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傍若無人で自分勝手。自由気ままで、堅苦しい世界には馴染まない。
そんなフランカが、どうして大聖女なんて面倒な役割を引き受けたのか。
聖殿内でも様々な憶測が飛んでいたが、その理由は実に単純な話だった。
「あの大聖女が王家に抱く恨みは、貴君も知っていよう。あまりにも残酷で哀れな、『公然の秘密』のその後というやつを」
「か、閣下、そのお話は、ここでは少し憚りが……」
敬語の男が、おそるおそる呼びかけた。公然の秘密は、王宮と聖殿の双方における禁句だ。誰かに聞かれては立場が悪くなる。
「こんな場末の食堂で、誰も聞き耳など立ててはいまいよ。よしんば聞かれたところで、どうせここにいるのは平民くらいだ。問題はあるまい」
しかし、相手の男に気にした様子はない。背もたれに重い体を預け、一つ深く息を吐く。
「それに、秘密などと言ったところで、誰もが知っている話だ。当時の衝撃は甚だしかったからな。昔から生意気で可愛げのなかったあの王太子めが、よもや女と逃げるなどと! ――いや、いや、しかし重要なのはこれよりも、逃げ損ねて帰って来てからの話だな」
く、と男が笑うように喉を鳴らす。秋の風は寒々しく、食堂内の空気を冷やした。
身分差の恋をする二人は、周囲の反対によって引き離された。
悲しい結末として、物語ならばここできれいに終わるだろう。だが、現実はその先がある。
続きは、苦くて醜い後始末である。
「王家があの女にした仕打ちはあまりに惨い。貴君も聞いたことがあるな? 連れ戻された王太子が、恋しさに逃げた相手に対してなんと言ったか」
男の押し殺した笑い声が聞こえる。さすがに声は潜めているらしく、他の客は彼らに気が付いていないようだ。
中庭では、子供たちがはしゃぎ続けている。明るい声が、場違いに響いた。
「『こんな女は知らん。見たこともない』――だと。あの冷血漢め、保身のために恋人を切り捨てるとは! この判断の早さだけは見習わなくてはならんな!」
――そう。
王太子の変わり身は早かった。
逃げ出せないとわかったならば、今後は王宮で生きていくほかにない。そのためには、平民との駆け落ち未遂などあまりにも外聞が悪かった。
たとえ嘘であろうと、王族の言葉なら真実になる。平民女がどれほど主張したところで覆ることはない。王太子――当時の王子が『見ず知らずの女に誘拐された』と言うのならば、それがすべてだ。
王宮の人間たちは、王子の主張を受け入れた。あとは女の自白だけ。頑なな女の口を開かせることに、王家は威信をかけていた。
「それにつけても、哀れなのは女の方よ。それこそ、口に出すのも憚られる。聖殿が止めに入らなければ、ふた目と見られない姿になっていたそうではないか。十年たった今でも肌を晒せないありさまとあっては、恨むなというのも無理であろう!」
カチン、とカップが皿に当たる音がする。
興が乗ってきたのか、男の声は次第に大きくなっていた。食堂の他の客が数人、なにごとかと彼らに視線を向けている。
「だからこそ、かえって信用できるだろう? 女としてのすべてを失い、復讐の一念で大聖女にまで立ったような人間だ。少なくともあの王太子を引きずり落とすまでは、諦めるはずがない。たとえ死んでもしがみつくだろうよ」
そして、すぐに目を逸らした。
聞いてはいけない話だと察したのだろう。
「――ああ、それにつけても傑作だ。なんという皮肉だろうか。偽聖女とはよく言ったものだ! 未婚を貫いてまで純潔を貫く聖殿ともあろうに、まさかその長が、国中に知られた『穢れた女』であろうとは!」
いつの間にか、話をするのは貴族の男一人になっていた。
気持ちよく言葉を操る男の話題は、次第に卑猥なものへと変わっていく。
自白を強要するために、王家がどれほどの無体を働いたのか。それを王太子が、どれほど冷たく見捨てたのか。憶測と妄想を重ねた言葉は止まず、食堂は静まり返っていた。
耳だけを男たちに傾けつつ、フランカはパンの最後のひとかけを口に放り込む。
――聖殿内でも、これだけ堂々と罵られるのか。
仮にも、聖殿はフランカの支配域だ。下々の食堂とはいえ、いつフランカの耳に入るかわからない。うかつとしか言いようがないが――。
――ずいぶんと舐められたもんだ。
そのうかつさの原因は、それだけフランカを下に見ているということにある。
きっと彼らも、宮中であれば口をつぐむだろう。声を潜めてさえも話すまい。
公然の秘密が隠すのは二つ――フランカが偽聖女である事実と、王太子が平民と逃げたという痛い過去。当然宮中でも禁忌であり、それは聖殿以上に厳格に守られている。
――私よりも、あの男の方が怖いって?
不愉快な顔を思い出し、フランカは奥歯を噛んだ。男たちの会話は、自分の立場がまだまだ危ういことを実感させられる。大聖女になっても、まだ足りない。もっともっと権力がなければ、貴族たちを黙らせることもできない。
――偉くなる。
フランカの目的は、ひたすらに単純だった。信仰心も博愛の心も持ち合わせてはいないが、目的のためなら愛想を振りまき、神に祈るふりをする。力が足りないなら、さらに得る。金のない聖殿を建て直し、その長の地位を押し上げる。
――もっとずっと偉くなって、力を得て、王家の威信なんか地に落としてやる……!
そのためなら、誰になにを言われても構わなかった。
復讐者であると言われても、穢れていると言われても、フランカに否定する気はない。そうやって堂々と話してくれた方が、むしろ自分の立場を思い知らせる良い指標となる。
――絶対に、追いつく。
中庭越しに遠く見える王宮の尖塔を睨み、フランカが両手を握りしめたとき――。
「――愉快な話だ」
背後から、無機質で冷たい声が聞こえた。
その声は、下々の食堂には似つかわしくない。思わずひれ伏してしまいそうになるほど、威圧的な響きを持っていた。
「俺の噂話だろうか、卿。ずいぶんと興味深い」
――は……?
低い声は、覚えたくもないが聞き覚えがある。思わず背後を振り返り、フランカはのけぞった。どんな言葉にも動じない気でいたフランカが、そのまま椅子から転げ落ちそうになる。
そこにいたのは、嘘のような美貌だった。
天の神に愛された、目が眩むほどの金の髪が、中庭から吹く風に揺れている。まさかと思って瞬いたが、姿は鮮明さを増すばかりだ。
なめらかな輪郭。傷一つない白い肌。琥珀の瞳は硬質で、表情というものを忘れたかのようだ。時おり瞬きをしていなければ、整いすぎた容貌と相まって、彫像と見間違えてしまいそうになる。
背は高い。体つきはしっかりとしていて、王子というよりは剣士のようだ。事実として彼は、腰に一本の剣を差している。それがまた、彼にはよく似合っていた。
その姿を見まごうはずもない。は、と口から声が漏れかけ、慌てて飲み込んだ。代わりに心の中で、盛大に吐き出す。
――はあああああ!? なんで王太子がここにいんの!?
視線の先にいるのは、あまりに場違いな空気を纏うフランカの仇敵。
王太子アレッシオが、美貌を台無しにするほどの威圧感を放ちながら立っていた。