379話 醜い女
――数秒。時が止まったかのような錯覚を感じた。
「っ――! う、あ……!」
かと思いきや、アイネが吐き出すように声を出す。
頭を抱え込み、そのまま床に顔を叩きつけた。
「うああああああああああああああっ!!」
目の前に俺がいることなんてお構いなしに、蹲って叫び続けるアイネ。
「アイネ……」
「あああああああああああああっ! うあああああああああああっ!!」
それは聞いたことの無い泣き声だった。
いつもの明るいアイネの姿からは信じられないほどに、淀んで濁った声。
断末魔を彷彿とさせるような、胸を締め付けるような痛みに満ちた声。
そんな声をアイネにあげさせてしまったことがとにかく辛い。
――でも、これは避けては通れない。
「うっ――ぐっ……ち、違う……違うよ……! 先輩は……先輩は、努力したから強くなれて……だ、だから……先輩の方が強いのは当たり前でっ……!」
「そうだな……でも、アイネだって同じぐらい努力した。そうだろ?」
「違う……違うのっ……わ、私は……」
「悔しくなる。妬ましくなる。それは当然だよ、アイネ……」
「うわああああああああああああああっ!」
俺の声を遮るように泣き叫ぶアイネ。
顔をあげず、全てを拒絶したまま泣き続ける。
「アイネ……俺は別に……」
「なんでっ!」
バン、とうずくまったまま床を叩くアイネ。
数秒の間を置いて、今度は連続で拳を床に叩きつける。
「なんでそんなこと言うのっ! やめてよっ! 私は――私だって、私だって!」
「アイネ……?」
「そんなこと分かってる! 分かってるよっ!! でも……うえっ……ぐっ、ひっ……」
「…………」
無理に顔をあげさせたりすることはできない。
ただ、ひたすら背中をさする。
アイネが全て吐き出せるように。
「私……私はっ! 嫉妬なんて……嫉妬なんてっ! そんなの、そんなのいやだああああああっ! やだあああああああああああああっ!!!」
これは、ずっとアイネが抱え込んできたことだ。
最初に出会ったときから――いや、それ以前から。
ずっと、ずっと……アイネは、スイに嫉妬していたのだろう。
「やだよおおおおおおおおおおっ!! 私――私、そんなの、見たくないっ!! 気持ち悪い!!! 大っきらいっ!!!」
トーラを出た時に実力を認めてほしそうにしていたのも。
スイとサラマンダーが戦っている時に見せた、あの微妙な表情も。
思い返せば――そうとしか思えない行動をアイネは何度もしていた。
護られる対象として見られたくない。
仲間として対等に見られたい。
それらは全て――スイに対する嫉妬の裏返しでもあったんだ。
「うああああああああああっ! ううっ、あああああっ……」
だんだんとアイネの声が弱くなる。
その声は少しだけ枯れていた。
ずっと泣いて、ずっと自分を責めて、ずっと閉じこもって。
その時のアイネの苦しさが痛い程に伝わってくる。
「……辛かったな、アイネ」
「いっ――っ!」
びくり、と体を震わせるアイネ。
少しの沈黙を置いた後、ゆっくりとアイネが体を起こす。
「やめて……もうやめて……私のそんなところ、見ようとしないで……お願いっ……」
「どうして」
「だって……んぐっ、だってぇ!」
小さな子供のように叫んでは嗚咽の繰り返し。
ぎりぎりと歯をくいしばりながら、なんとか声を絞り出すアイネ。
「私……先輩が大好きで……憧れでっ……! 嫌なのっ……そんなのっ……!」
「何が嫌なんだ」
聞くまでもないことだ。アイネの気持ちは痛いほどに分かる。
でも――アイネの口から言わせないとだめだ。
そのために俺はここにいる。
「だって……こんな、こんなの……嫌い……嫌いだよ、こんな『醜い女』なんて……! 私っ……私が嫌いっ! 大っ嫌いっ!! こんな私だから……何も守れなかったんだ! 父ちゃんを死なせちゃったんだ!! 私が……私のせいでっ!! うああああああああああああああっ!!」
既に声は枯れ始めている。
――これが、アイネの痛みの正体だ。
アインベルを失ったことの痛みはもちろんあるだろう。
それは俺には想像も及ばないほどの悲しみだろう。
でも、アイネの苦しみの正体はそれだけではない。そんな単純な苦しみじゃない。
別の隠れた苦しみがアイネの傷をさらに深めていたんだ。
アインベルを失った悲しみで、自分の『嫉妬』という感情を無理矢理閉じ込めて、逃げ出した。
アイネは、そんな自分がたまらなく許せないのだろう。
アインベルを利用して、醜い自分を見ないようにした自分。そしてそんな自分を見つめることから逃げることができない現実が、どうしようもなくアイネに襲い掛かっているんだ。
――嫉妬。
その感情をアイネは押し殺そうと必死だったんだ。
アイネは――本当にスイのことを尊敬していたから。
スイのことが大好きだったから。
――スイを妬んでしまう自分が嫌い。
そんな呪いのような感情が、アイネをずっと苦しめていた。
そんな嫌いな自分は、自分の力で乗り越えるものだと、彼女は真剣に悩んでいたから。
それでも、敗北と、家族の死という現実をつきつけられて――今、アイネは傷だらけになってしまっている。
そう――今俺に見せているこの姿こそ、アイネがずっと隠していた、アイネの本当の姿だ。
だから、俺は目を逸らさない。
狂ったように泣き叫ぶアイネの背中を撫で続ける。
少しでもその痛みが和らぐことを願いながら。
「うっ……うぅっ、ひっ……うぐっ……うぅっ……うぇ……」
泣く体力も尽きたのか、アイネはぐったりとしながら俺に寄りかかってきた。
もはや自分で自分の姿勢を維持することもできないのだろう。
そんなアイネを支えながら、俺はゆっくりと話しかける。
「……アイネは、アインベルさんが嫌いか?」
「は……? なんで……?」
質問の意図が分からないのだろう。
やや呆然としながら俺のことを見つめてくる。
「嫌いじゃないだろ。好きだっただろ」
「そんなの……」
こくりと頷くアイネ。
「……でも、アインベルさんも同じこと言ってたぞ。スイに嫉妬したことがあるってな」
「えっ――?」
やはり、アイネはそのことを知らなかったのだろう。
そうでなければ、あんなに取り乱すはずがない。
「言ってたんだよ。アインベルさんが。俺にな」
「……え? どういうこと……? 嘘……?」
「本当だよ。ついこの間言ってた。嘘なんかじゃない」
もっといえば、アインベルはアイネの嫉妬を見抜いていた。
とっくに――もしかしたら、スイも。
そんな彼女のことなんて、分かっていた。
――それに、俺だって。
「アイネ……もしスイに嫉妬していたとしても、それは悪いことじゃない」
それは慰めなんかじゃない。俺の本心だった。
「そんな……そんなの……でも、嫉妬なんてっ……!」
「少なくとも俺は、アイネに嫉妬する自分を悪く思ってほしくない。むしろこう思ってほしいんだ」
いつの間にか、アイネは泣くのを止めていた。
じっと俺のことを見つめて、ひたすら次の言葉を待っている。
そんな彼女が可愛らしくて、愛おしい。
自然と頬が緩んでしまう。
「嫉妬という感情は……頑張ってきた証なんだ。努力の証拠だ」
「っ――」
ぎゅっと唇を結んで、涙をこぼし続けるアイネ。
でもその涙は、少しだけ色が変わっているように見えた。
「理不尽だよな。才能なんかで、努力が報われる度合いが違うなんて。そこに苛立って、嫉妬するのは――頑張ったやつしかできないことだ。誰にでも抱ける感情じゃない。凄いことなんだ」
アイネの頬に手を伸ばす。
自分から頬を手に寄せてきたように見えたのは気のせいだろうか。
そのまま、おそるおそるといった感じで俺のことを見上げてくる。
「だからアイネ。俺はな、別にスイに嫉妬してようが汚いとか思わないよ。アインベルさんに対しても思わない。――むしろ、その気持ちは尊重したい。アイネが努力してきた証だと、俺は誇りたい」
「誇り……私の、嫉妬が……?? 醜い……私が……??」
アイネの目が少し見開いた。
と思った瞬間、アイネが顔を隠すように俯いてしまう。
でも、頬は俺の手に寄せたままだった。
「それでも辛いなら――そういう気持ち、隠すなよ。隠してたら、支えられないだろ」
「支えるって……だって……そんな、リーダーにめいわ――」
「迷惑なんかじゃない。むしろ支えたいんだよ。俺は」
「嘘だ……」
「嘘じゃないって」
「じゃあなんでっ! 私……先輩みたいな価値なんて――」
「俺にとってはあるんだよ。アイネ」
無理矢理なのは分かっている。
それでも俺は、アイネの言葉を遮った。
価値が無い――そんなことは絶対に言わせたくなかったから。
――覚悟を決める。
アイネと向き合う覚悟を。
今までアイネから貰ったものを受け止める覚悟を。
「少なくとも、俺にとっては価値がある。俺は――アイネが好きだからな」