の溜息をつく。その間に隣のコーラルは揺籠の中の赤子を慣れた手つきで腕に抱き上げて立ち上がる。彼女はキッチンに向かう道すがら、上司の隣を通り過ぎる時ひとつだけ頼み事をした。


「おい、ヨナ。私のバッグに薬草が入ってる。それとお湯を桶に入れて持ってきてくれ」

「えーー」

「早く帰りたいなら仕事しろよ、何のための補佐役だ。ああ、少年はこっちな」

「あ、はい!」


普段と変わらぬ声量で会話しても眠り続ける赤子を抱いたまま、キッチンに入る。急いで彼女の隣に立って、何をし始めるのか尋ねると『お前にとって奇想天外で摩訶不思議なことだ』と笑った。『まぁ、見てろよ』と言われ、その言葉に従うことにした。と言うか、従う他なかった。


「少し難しいですが、レディには卵の殻を調理器具代わりにして料理を作ってもらいます」

「どこかに頭ぶつけましたか?」

「少年、ツッコミのキレが凄いな……。まあ、騙されたと思ってやって見てください」


意味も、目的もわからない指示に戸惑いを隠せない奥さんは取り敢えず卵の殻を割ってボウルに中身を落とす。そして、半分になった殻をコンロに置いて、玉子を溶いていた時旦那さんと上司が濁りきった熱湯が並々注がれた桶を持って来た。


「ほらよ」

「感謝する」

「これなんの葉っぱ?」

「ジギタリス。別名、魔女の指抜き。ベルの形に似た花を咲かせ、目を引く華やかさで観賞用に育てられる上に強心剤にも使われる反面、口にすると胃腸障害、嘔吐、下痢、不整脈、頭痛、めまい。重症になると心肺停止になることもある」

「へぇー、詳しいんですね」

「ああ、元は地方の医者兼薬師だったからな」


意外な前職を暴露する間に、奥さんが卵の殻に溶いた卵液を流し入れる。不安定にユラユラする卵の殻に彼女が視線を注いだ瞬間、不思議なことにピタリと揺れが収まるのだった。それには思わず二度見してしまった。その間もコーラルはその卵の殻から目を一切離さない。その名に違わず加工した上質な珊瑚を嵌め込んだような深紅の瞳が更に赤みを増す、と言うよりは赤く発光していると表現するのが適当だ。コンロに卵の殻を置いて火をつければ殻は燃えて終わりだろう。それは、実践している奥さんにも見えきっている未来だった。だが、その予想に反して卵の殻は火にかけても炎に包まれ、焼け落ちるわけでもなく黒焦げになる訳でもない。『元々フライパンです!』とでも卵の殻が主張しているように、少量の注ぎ込まれた卵液に火を通していた。その奇跡の光景に感動しているまさにその時。


「オイラはカシの木の前から木の実を見て来たけど、こんなことするのは見たことない!」


甲高い声が部屋中に響いた。呪文のような謎の台詞。この場にいる誰の声でもないものに息を呑む音が三つ聞こえた。パッと声のした方向を見れば、病気のような肌の色をした醜い容姿の子供がコーラルの腕に抱かれている。今まで可愛らしい赤子の姿をしていたのに、一体何が。と驚いて固まっていると、彼女の腕の中から抜け出して、ぴょんぴょん跳ねながら外に逃げ出そうと窓枠に手を掛ける。


「逃すかっ」


彼女が卵から目を離して窓に向かう異形の首根っこを掴んだ途端、コンロの火が燃え上がり、近くにいた奥さんが短く悲鳴を上げる。火事になると思い、咄嗟にコンロの火を消すとそこには黒焦げの卵が転がっていた。ホッとしたのも束の間。隣をまるで野生の猫でも拾って来たかのように、ジタバタと暴れる異形を掴んだコーラルが悠然と通って行き、先ほど指示して作らせたジギタリス湯の入った桶の上で止まった。


「何を……」


彼女は不気味に口角を上げ、至極楽しそうに声を上げた。


「あー、こんなところにジギタリスが入った熱湯風呂があるなぁ〜。きっと落としたら、火傷じゃ済まないだろうな〜。ドロドロに溶けるかもしれないなぁ」


わざとらしい台詞と共に首根っこを掴んだ異形をプラプラと揺らせば、異形は恐ろしさのあまり『びぃーえぇぇー‼︎びぃいい!』と特徴的な、と言うよりは間抜けな泣き声を上げてもがいている。彼女の後ろ姿は極悪非道な魔女そのものに見えた。心なしか黒いオーラも醸し出しているようにも見える。


「こいつがこの熱々の風呂に入れられたくなかったら、さっさと出て来いよ。五秒で出てこなかったら、即落とす」


えげつない脅し文句を口にした後、間延びしたカウントが始まる。後ろ姿の為どんな表情で数えているのかわからないが、まさにどう料理してくれようと思っているのではないだろうか。聞いているだけで彼女の恐ろしさが骨の髄まで伝わってくるようだった。


「ごーお、よーん、さーん、にーい、いー…」

「コーラル様!それだけはご勘弁ください!」


どこからともなく聞こえて来た一声にぴたっとカウントが一瞬止まるが、何事もなかったかのように途中からのカウントが再開されようとする。


「おーい、黒い方出てるから。しまってしまって」


小さく舌打ちをした後に、彼女はこちらを振り返り小さな異形から手を離し、床に落とした。重量感のある鈍い音を気にもせず『座れ』と恐ろしい笑顔を向ける。赤い瞳孔が恐ろしさに拍車をかけていた。あまりの気迫に声を上ずらせて返事をし、床に正座をした。なぜそんなに怒っているのかも分からず、波風立てぬよう、ただただ混乱して背を正す。隣には、いつの間にか二匹の異形が同じように正座していた。元々緑色の顔色の変化はわからないが、なんとなく青ざめているようだ。女性の前腕部くらいの身体には無数のイボ。姿にさほど違いは無いが自分の右隣にいる方は小さくて比較的幼い顔をしているように感じる。反対の左隣の奴は不恰好だが唇に紅を塗っているようで、母親なのかなと思えた。


「あの、この動物?たちは一体…」

「トロール。動物ではなく妖精です。レディ」


世界の常識であるようにそう言って彼女は驚く隙も与えず、コツコツとヒールを慣らして近づいてくる。恐怖と混乱が頭の中で絡まる自分を置き去りにして、彼女は説明を、上司は性格の悪い笑い声を必死に我慢しようとしているが見えているし、なんならもう声が漏れている。性悪上司。人が訳もわからず怒られそうになっているのに助けようともしない。上司への期待が半減した。ゆっくりと近づいてくる彼女の顔が怖くて見られず、俯いたまま冷や汗が流れ身体中を冷やしていく感覚だけが研ぎ澄まされる。


「トロールやエルフは気に入った人間の赤子と自分の子を入れ替えることがまま有ります。トロールが人間に化けている状態をフェッチ(そっくりさん)。赤子を取り替える行為を取り替え子と言います」


真っ黒なヒールと深緑色のスーツの裾が視界の端に映った瞬間。『お前ら、何故私の仕事を増やした?昼の労働は怠いんだが』と不機嫌極まりない、重たい声が響いた。


「嫌がらせか?」

「いいい、いえ……そんなことは……コーラル様」

「なら、何だ?」

「こ、子供に少しでも美味しいものを食べさせようと…、人間の食糧は、豊富でいいものがあると聞いて。今年は食糧を見つけるのが難しくて仕方なく…お許しください、コーラル様」


拍子抜けするほどに単純で浅はかな理由。彼女の尋問に近い圧も少しだけ軽くなった気がした。やっと頭を上げると彼女は腕を組みながら右手人差し指で頬を何度か叩く。コツコツと一定のリズムを奏で、何かを考えるように両隣で小さくなっている二匹を真っ赤な目は鋭く光って映し出す。表情は氷のように冷たいが、雰囲気は少し柔らかだった。


「赤子はどうした、お前たち。すぐにでも返せるのか?」

「も、もちろんでございます」


クルリと踵を返し、彼女は態度を一変。柔らかな微笑みを浮かべ、若夫婦に取り入るように話しかけた。


「妖精というのは単純で、素直なものなのです。反省している上、赤子もすぐに返すそうなので。何卒お許しいただけないでしょうか」


深々と頭を下げるコーラル。他の妖精のために頭を下げる後ろ姿は僕の目に格好良く映り、憧れを抱いた。その光景を見た後若夫婦は視線を合わせ、ニコリと和やかに微笑み頷いた。


「どうかお顔をあげてください。私たちも、まだ未熟ではありますが親です。子に美味しいものを食べさせたいと思う気持ちはわかります。それに、私たちの子が無事に戻るのなら許さない理由はありません」

「感謝いたします」


一度顔を上げたあと優雅なカーテシーを披露した。そしてまたこちらに向き直り、彼女はトロールの母子を抱き上げて揺籠の元に連れて行く。怯えきった二匹を下ろすと『赤子を戻せ』と命令を下した。すっかり首振り人形と化した二匹は揺籠の中に陣を描くと聞き取れない発音の呪文を唱えた。その瞬間、白い煙が上がって中からスヤスヤと眠る愛らしい赤子が現れた。まるでマジックでも見ているような気分だった。


「ああっ、私の子……私たちの子……」


奥さんは駆け寄って揺籠の赤子を抱き上げ、嬉し涙を注いだ。その肩を抱き、旦那さんも嬉しそうに微笑んだ。一件落着。遠くから低い位置で眺めながら感激していると、彼女は『少年はいつまで正座してるんだ?』と揶揄うように笑った。完全に忘れていた。自分が正座していることを。彼女は追加で『少年は座る必要なかったのにな』とボソッと呟いた。


「なっ、何でその時言ってくれなかったんですか!」


遠くで満を辞して腹を抱えて笑う上司もゲラゲラ笑う目の前のコーラルも、事前に打ち合わせでもしていたかのように動きを止めてこちらに視線を落とし、声を合わせた。


「「面白かったから」」


立ち上がったはいいものの、顔から火が出るほどの恥ずかしさと悔しさで笑っている二人の顔が見られない。先程彼女に憧れを抱いた過去の自分を叩きたいぐらいだった。


「嗚呼、お前が怖がってるあの表情。すごく、すごーく唆られたな。やっぱり人間を怖がらせるのは楽しいなぁ。同胞もいいが、人間は格別に快楽を感じる」


『はぁ』と婀娜っぽいため息を吐き、彼女は赤い瞳を潤ませる。その特殊嗜好は理解し難いものだが、どうしてもその人間離れした妖艶さに目を惹かれた。上司は憐れなものを見るように僕の肩を叩くと『アレがあいつの本分だから』と苦笑いを見せた。『貴方も面白いからと僕のこと放って置いたの忘れてませんからね!』なんて言う文句を飲み込んで『はい』と短く返事をする。割って入るかのように今まで悦楽の余韻に浸っていたとは思えない声で『帰るぞ、仕事は終わったからな』と彼女は言って二匹のトロールを腕に抱き抱え、隣を通り過ぎていった。その後を歩く上司を小走りで追う。


「玄関までお送りします」


言葉通り、玄関まで送別に来た若夫婦に暇乞いし、背を向ける。二、三歩あるい歩いたところで、後ろ髪引かれる思いから彼らを振り返る。戻ってきた愛おしい我が子を大切に抱きしめて笑う彼らは、絵に描いたような幸せな家庭に見えた。初めてきた時とは真逆の母親の深い慈しみの眼差しに心が締め付けられる。今は既に帰ろうと歩き始めている二人の後を追うべきだろう。だがこのまま帰って良いものなのだろうか。置いて行かれてしまう。考えているうちに徐々に距離が遠くなって行く二人の後ろ姿に焦りも感じるが、この心の翳りへのもどかしさを放って置くわけにもいかず、家族に向かって一歩を踏み出した。


「ごめんなさい!」


僕の口から突然飛び出した謝罪の言葉。無意識のうちに発した言葉に自分も驚く。頭を下げて地面しか見えていないが、きっと目の前の若夫婦も驚いていることだろう。翳りが少し引いた気がした。自然と動き出す口は自分のものではないように感じる。もう止められない、抑えられない。


「僕は貴女が赤子を自分の子ではないと言った時、貴女が嘘をついて子供を手放そうとしているのだと勝手に思い込みました。本当にごめんなさい!」


こんなに子を愛する家族なのに、一瞬でも疑いの目を向けた自分がどうしても許せず只管に謝った。『いいんです、大丈夫ですから。気にしないでください』と戸惑いを含んだ声が耳に反響する。面を上げられずにいると、ポンっと軽く肩に手が添えられた。


「…誠実な少年だな、黙ってればいいものを」


頭を上げると、コーラルは微笑を溢していた。何の混じり気もない純粋な微笑み。視線が合ったと思った時、その視線を若夫婦に移した。何処からともなく現れた季節外れの白いポピーを手に、大輪を咲き誇るかの花は母に抱かれた赤子のクリーム色のお包みを飾りつけた。白い花がお包みに咲いた時儚く、優しく眠りを誘うような香が舞った。


「それでは、さようなら。よく眠れますように」


彼女は若夫婦に不思議な別れの言葉を送り、僕の肩を持って体を百八十度回した。早く歩けと催促するように背中を押して、上司の元へ前進して行く。振り向き座間に見た、たった一瞬だけの彼女の表情を忘れない。淡い哀愁を孕んだ表情を。


 ロンドン橋を上機嫌に歩く彼女の後ろ姿を見ながら上司と並んでついて行く。彼女の両肩に座り、どんぐり程度の小さな手で彼女の白桃色の髪を物珍しそうに弄っている二匹のトロールを眺めながら隣を歩く上司に話しかけた。


「トロールって最初はびっくりしましたけど、慣れてくると可愛いもんですね。と言うか、妖精って本当にいたんですね。御伽噺の中だけだと思ってました」

「その辺にいっぱい居るよ。それに、あれもそうだし」


『あれ』と形容され、上司が顎でしゃくった先にいたのは少し遠くを歩くコーラルの姿だった。思い返せば彼女は先程、トロールのことを『同胞』と呼んでいたし、母トロールからは『コーラル様』と敬称されていた。現に今も『食糧不足の件はこちらの確認不足だ。すぐに対策は考えよう』と肩に乗るトロールたちに話しかけている。その様子を見ていると、彼女が横を向き、目が合って思わず逸らしてしまった。芯の通った声で『少年』と呼びかけられる。緊張が誘われる呼びかけに『は、はい!』と声が裏返ってしまったし、噛んでしまって不恰好だ。だが、彼女は笑うことなく真剣な眼差しを向けている。期待を含んだ眼差しが揺れることはない。


「何でさっき謝ったんだ?黙ってればよかっただろ?その方が楽だった筈だ。惨めな思いをすることも無かっただろう。人間は相手の考えを読めるわけじゃ無いのだから、隠しておけば良かったじゃ無いか。心に思っただけなら罪じゃ無いだろう?なあ、少年」


優しくゆっくりと暗闇に誘うように彼女は毒を吐く。人が心にしまう黒い感情を引き摺り出されるような言葉。蜘蛛が糸で巣を作って獲物を待ち構えるような言葉に臆さず、強行突破する事にした。否、それしか逃げる道はないのだ。


「……僕はあの人を色眼鏡で見ていました。非科学的な存在による事件で予想がつかなかったとは言え、偏った見方しかできなかった。貴女が言った通り、隠しておくことも考えました。ですが、それでは何も解決しないように感じた。自分の黒い部分に嫌気がさす気がした。彼女に謝罪をすることで自分の過ちを克服することができると思った。ただそれだけです」


彼女はその答えを聞いて笑った。夕焼けに映える満足そうな笑顔の後、進行方向に顔を戻して『気に入ったぞ、素質もありそうだからな』と言った。何の話なのかと思い当たる節を探そうと考えを巡らせていると、ダンスのターンをするかのように身体をこちらに向けた。その拍子に彼女の羽織る灰色のマントが風に吹かれ、内側の独特な深緑色のスーツが現れた。男物のようでいて、身体の線が強調されたデザインのそれは彼女のスタイルの良さを引き立てている。


「英国異種族管理官コーラル・フォーサイス。お前を補佐役ヨナ・ミシェルの後任として認めよう」


強者の威厳と呼ぶべきか、堂々とした佇まいに圧倒された。沈みゆく太陽の茜色を後光のように錯覚さえする。そして、その態度のまま彼女は『少年、名前は?』と尋ねた。すっかり忘れていた。今日はいろんなことが怒涛の勢いで過ぎていったため名乗っていないことを。


「ロンドン市警巡査ダニエル・グリフィンです」

「ダニエル。改めて挨拶しよう。私はコーラル・フォーサイス。妖精バンシーであり、この国の異種族を統括する責任者だ」


『そして、この店のオーナーでもある』と、パチンッと指を鳴らした瞬間、彼女の店《雛罌粟の貴婦人レディ・ポピー》の窓に淡い橙色が灯った。『close』と書かれていた木製のドアプレートの文字が滲み込むように消え、代わりに黒いインクで『open』の文字が浮かび上がる。看板には『Cafe』と書かれていたはずなのにいつの間にか『Pub』に変わっていた。更に驚くべきは店に入っていく客たちの姿。小さな身体に蝶の羽を生やした妖精たちに、耳の尖った男女、二足歩行の猫と真っ白な毛並みの美しい馬。挙げていったらキリのないほどの妖精たちがぞろぞろ店のドアを開け、入って行く。そんな驚愕の光景を街ゆく人々は見えていない様子で帰路を急いでいた。


「逢魔時は我らの時間。歓迎するぞ、アダムの子。奇妙奇天烈な世界の内側、摩訶不思議の集う私の酒場にようこそ」


彼女はその日一番の、とびっきりの笑顔でもてなした。悪戯が大成功した証の笑顔を。

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