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「――それで、三時間も逃げ回っていたんです……?」
聖殿内部、拝殿に併設する食堂で、新米給仕のジラルドが言った。
精悍な顔が、今はずいぶんと訝しげだ。フランカの周囲は美男美女が多いわりに、どうにも向けられる表情が奇妙である。冷笑、半泣き、そしてジラルドの胡乱な目。たまには満面の笑みを向けられてみたい。
「だから、ラニエーリ様たちがあちこち走り回っていたんですね。本当にお気の毒というかなんというか……」
「融通が利かないんだよなあ、ラヴィは。さすがは名門ラニエーリ公爵家の娘というか」
食堂の一角。中庭に面した席に座りながら、フランカは固いパンを手でちぎる。豆のスープに浸して食べれば、飢えた体に染みるようだ。冬に向かう風は冷たく、聖衣がない今は少し寒いが、ひりひりするような肌の感触も悪くない。
「貴族主義で理想主義なお嬢さん。優秀なんだけど、ちょっと真面目で固すぎる」
「フランメリヤ様が柔らかすぎるんですよ」
脱力した様子で、ジラルドは息を吐く。顔を見れば、彼がどちらに肩入れしているかは明らかだ。理由は至極単純で、彼もラヴィニアも、フランカに振り回される被害者同士だからである。
「いつもいつも仕事から逃げて、かくまう俺の身にもなってくださいよ。ラニエーリ様に怒られるのは俺なんですよ。しかも食事はとるくせにお金なんてほとんど持ってこないし。いつも、あとでラニエーリ様に払ってもらってるんですよ。まあ、経費で落としているみたいですけど」
言いつつ、ジラルドの視線はフランカの手元に向けられる。
固いパンが二つ。豆と野菜のスープが一つ。干した果物が一つ。これがフランカの食事のすべてだ。仮にも聖職者なので、肉類は提供できない。だが、それにしても質素すぎる。
「だいたい、フランメリヤ様の身分なら、お部屋でもっと良いものが食べられるでしょう。どうしてわざわざ、こんな下々の食堂なんて来るんですか」
「はー、うるさいうるさい」
まだまだ言い足りなさそうなジラルドに向け、フランカはスプーンを振る。せっかくラヴィニアの小言から逃げてきたのに、ここでまで説教されてはたまらない。
「ちょっとは大目に見てくれよ。お前が聖殿で暮らせるのは誰のおかげだと思ってるんだ? ん?」
「恩に着せるのやめてくださいよ! あなた本当に聖女なんですか!?」
「さあてな」
ははん、と笑って、フランカはジラルドの顔を見やった。
渋い顔をしてはいるものの、ジラルドはそれでもかなりの美少年だ。年は十六、七だろうか。しかし、フランカは彼の実年齢を知らない。
肌の色は浅黒く、髪は天地どちらの加護も持たない白色だ。切れ長の目にやや上向きの鼻、薄い唇。この顔かたちは、アロガンテでは見かけない。おそらくは異国の人間なのだろう。
彼はもともと、王都に転がっていた行き倒れだ。事情がありそうだが語らず、行く当てもないと来た。いかにも助けて欲しそうな様子だったので、仕方なくフランカが拾ってきて、聖殿で働かせているのである。
こういう人間は、聖殿内には少なくない。なんらかの事情で行く当てのない人間を保護するのも聖殿の役割だ。拝殿で働く人間は、多くがジラルドと似たような境遇だった。
ゆえに、フランカの逃走を強引に手助けさせられる犠牲者も後を絶たないのである。
「……わかりましたよ」
フランカの悪びれない顔を見て、ジラルドは観念したようにうなだれた。
「でも、お食事が済んだらちゃんと戻ってくださいよ。きっと、ラニエーリ様も心配していますよ」
「わかったわかった」
そう言って、フランカはニッと笑う。
いたずらっぽい笑みは、まるで子供と変わらない。こんな大聖女もいるのかと、ジラルドが内心で嘆息していることなど、フランカは知る由もなかった。
〇
小うるさいジラルドは「仕事だから」と厨房の奥に戻り、フランカは一人で食事を続けていた。
中庭に目を向ければ、秋色に変わった木々が見える。木々の奥には、聖殿の本体である二つの本殿――天の神殿と地の神殿があった。
この二つの神殿の間を、聖女や神官が忙しそうに行き来する。その手前、中庭の草むらの中では、この寒いのに子供たちが腕まくりをして遊んでいる。
聖殿の危機とは裏腹に、気が抜けるほど平和な景色を前に、フランカはスプーンを噛む。
わざわざ下々の食堂にいるのには、フランカなりに理由がある。
ここが一番、聖殿の姿が見えるからだ。
中庭に面した食堂は、聖殿の姿を一望できる。神殿間の行き来には中庭を通らねばならず、気分転換や子供たちの遊び場もここだ。
見習い以下の神官聖女は自室を持たないため、食事をするためには必ず食堂に行かなければならない。下男下女、聖騎士、聖殿に保護された人々の食事も、提供するのはこの食堂だ。あるいは拝殿は広く一般に開放されているため、町の人々や旅人、客人まで、様々な人間が休息や食事を求めてやって来る。
一番人が集まるのは昼時だが、それを過ぎても人の姿はちらほらある。今もフランカの席の背後で、ティーカップを傾ける二人の男がいる。
この質素な聖殿には相応しくない華美な服に、脂ののった肉厚な体。見るからに貴族らしい彼らの姿に、フランカは見覚えがある。
二人とも、王太子に目を付けられ、王宮での居場所を失いかけていた小貴族だ。小金がありそうだから声をかけ、聖殿の後ろ盾と引き換えに寄付を無心した。
聖殿は腐っても、アロガンテの二大勢力だ。その後ろ盾は、名前だけでも強い。王家に正面から反抗していることもあり、同じように王家に不満を抱く者からの信用もある。
フランカの口車に乗って、彼らは気前よく寄付をしてくれた。なかなかに金払いの良い上客ということで、印象に残っている。
「――しかし、フランメリヤ様も困ったものですな」
男の口から出た己の名前に、フランカは思わず耳を傾けた。
「今日も留守にしていらっしゃるとか。側近のラニエーリ様も出払っているようで。いったい、どこでなにをしていることやら」
「これでは、ろくに相談もできぬ。王家の目に余る横暴を止めるためにも、反対派同士で結束を固めるべきだと言うのに」
「まったくですな。この危機に遊びまわるなど、呆れてものも言えません。やはりしょせんは、平民上がりの偽聖女、ですな」
ははは、と笑い合う二人は、フランカが傍にいることに気が付いていないようだ。
大聖女の聖衣を脱いだ今、フランカはまるきり平凡な娘だった。景色に馴染むほどの地味な容姿は、こういうときに役に立つのだ。真正面からまじまじと見つめない限り、よほど親しい相手でもなければ気付かれることはない。
「しかし、だからこそ心配でもありますな。小娘程度が王家に歯向かったところで、太刀打ちできるとは思えません。特にあの王太子めの手練手管と来たら、並みの貴族でも返り討ちですからな」
「ふん」
ともう一人の男が不満そうに息を吐く。
「手練手管などくだらん。あの男、単に力で脅しかけているにすぎん。まるで子供だ。自分に逆らう人間を宮中から追い払い、周囲を賛同者ばかりで固めるなど」
「ですが、それこそ恐怖でありましょう。騎士団の指揮権はあやつの手にあり、我がもののように振るうのですから。おかげで、どれだけの人間が消されたことか、もはや数え切れません」
敬語の男が、恐れるように両手で自身を抱く。
王太子の横暴は有名な話だ。自分に従う者は優遇し、逆らう者は徹底して冷遇する。時には実力行使にさえも出る。歴史に存在する暗君そのものだが、諫める言葉など耳に入れようともしない。父親である現国王さえも止めることはできず、逆にいつ刃が自分に向かうかを恐れているほどだ。
宮中で彼らのような力ない貴族が生き残る方法は、二つに一つだ。王太子に服従するか、金を払って聖殿の庇護を求めるか。彼らは今のところ、聖殿を選んでいる。
「我々のような貴族でさえもこの状態です。平民の小娘に、なにができましょう。今に尻尾を巻いて逃げ出すのではないかと……」
「それはあるまいよ」
敬語の男の恐怖を、もう一人が鼻で笑う。瞳にあるのは、どこか下世話な確信だった。
「あれは女の妄念だ。なにがあっても逃げることだけはあるまい――復讐を果たすまでは、な」