1-3
現在、聖殿は未曽有の危機に瀕していた。
なんといっても、金がないのである。
原因は数え切れないくらいにあった。
ただでさえ年々減り続けていた予算の大幅削減が決まったことが一つ。
王家からの一層の冷遇を受け、多額の寄付を寄越していた貴族たちが離れたのが一つ。
優秀な人材が軍部からの引き抜きにあい、この危機に対応できる人間がほとんどいなくなっていたのが一つ。
だが一番の原因はおそらく、これらを受けてもなお、先代である当時の大聖女がなんの対策も取れなかったせいであろう。ここに至るまでの予兆は無数にあったのに、「話せばわかる」「時が解決する」「神のご加護がある」などと言って静観していた。
その結果がこの通り。空になった金庫と、優秀な人間ばかりが抜け落ちた空洞の聖殿なのだから、神も無慈悲なものである。
先代大聖女が逃げるように座を辞したのは三年前。多額の負債ばかりが残ったが、これを解消できる者はなかった。
清貧を愛し、金を卑しいものと蔑む聖殿に、金を稼ぐ手段など持ち合わせてはいない。これまでの運営は、王家からの予算と人々の寄付だけで成り立っていた。双方が離れれば、金が消えていくのは必然である。民衆からの寄付は絶えなかったものの、これらも貴族たちに比べたら、はした金という他にない。
優秀な人間ほど泥船からは逃げ出して、聖殿の混乱も極まった。目前に迫った崩壊を前に、おそらく誰もが冷静さを見失っていたのだろう。
聖殿は生き残りをかけ、一つの大博打に出た。出てしまった。
それが、問題児の中の問題児――当時一介の聖女だったフランカ・フランメリヤの大抜擢である。
〇
「この性格を知って、納得して大聖女に据えたんだろう? 聖殿は卑しさよりも存続を選んで、私も期待には応えているつもりだ」
ぬけぬけと言い放つフランカに対し、ラヴィニアは反論できなかった。
怒りに頭が染め上げられていても、こればっかりは認めざるを得ない。
「……た、たしかにそれは……そうだけど……!」
ぐぐ、と悔しさを噛みしめ、ラヴィニアは言葉を絞り出す。
「フランカじゃなきゃ……聖殿は今ごろ潰れていたかもしれないけど……!」
肯定しつつも、しかし襟首を握る手を離せないのは、日頃の恨みの深さのせいだろう。
フランカの抜擢は、結果的には成功だった。明日にでも崩壊するような三年前の状況から脱し、今はわずかながら財政も上を向き始めている。
おそらく、これまでのような大聖女ではこうはいかなかったはずだ。歴代の大聖女は例外なく大貴族の出身で、初就任も若くて三十代後半から。生まれてこのかた金に苦労をしたこともなく、聖殿の慣例にも染まりきった人間ばかりだった。きっと彼女たちでは、フランカのように早々に王家からの予算に見切りをつけ、他の財源を探ろうと考えることはできなかった。
予算会議であれほど噛みついておきながら、フランカがさほど予算を重視していないことをラヴィニアは知っている。あの態度は一種の見せかけなのだ。不平不満を口にすることで下げ止まりを阻止するとともに、予算以外の分野への侵食を予防する目的がある――などと、いつだったかフランカは弁明していた。
その真偽はさておいて、フランカのおかげで予算以外の財源が確保できたのは事実。他者に頼り切りの聖殿が、自分の足で立ち上がるための、最初の一歩を踏み出せた。
ただし、その弊害も大きかった。
「で、でも、そのせいで王家との仲は壊滅的。聖殿内部も分裂状態。フランカも個人的にあっちこっちで敵を作ってくるし……!」
王家との仲は言わずもがな。フランカは聖殿内部でもまた、仲違いを引き起こしていた。
財政が上向きになると余裕が出る。余裕が出ると、不満が目に付く。フランカは確かに聖殿の崩壊を止めたが、それにしても問題児すぎた。
安定した財源――すなわち商売を始めるには、まず元手が必要である。
そのためにフランカがしたことは、清廉なる聖殿としてはとても受け入れがたいものだった。
フランカは真っ先に、神の所有物たる聖殿の遺産を容赦なく売り払った。金や宝石がついた金目のものは当然。神の像や古い絵画、由来不明の石ころにいたるまで、適当に理由を付けて高値で横流ししたのである。
聖殿三百年の歴史で、初めての借金もこさえてきた。寄付は脅すように集め、挙句は免罪符などと称して、金持ち相手に二束三文の紙切れを売り始める始末。
フランカの行動は激しい賛否を呼び、聖殿内部は今も揉めている。
――平民上がりの卑しい偽聖女。
フランカを貶す言葉に、ラヴィニアは何度も悔しい思いをしてきた。
だが、否定できないのも事実だ。
フランカは平民の出自である。そのうえ、彼女は孤児だった。三歳の時に両親を亡くし、十歳で精霊を見る目を買われて聖殿に引き取られるまでは、貧民街の孤児院で暮らしていたという。質の良い孤児院ではなかったらしく、聖殿で学ぶまで彼女は字の読み書きもできなかった。
フランメリヤ、の姓も、本当は持っていない。大聖女になるにあたって姓がないと不便だからと、適当に名付けたのだ。
卑しい、と言われてしまうのも、実際の彼女の行動を見ていたら無理はない。集金力は確かにあるが、やり口は町の商人たちも舌を巻くほど阿漕なものだ。
ただでさえ、金儲けを蔑む聖殿だ。利益優先で他人の損などお構いなしのフランカの思考は、本来ならばもっとも軽蔑するべきものである。
おまけにフランカは、正真正銘の偽聖女だった。
なにせフランカには、聖女になるべき資格がない。
貴族ではないから、などという政治的要素を除いても、フランカは聖女の要件を満たしていなかった。
聖女になれる人間は、深い信仰と博愛の心、巫女の才能、穢れなき肉体に、清廉潔白な人生。これらすべてを兼ね備えた未婚の女性に限っていた。
巫女の才能とは、精霊を見る目である。この世に満ちる精霊を見極め、彼らに語り掛けて奇跡を起こす――すなわち、魔法を使うことさえできれば良い。
フランカは、この巫女の才だけは突出していた。
だが、それまでだ。聖女に必要な条件を、フランカはどうあっても満たすことができない。本来ならば、フランカは一介の聖女にすら就くことはできない身の上だった。それでも聖女の末席にいたのは、巫女の才を惜しんだゆえの特例である。
大聖女になるためには、この特例にさらに特例を重ねた。非常時だからと手続きを省き、誤魔化し、なにかしらの言い訳をつけて、強引に押し通したのだ。
言ってしまえば、聖殿の混乱に乗じた離れ業。紛れもない詐称なのである。
最近では、このことを今さら蒸し返して問題視する動きが活発だ。
ここまで持ち直した以上、もはやフランカのような『偽聖女』は不要。聖殿の品格を落とすだけ。早々に座を辞すように――とフランカに迫る一派もいる。
いや、座を辞すだけならまだ穏当だ。フランカ自体を聖殿の汚点とし、正当な大聖女ではないと言って存在すらなかったことにしようとする派閥もある。
――今までフランカの恩恵にあずかってきたくせに……!
フランカに振り回され、つき合わされてきたからこそ、ラヴィニアは彼女の功績も知っている。口と態度が目に余り、性格があまりに自分勝手なばっかりに、彼女は功績以上の不満と敵を作ってきた。
それが悔しい。補佐官として、腐れ縁として――フランカの友人として、彼女がきちんと認められて欲しかった。
――せめて、フランカが聖女らしくあれば……。
形式にこだわる聖殿のことだ。きっと文句を言う相手も減っただろうに。
ここまで考え、ラヴィニアは視線を伏せた。深く長い息を吐く。
「……私は、フランカにもう少しだけでも聖女らしく振舞ってほしいだけなのよ」
ぐるぐるとめぐる思考に、頭に上った血も冷めていた。代わりに口から出るのは、フランカへの嘆願である。
「別にあなた、上品な態度が取れないってわけじゃないじゃない。言葉遣いだって仕草だって、やろうと思えばきちんと貴族に合わせられるでしょう? 少しだけ、我慢してほしいのよ。それだけできっと、周りの見方も変わるわ」
こんなこと言われなくても、フランカ自身でわかっているだろう。だが、自由というべきか傍若無人というべきか、どうしても彼女は型にはまることができずにいる。
きっとフランカは、聖殿のような堅苦しい場所には不似合いなのだ。それでも大聖女になった以上は、向き合ってもらわなければならない。
「殿下にだって、あんなに噛みつくことないのよ。確かに聖殿と王家は仲が良いとは言えないけど、別に敵同士なわけじゃないんだから」
これもまた、フランカも重々承知しているはずだ。わざわざ口にするのは、少しでもフランカの心に届いてほしいというラヴィニアの願いである。
「本来なら、手を取り合うような関係なのよ。今はこんな状態だけど、殿下は聡明な方だし、きちんと話し合えばきっとわかっていただけるわ」
アロガンテ王政が民を顧みないのは、聖殿が代わりを担っているからだ。今の王家――特に王太子は聖殿潰しに熱心だが、その結果失うものは大きい。
だから話し合えば――という考えこそ、先代大聖女と同じ過ちであるが、ラヴィニアは気が付かない。
「落ち着き始めた今だからこそ、態度を改めて、誰にでも喧嘩を売るような真似は止めて欲しいのよ。わかるでしょう、フランカ――――フランカ?」
友人のことを心配し、心から呼びかけたラヴィニアは、顔を上げたところで息をのむ。
フランカがいない。
両手は、大聖女の聖衣の襟首を掴んだままだ。しかし、その中身がない。聖衣だけが宙に浮いている。
聖衣はまるで、透明な人間が着ているかのように膨らんでいた。ラヴィニアが思わず手を離しても、形を保ったまま。宙に浮き続けている。
――フランカ?
驚き、瞬きをしたとき、ラヴィニアの視界の端に、黒い光がよぎった。
目を凝らすと、硬貨ほどの小さな光がいくつも見える。それらの光が聖衣の中に集まって、まるく形を作っている。
――精霊!
黒色の光は、地母神の眷属。地の精霊である。フランカが好んで扱う精霊だ――と気付くと同時に、部屋に風が吹き込んだ。
はっと風の方へ振り返れば、開け放たれた窓が見える。窓には、今まさに脱走しようと足をかけるフランカの姿があった。心配など頭から吹き飛んだ。冷めた熱が一気に戻ってくる。
「フーラーンーカー!!」
「げっ」
ラヴィニアの怒りに気が付くと、フランカは慌てた様子で窓を飛び越えた。ラヴィニアは慌てて後を追い、窓枠に縋りつく。だが手遅れだ。
「待ちなさい! ――この! 大聖女が二階から飛び降りるんじゃないわよ!」
眼下には、建物を囲うように茂る木々と、慣れた手つきで木の枝を掴み、そのまま地上に降りて逃げ出す大聖女の姿があった。