春の嵐
上司、いや元上司に初めて会ったのは16歳の時。学園入学初日の教室で決められた席に座ったら隣が超有名人である彼だった。
レイナウト・デュッセルドルフ。名門侯爵家の次男でその血筋だけでも非凡な存在だが、それ以上に国一番の魔力持ちとして有名だった。
当時すでに王宮魔術師となっていた彼は制服の上に真っ黒なローブを羽織り、いつも分厚い本に顔を埋めていた。
それに対して私は父親が騎士爵を賜っただけのほぼ平民で、彼に取り入ったところでその巨大すぎるコネを活かすような場はなく、むしろ不興を買えばどんな目に遭うか知れない。貴族の子女は皆学園に通うものだと言われて一応入学したが、初日にしてこの場にいることを後悔していた。とにかく彼には関わらず、また周りにも目をつけられないよう大人しくしていなければ。
そう固く決意したが、それからの数日は拍子抜けするほど穏やかだった。クラスメイトの噂話を総合するとデュッセルドルフ様は人嫌いで有名で、すでに王宮魔術師としての立場を確立していることもあり一切の社交を放棄しているらしい。
常に魔術書を読んだり一心に何かを書きつけたりしていて、周囲の誰も彼の目には入っていないようだった。
これ幸いと波風立てずに1年を乗り切るつもりだったが、人生はそう甘くなかった。
入学から1週間もしないうちにデュッセルドルフ様の机の上は本や紙類、時には魔道具や謎の薬瓶などが溢れ、それらは日に日に積み上がっていった。教師は一貫して無視を決め込んでいる。王宮魔術師である彼の立場はこの学園内の誰よりも高いのだから、それも当然かもしれないが。
どちらにせよ自分の関知するところではないと思っていた。そう思ってはいたが、ある日限界を迎えた本の山が雪崩を起こしたのだ。
私はとっさにその一部を受け止めて、覚悟を決めた。
「デュッセルドルフ様、失礼ですがそのまま腕を伸ばされてはローブの袖が手前の物を巻き込んでさらなる雪崩が起こると思われます」
「……ああ」
突然声を掛けられたデュッセルドルフ様は目を丸くして私の顔を見つめた。存在すら認識していなかった有象無象から話し掛けられて驚いたのだろう。こちらから身分の高い方へ声を掛ける行為はあまり褒められたものではないが、今回は非常時なので何とか見逃してもらいたい。
それからデュッセルドルフ様は前方に視線を戻し、口の中で小さく「確かに」とつぶやいて腕を引いた。
「このまま少し私物に触れる許可をいただけますでしょうか。デュッセルドルフ様はそこでお待ちください」
「わかった」
とりあえずの許可を取り付けた私は手で押し留めていた本の束を積み直しながら立ち上がり、教室の端にあった予備の椅子を数脚引き寄せた。机の上に乱雑に積まれた本や紙束の一部を椅子の上に移して、ひとまず事故の起こらない程度に片付ける。
その間デュッセルドルフ様は動き回る私をただじっと見つめていた。世話をされることに慣れた人の振る舞いだ、と思った。これが侯爵家の子息である彼にとっての正しさなのだ。
「勝手に積み直して申し訳ありませんが、これで崩れることはないかと思います」
「いや、うん」
歯切れの悪い返事をした彼はやはり私物を触られたことが不快だったのかもしれない。少なくとも私の目にはそう見えたのだが、それから私とデュッセルドルフ様は同じようなことを何度も繰り返した。
そのうちに彼も人に構われることに慣れてきたのか、私への態度が少しだけ気安くなった。と言っても仲良くなったとかそういうことではなく、動揺や不快な様子を見せずに世話を焼かれるようになったというだけだ。
弟がいることもあり元来世話焼きな性分の私は、デュッセルドルフ様が嫌がらない範囲を確認しながら少しずつ彼に関わる場面を増やしていった。何しろデュッセルドルフ様は恐ろしく生活能力がない。
整理整頓ができないのはもちろん、魔術以外に興味がない彼は時間割も校内の地図も覚えていない。学園の裏の森で皆が実習の授業を受ける中、何時間も一人教室で本を読んでいたなんてこともあった。
何より驚いたのは彼が昼食を食べていなかったことだ。私がそれに気付いた時にはすでに入学から1ヶ月ほどが経っていた。
その日のデュッセルドルフ様はいつも以上に覇気がなく、午後にはついに机に突っ伏してしまった。あまり踏み込んだことは聞かないようにしていたが、さすがに心配になり声を掛けたところ、寝坊して朝から何も食べていないと言う。
高位貴族であるデュッセルドルフ様は寮では自室で食事をとるが、学園内では皆食堂に行かなければならない。それを人の多い場所が嫌だからという理由で入学以来一度も昼食を食べていなかったと言うのだ。成長期の男子が何をしているのかと頭が痛くなる。
翌日から私は二人分の昼食を持参するようになった。高位貴族の住む棟には必要ないだろうが、下位貴族の寮内には共有のキッチンスペースがあり、私は節約のために自作のお弁当を持参していた。ほぼ平民の私の金銭感覚では学園の食堂とは言え貴族向けの食事は高いのだ。
「こんな質素な食事がデュッセルドルフ様のお口に合うとは思えませんが、少しでも食べた方が元気が出ますよ」
恐る恐る差し出した私の顔をしばらくじっと見つめた後、デュッセルドルフ様は黙ってそれを受け取った。
断られることも覚悟の上だったが、彼は完食した上に「明日も食べたい」と言った。懐かない猫が初めて自分の手から餌を食べたようで、私は確実にこの人間嫌いの面倒な魔術師様に絆されはじめていた。
デュッセルドルフ様が私を名前で呼ぶようになったのも確かこの頃だ。それまで彼から声を掛けられる時はいつも「あの」とか「すまない」とかそんな台詞だったのに、ある日突然私を「ヘラ」と呼んだ。
あの他人に全く興味のないデュッセルドルフ様が私の名前を知っていた。その事実がとにかく衝撃的で、突然家名でなく名前を呼ばれたことへの抗議も忘れていた。
貴族のご令嬢は家族と婚約者以外の者に名前を呼び捨てにされることを許したりはしない。だが私はほぼ平民で、デュッセルドルフ様に人付き合いのマナーを求めるのはあまりに酷である。学園にいる間なら多少のことは見逃してもらえるだろうと私はそれを放置していた。
それから上司部下の関係になってもデュッセルドルフ様はずっと私をヘラと呼んだ。
1年の夏になる頃には教師を含む周囲もすっかり私をデュッセルドルフ様の世話係と認識していて、学年が進んでも私達は常に同じクラス、隣の席に配置された。
デュッセルドルフ様の人嫌いは筋金入りで、生徒はもちろん教師から話し掛けられても魔術書から顔を上げることはない。興味のあるものに対しては異常な集中力を発揮する方なので、もしかしたら本当に聞こえていないのかもしれない。
そんなデュッセルドルフ様と唯一コミュニケーションのとれる人間として私は周囲から便利に使われるようになった。クラス内での連絡ごとや学校からの通達はもちろん、2年になる頃には王城からの遣いである文官の方々もデュッセルドルフ様宛の伝言や書類を私に託すようになってしまった。最初は仕事の話を聞くのは……と断ろうとしたが、「大丈夫ですよ。お父上も国に忠誠を誓う騎士でいらっしゃいますし」とにっこり言われて逃げられなかった。人質を取るなんて卑怯だ……。
デュッセルドルフ様はこのことについてもまた自然に受け入れてしまい、おかげで私は使えもしない魔術に詳しくなった。これでデュッセルドルフ様の机の整理もさらに捗るというものだ。泣きたい。
こうして私は傍から見ると頻繁に教師から呼び出される「訳あり」の生徒となった。実際には私を呼び出すのは教師ではなく文官の方々で、訳ありなのは私ではなくデュッセルドルフ様である。しかし、おいそれと他人に話すことのできない事情である以上、周囲の誤解を解くことはできない。
このことに加えデュッセルドルフ様があまりにも他人を寄せつけないオーラを出しているせいで、学園に通う3年間ろくに友人もできなかった。そのおかげで休日はひたすら勉強に打ち込むことができ、成績は常に上位だ。ありがたくて泣けてくる。
そんな私の有り様に疑問を抱くこともなく、引き続きデュッセルドルフ様は実に自然に世話を焼かれ続けていた。恐らく私を使用人のようなものと認識していたのだと思う。実際、侯爵家の使用人の方が私よりよほど身分が高いのだから笑えない。
それでも学園生活が嫌にならなかったのは、デュッセルドルフ様が意外に付き合いやすい方だったからだ。もちろん人嫌いだし生活能力はないし、自分で結ぶとタイはいつもヨレヨレだし、非常に難ありな人である。
しかし、一旦懐に入れた相手に対しては情の厚い人だとも思う。昼食を出せば毎日おいしいと言って食べてくれるし、私が体調を崩した日は「今すぐ帰れ」と転移術で寮に押し込まれた。身分の差があるにも関わらず礼儀を咎めることもないし、「実家に帰ったら持たされたから」としばしば高価なお菓子をいただいた。人嫌いのデュッセルドルフ様だがご家族との仲は非常に良好なようだ。
そうかと思えば長期休暇でもあまり実家に帰りたがらなかったり、突然他学年の男子生徒を魔術で消し飛ばそうとしたり、よくわからないこともあった。
学園卒業まであと半年となった頃、デュッセルドルフ様が何やら改まった様子で聞いてきた。
「ヘラは卒業後どうするんだ」
「とりあえず文官の登用試験を受けるつもりです。推薦状も書いてもらえそうなので」
「そうか。ヘラは優秀だからな」
「いえいえそんな。恐縮です」
「結婚はしないのか」
「今のところそういう予定はないですね」
「わかった」
その時はデュッセルドルフ様から世間話なんて珍しいなと思っただけだったが、この簡潔な会話が私のその後の人生を決めてしまった。
数日後、教室に入って来た彼を見つけるなり私は手に持っていた書状を突き付けた。
「デュッセルドルフ様!これは何ですか!」
「ああ、届いたか」
「昨日寮に届いていました。それで、これはどういうことなのですか!」
「ヘラは文官になるのだろう」
「確かにそのつもりでしたけど」
「大丈夫だ。ヘラは優秀だし、古代文字も読める。僕の研究内容も理解している。誰より適任だ」
「えぇ……」
「ヘラ、頼む」
「……」
「ヘラ」
「…………わかりました。どちらにせよ断れる話ではありませんし」
「うん」
いつも通りの無表情なのにどことなく嬉しそうな様子のデュッセルドルフ様を前に盛大に肩を落とし、ため息をついた。
こうして私は王宮魔術師レイナウト・デュッセルドルフの補佐官となった。
卒業と同時にデュッセルドルフ様は筆頭王宮魔術師に任命された。
通常王宮魔術師は王城の敷地内に建つ魔術師の塔に研究室や居住スペースを持つが、デュッセルドルフ様は人の多い場所は嫌だと王城裏の森に専用の屋敷を建ててしまった。これだから金持ちは……と思わなくもないが、国王陛下の承認がある以上文句は言えない。
そして、文官用の独身寮に入るはずだった私の居住スペースもまた、この"出張研究所"内に設けられてしまった。デュッセルドルフ様の生活能力は今後も向上しないだろう。
基本的にこの屋敷にいるのは二人だけだが、週に何度か王城からメイドが派遣され研究室以外の部屋の掃除や食材の補充などをしてくれている。その他の部分、デュッセルドルフ様の補佐官としての業務と研究室内の掃除、食事の用意などが私の仕事だ。正直忙しいが、その分の給料はもらっていると思う。
出張研究所での生活が始まってから、デュッセルドルフ家の長男であるディーター・デュッセルドルフ様が頻繁に訪ねて来るようになった。ディーター様も王宮に勤める文官で、宰相直属の部下というエリート中のエリートだ。最初はその肩書に緊張していたが、話してみると非常に気さくな方で、年の離れた弟であるデュッセルドルフ様が可愛くて仕方がないご様子。構いたがりのディーター様のなすがままになっているデュッセルドルフ様を見ては、ご実家での様子を想像して胸が温かくなった。
デュッセルドルフ様は定期的に「ヘラはなぜ兄上のことをディーターと呼ぶのにいつまで経っても僕のことは家名で呼ぶんだ」と言ってくるが、ただでさえ私はデュッセルドルフ様のコネで就職した身で、現在この建物には二人しか住んでいないのだ。誤解を受けるようなマネは避けたい。ご本人から「紛らわしいから名前で呼んで」と言われてしまったのでディーター様と呼んでいるが、できれば二人とも家名で呼びたいのが本音だ。
補佐官となって改めて知ったことだが、魔術師としてのデュッセルドルフ様は本当に規格外の存在だった。
私達一般人の魔力を1とすると他の王宮魔術師の方々は大体20〜40ほど。それでも十分すごいのだが、デュッセルドルフ様は80〜100だと言う。魔力切れを起こしたことがないので正確な魔力量は本人にもわからないそうだ。
デュッセルドルフ様はその膨大な魔力を使い国防のための結界を張ったり、王族や要人の護衛についたり、市井の人々の生活を向上させる魔道具を開発したりしている。デュッセルドルフ様指名の依頼は数多く、国王陛下の信頼も厚い。仕事面では本当に尊敬できる上司だ。
相変わらず生活能力はなく、事務仕事もからきしだが、そんなものは他の人間がやればいい。
デュッセルドルフ様にはデュッセルドルフ様にしかできないことがある。わずかでもその助けとなれることに私は誇りを感じていた。
学園時代にはなかったデュッセルドルフ様への尊敬と、同じ屋敷で暮らすようになり積もっていく親しみ。そんなものが絡み合いながら大きくなって、私に道を踏み外させた。
その日は王城で夜会が催され、デュッセルドルフ様は騎士団とともに隣国の侵攻を退けたとして、国王陛下から褒賞を賜った。
私も補佐官として出席していたが、文官用の制服を着て終始壁に貼りついていた。「人前には出ないとあれほど言ったのに……」と苦虫を噛み潰していたデュッセルドルフ様の勇姿を拝見したら適当なタイミングで抜け出すつもりだ。きらびやかな広間は美しく着飾ったご令嬢のための空間で、どう考えても私には似つかわしくない。
ぼんやりと目の前に広がる色の洪水を眺めていたら、いつの間にか主役のはずの彼が隣に立っていた。
「帰るぞ」
「もうよろしいのですか?」
「義務は果たした。香水臭くて気分が悪くなりそうだ」
人ごみを割ってずんずん進むデュッセルドルフ様の背を慌てて追いかける。この場所に馴染まないのが私だけでないことに少し安心してしまった。
出張研究所に戻ると、珍しくデュッセルドルフ様が一緒に飲もうと誘ってきた。何でも国王陛下から高級なお酒をいただいたらしい。
「高いお酒の味なんてわからないですよ?」と言いながらもやっぱり美味しくて、どんどん飲んでしまった。私もデュッセルドルフ様も普段お酒を飲む習慣がないので、気付かないうちに適量を超えてしまったらしい。
朝の光に目を覚ますとデュッセルドルフ様の部屋のベッドの上で、二人とも裸だった。先に起きていた彼がいつも通りのトーンで「おはよう」と声を掛けてくる。二日酔いに痛む頭でも瞬時に理解した。やってしまった。
「申し訳ありませんでした!!」
「何が」
ベッドの上で勢いよく頭を下げた私にデュッセルドルフ様は盛大に眉を顰めた。
「酔った勢いでご迷惑を……」
「迷惑なんて掛かってない」
「でも……」
「ヘラ」
射抜くような強い瞳と怒りの滲んだ声に思わず口をつぐむ。終わったことをいつまでも蒸し返すべきではなかったか。
とにかく頭を冷やそうとベッドの下に落ちていた服を適当に身に着け、自分の部屋に戻った。
その日は一日、一線を越えてしまったことへの混乱と二日酔いからくる頭痛で散々だった。
デュッセルドルフ様の世話を焼き続けて4年、私はもうとうに絆されてしまっていた。
だからと言ってどうにもならない。デュッセルドルフ様と私は上司部下の関係で、本来であればすれ違うこともない身分の方だ。この気持ちに気付いたからと言ってできることは何もない。
幸いにもデュッセルドルフ様の態度は昨日までと全く変わらなかった。やはり昨夜のことは間違いだったのだ。その上で、デュッセルドルフ様は変わらない態度を示してくださっている。ならば私もこのまま補佐官として精一杯勤めるだけだ。決して何もしない。何も望まない。だから、想うだけなら許されるだろう。
未だ走り続ける鼓動を何とか抑え込んで、とにかくこの生活を大事にしようと心に決めた。
そうしてぎこちなくも日常に戻りつつあった頃、デュッセルドルフ様が不在の間にディーター様が訪ねて来られた。
「デュッセルドルフ様は昨日から北の国境へ行かれておりますが……」
「うん、知ってる。今日はヘラちゃんに用があって来たんだよね」
「私にですか?」
「うん。だから座って。ねぇ、単刀直入に聞くけどレイのことは好き?」
「……上司として尊敬しております」
「ヘラちゃんはまだ結婚しないの?」
「そうですね。あいにくまだ予定がなくて」
「うーん……レイの方も最近両親がせっついてるみたいなんだけど。ほら、いつまでもこのままってわけにはいかないでしょ?」
ディーター様の探るような視線に全身から血の気が引く思いだった。
私は何もわかっていなかった。彼は侯爵家のご令息で、私のようなほぼ平民とは違う世界に生きている。ずっと、わかっているつもりだった。身の程は弁えている。私とデュッセルドルフ様はただの上司と部下だ。それ以外の関係にはなり得ない。私は何も望まない。だから問題ないと、そう思っていた。わかっているつもりで、何もわかっていなかった。彼にとっての結婚はある日突然やってくるもので、こんな生活の先にはない。
ディーター様は私の浅はかな考えに気付いていらっしゃったのだ。
奥様となる方からすれば夫がお手つきの使用人と同じ屋敷に暮らしているなど、看過できるはずがない。それはデュッセルドルフ家からしても同じこと。
私と彼がどうだとか、最初からそんな話ではなかったのだ。
「考えておいてね」と言い残して席を立ったディーター様を見送ることもできずに、ただ膝に置いた手を握り締めた。
週末、私は久しぶりに帰った実家で父親に頭を下げていた。
「急ぎ職を見つけたいので何か紹介してください!」
「急にどうした。ついに上司と揉めたのか?」
「まぁそんなところ……」
2年ともたずに辞めるなんて……と気まずくて視線を上げられずにいる私に父は優しく声を掛けてくれた。
「デュッセルドルフ様は難しい方だと聞いている。よく頑張ったな。
騎士団の事務方でよければすぐに紹介できるぞ。机仕事が嫌いな奴ばかりで万年人手不足だからな!」
「お父さんありがとう……」
頼もしい父の言葉に少しだけ涙が出た。騎士団は本当に人手不足のようで、父が話を通すとすぐにでも来てほしいと言ってもらえた。
後任の文官とメイドの増員を手配して、1週間後には出張研究所を出た。
騎士団の詰所も魔術師団と同じく王城の敷地内に建っており、今回の人事は異動という形になる。とは言え出張研究所とは距離があるし、用がない限り研究室から出て来ない彼と顔を合わせることはないだろう。
デュッセルドルフ様は最後の日まで本当にいつも通りで、この件について触れることもなかった。
人事関係の書類に秀麗な文字で記された彼の名前をなぞりながら、引き止められるかもしれないなどと思っていた愚かな自分を笑った。
そして今日、真新しい制服に身を包み私は騎士団での勤務初日を迎える。騎士達と同じデザインの上着は厚手の生地に高い襟で身が引き締まる思いだ。
新しく上司となる男性に先導されながら、長い廊下を歩く。当然だが人が多い。次から次へとすれ違う騎士達に頭を下げながら、今までの環境がいかに異常だったかを改めて思い知った。
詰所の最奥に位置する事務室へと案内され、両開きの扉をくぐろうとした瞬間、建物ごと震えるような轟音が響いた。
途端に騒がしくなる周囲に何があったのかと辺りを見回すと、騎士達が訓練場の方に走って行くのが見える。
「状況を確認します。あなたはここにいてください」
唯一の頼りである上司もそう簡潔に言い置いて走り出してしまった。
湧き上がる不安に思わず廊下に戻り窓の外を覗くと、相当な距離があるにも関わらず怒りに燃える黒い瞳と目が合った。
信じられない光景に思わず目を見開く。
訓練場に突如発生した竜巻の中心にデュッセルドルフ様が立っている。
「ヘラ・カンナスを返してもらおう」
地を這うような声だった。
彼を中心に荒れ狂う突風はなおも周囲の物を巻き上げながら、ごうごうと音を立てている。
ディーター様が以前「子供の頃は魔力が不安定だから、レイが泣くと部屋の中を嵐が通り過ぎたみたいにめちゃくちゃになって大変だったんだ。使用人がケガしたこともあって。それでレイはあまり感情の出ない子になっちゃったんだよね」と仰っていたことを思い出す。
ならば今、デュッセルドルフ様は悲しんでいる……?
張りつめた空気に指先すら動かせないまま、私はその黒い瞳をただじっと見つめていた。
◇
「このままでは詰所が全壊してしまう。とにかく二人でちゃんと話し合いなさい」と父に詰め込まれた応接室で、私達は向かい合って座っている。
「なぜだ」
盛大に眉間に皺を寄せ、こちらを睨みつけるデュッセルドルフ様がおもむろに口を開いた。常に無表情な彼の表情筋も本来はこんなに動くのだなと、妙なところで感心してしまった。
しかし、相変わらず言葉が足りない。
「なぜと言いますと……?」
「なぜここにいる。なぜ出ていった。なぜ何も言わなかった」
「えーと、ここにいるのは本日から騎士団勤務になったからです。それはデュッセルドルフ様もご存知のはずですが……」
「僕は何も聞いていない」
「そう仰られましても、転属願いにサインをいただいています」
「……読んでいない」
「はい?」
ずっとこちらを睨みつけていたデュッセルドルフ様が気まずげに目を逸らした。
「確認が必要な書類はいつも分けてくれるだろう。それ以外は読んでいない」
「デュッセルドルフ様……」
「ヘラがいれば問題ない」
雲のない夜空のような澄んだ瞳が再び私を見据える。頑丈にしまい込んだはずの気持ちが胸の奥でじくじくと痛んだ。
もう、誤魔化せそうにない。
「…………デュッセルドルフ様に結婚の話があると、ディーター様からお聞きしました」
「兄上か……ヘラが嫌なら結婚なんてしなくていい。戻って来てくれ」
「いけません。デュッセルドルフ様は相応しい方と結婚するべきです。そして、私があそこにいては奥様になる方が不快に思われます。ですから、」
「待てヘラ、何の話をしている。僕はヘラとしか結婚しない」
「は……?」
想像もしない言葉にぽかんと口が開いてしまった。
「なぜそんな顔をする。すでに寝食を共にしているし、石も渡したし、それに抱き合っただろう」
「なっ……」
「夫婦になるとはそういうことじゃないのか」
「待ってください……石って、デュッセルドルフ様が『守護の力を込めた魔石だから、安全のために持っていろ』と言った腕輪のことですか?」
「そうだ。言葉にできないなら態度で示せと兄上に言われた」
「ディーター様……」
淡々と告げられる衝撃の事実に思わず天を仰いだ。脳が悲鳴を上げている。言葉の意味は理解できるが、消化できない事実が積み重なっていくだけで全く事態を飲み込めない。
「ちょっと、ちょっと待ってください。あの、もしかして、デュッセルドルフ様は私を好いてくださっているのですか……?」
「当たり前だ。何をそんなに驚いている」
「だっていつからその……想ってくださっていたのかはわかりませんが、学園に通っている頃からずっと態度が変わりませんし!何よりあの夜会の後も平然とされていたではないですか!」
「それも当然だな。僕は最初からヘラが好きだったんだから」
「最初から?」
「ヘラが最初に声を掛けてくれた時からだ。ちょこちょこ動くのが可愛くて、ずっと僕の世話だけ焼いてほしいと思った。あの時から絶対手に入れるつもりだったからヘラと呼んだんだ。ヘラを僕のものにした翌日はずっと浮かれていて研究も手につかなかった。ヘラの手前仕事するフリをしていただけだ」
「そんな……」
「ヘラ、何が嫌だ?僕では何が足りない」
「デュッセルドルフ様に足りないものなどありません……」
「そんなわけないだろう。ヘラがいないとこの通りだ。何もできない」
乱れたままの髪に、ヨレヨレのタイ。こんな彼を見るのは本当に久しぶりだった。
捨てられた犬のような頼りなげな表情にまた胸がぎゅっとなる。でも。
「私ではデュッセルドルフ様につり合いません」
「そんなわけない。家を継ぐのは兄上だ。学園で出会ってすぐ家族にはヘラと結婚すると伝えてある。僕が選んだ人が僕の花嫁だ」
「そんな……あ、ありえません……!」
「ヘラが戻ってくれないなら王宮魔術師をやめて一人でどこかに引きこもるしかないな。だって僕はヘラがいないと何もできないんだから」
「そんなこと国王陛下がお許しになりません!」
「そうだ。だからヘラとのことを反対する人間などいるはずがない。ヘラはここまで僕を甘やかした責任を取るべきだ」
「それは脅迫です」
「脅迫でも同情でもヘラがいてくれるなら何でもいい」
とんでもないことを口にしながらもデュッセルドルフ様の表情は真剣だ。縋るような視線で、声で、絶対に逃がすつもりはないと訴えかけてくる。もう4年も一緒にいるが、こんな彼を見るのは初めてだった。新鮮で、胸が痛くて、絆されてしまいたくなる。
暴れ続ける心臓を抑えながら一つ、長い息を吐いた。
「…………わかりました」
「ヘラ!」
「一緒に騎士団の方々に謝ってくださいね」
「わかった。その後教会に行こう」
「はい?」
「ヘラの気が変わらないうちに結婚する」
「……変わりませんよ。私だってもうずっと好きなんですから」
「ヘラ……!!」
急に立ち上がったデュッセルドルフ様が感極まった様子でぎゅうぎゅうと抱き締めてくる。薬草くさい。苦しい。だけど、あたたかくて、幸せで。
「デュッセルドルフ様、そんなにたくさん話せたんですね」
「黙っていたら逃げられるとわかったからな。兄上のアドバイスはあてにならない」
「ふふ」
「兄上がヘラに結婚の話をしたのも恐らくただのおせっかいだ。兄上もヘラのことを気に入っている」
「それは光栄ですね」
「言っておくが僕の方がその何倍もヘラを好きだぞ」
この期に及んでまだそんなことを言うデュッセルドルフ様に笑ってしまう。
扉の向こうで様子を伺っている父や、巻き込んでしまった騎士達に早く謝罪しなければと何とかその腕から抜け出したが、「またどこかに行かれたら困る」と強引に手を繋がれてしまった。
王城を騒がせた春の嵐はこうして一応の決着を見せた。
人嫌いの魔術師の結婚が王都を騒がせるのは、それからすぐの話。
大好きすぎて口癖が「ヘラ」




