29話 逃走
地面についた手のひらをあげる。幸い傷はついていないようだ。
しかし何が起きているのかまるで理解できていない。
薬草の入った袋を持ち上げながら、よろよろと立ち上がる。
「うっ、つぅっ……うっ!?」
息を、のんだ。
──なんだ、アイツは?
真っ白になりそうな頭を支えながらその姿を見つめなおす。
「ア、アイネ……さん……?」
思わず、唾を飲み込んだ。自分でも驚くぐらい、ごくりっという音が喉から出る。
この体験は、この感情は、この恐怖は。
俺がこの世界に来た時のそれと同じもの──いや、それ以上だった。
目の前には黄金の鎧のような甲殻を纏った巨大なムカデ。
そしてその牙を両腕で受け止めるアイネの姿。
……いや、受け止めてなんかいない。
その牙は腕の皮膚に食い込み、アイネの腕からは大量の血が流れている。
俺からアイネまでの距離は数メートル離れていたが、はっきりと流血していることが目視できた。
「し、新入りさんっ! 逃げてっ!」
アイネが叫ぶ。
はっ……と、息をすいこんだ。
──まさか、俺を守って囮になるつもりか?
すぐに無茶だと理解する。
「何言ってるんですかっ! 血だらけじゃないですかっ!」
「ははっ、やっぱ新入りさんは大げさっすね。言ったっしょ? このぐらいの傷、クエストこなしてりゃ普通につくんすよ」
――嘘だ。
アイネの苦痛に満ちた表情を見れば明らかだ。
その言葉には説得力がまるでない。
今、アイネが対峙しているモンスターに俺は覚えがある。
ゴールデンセンチピード。ファルルドの森のボスモンスターだ。
なぜこんな所にいるのかは分からないが……
そもそも数日前にアインベルが倒したのではなかったのか?
それはともかく、アイネのレベルは50だときいている。
しかし、曖昧な記憶を呼び起こしてみてもゴールデンセンチピードのそれは、アイネのそれを上回っている。たしか70ぐらいだったはずだ。
当然、ゲームでは戦い方によっては自分より上のレベルのモンスターを倒すことは可能だった。しかし、それはパーティを組んでいた時の話だ。
ソロで戦う時はレベルをかなり気にしていたのを思い出す。
5レベル程の差であれば格上でもなんとか勝利することはできたが20の差はきつい。
「練気・脚!」
アイネが、ぐぐっと腰を低くする。
同時に、彼女の脚部を青白い光が纏いはじめた。
拳闘士は気をオーラとして纏うことで自分の能力を上げるスキルを持っている。
練気・脚は移動速度をあげる効果を持つ強化スキルだった。
どうやらアイネは退く気が無いらしい。
……いや、冷静に考えてみれば、退きたくてもそれができないのだろう。
必死に前傾姿勢を保っている今でさえアイネの体はじりじりと後ろに押し出されている。
こんな状況で体の重心を後ろにさげたら、おそらくアイネはゴールデンセンチピードに押し倒されてしまう。
あの巨体の前で体勢を崩したら、それは死に直結しかねない。
「ラァアアアアッ! 練気・拳っ!」
腕に青白い光を纏いながら、アイネは自らの腕をさらにゴールデンセンチピードの牙にくいこませ、一気にそれを押し返す。
練気・拳は攻撃力を増す効果がある。それを使って強引にこの状況を打破するつもりなのだろう。
さらに流れ出る血に、俺は思わず目をそらした。
しかし、アイネは激痛を受けている当事者でありながら表情を全く変えていない。
というか変えている余裕すらないのだろう。
「螺旋旋風脚!」
体をその場で三回転程ぐるりとまわし、その場でジャンプ。直後に回転蹴りを頭に叩き込む。
それがヒットした直後に風が地面から吹き上がる。
その風に押し上げられ空中に跳ぶアイネ。
さらに、そのままぐるりと宙返りをして踵落としをゴールデンセンチピードの頭へ叩き込む。
これが、練気のもう一つの効果だった。
気を体に纏うことで相手の防御力を無視した強力な攻撃スキルが使用可能になる。
もっとも、それをレベルに応じた一定数使用すると、スキルに対応した練気状態が解除されてしまうのだが……
アイネの場合、一回の練気で出せる攻撃スキルは一、二回だと思われる。
「剛破発剄!」
素早く着地して今度は拳でスキルを使う。
腕を纏う光がゴールデンセンチピードに吸い込まれていき、爆発音。
それを受けてのけぞるゴールデンセンチピード。
同時にアイネの練気が消える。
既に腕にはダメージを受けているはずなのに、アイネは腕を使って攻撃することに躊躇が無い。
そんなアイネの姿を見て、俺はようやく実感した。
──あぁ、これは確かにエースと呼ばれるわけだ。
「これをっ!」
とはいえ、茫然とそれを見ているわけにはいかない。
その隙をついて俺は薬草が入った袋をアイネの方に投げる。
「ありがとっ……でも早く逃げてっ! ウチ一人じゃこいつは倒せないっ!」
中の薬草をとりだし、腕に当てるアイネ。
淡い緑色の光がアイネの腕をつつんでいく。
しかし悠長に回復させてくれるほど、相手もバカではないようだ。
ぐねっと体をひねりながら体勢を立て直して、そのまま頭を少しひいた。
同時にゴールデンセンチピードから黒いオーラがあふれ出す。
「まずい! アイネさん、一緒に逃げましょうっ!」
それには──その、オーラには、たしかに見覚えがあった。
ゲームでもボスモンスターが黒いオーラを出すエフェクトのスキルがある。
そのスキルの名はサモンモンスター。
下級とはいえ何匹ものモンスターを召喚するボスモンスターに共通するスキルだ。
ゴールデンセンチピードの場合はアーマーセンチピードが五体召喚される。
──五体?
自分で思い出しておいて、戦慄する。
今の様子をみるにアイネのスキルでゴールデンセンチピードに与えたダメージはそう大きいものではないと思われる。
能力では相手に分があるのは明らかだ。
そこに、数の不利も加わるとなっては……
「新入りさんを守りながらだと、ウチも逃げられないっ! 早くっ、おねがいっ!」
切実にそう叫ぶアイネを見て、俺は思わず唇をかみしめた。
──そうだ、俺はこの場にいても足手まといになるだけなんだ……
彼女は逃げようと思えば最初から逃げられたのだ。
そ れをしなかったのは、俺を守るため。
「くっ……くそっ……」
何とも情けない話しだがそうと分かれば俺ができることは何もない。
アイネに背を向け全力で走り出す。
グゴゴゴゴ、というモンスターが湧き出る音が聞こえてきた。
しかし、振り返る余裕はない。
──ここはアイネを信じて逃げなければ!
「通さないっすよっ! ラァッ!」
後ろ髪をひかれる思いを強く感じながらも、なんとかそれをふりきるために。
俺はとにかく、全力でその場を走り去った。