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カダーヴェレ大陸、東部大域を支配するアロガンテ王国の悪名は高い。
戦争と内乱に明け暮れる王国は、建国より三百年、争いのない時代が存在しない。国が富めば他国に攻め入り、国が病めば国内が荒れ果てる。アロガンテの国土の大半は他国から奪ったものであり、アロガンテに隣接する国の大半は、内乱の末に独立された諸侯のものである。
国は民を顧みず、ひたすらに力だけで支配した。豊かな国力とは裏腹に、民の生活は悲惨なものだ。争いのたびに蹂躙され、町に残されるのは血と鉄の臭いと、嘆きの声だけである。
周辺諸国はなおさら。侵略と略奪の後は、人々の嘆きすら残らない。焼けた土地があるだけだ。
いつしかアロガンテは『悪魔の国』と呼ばれるようになった。大陸北部に住まう恐るべき異形種――悪魔族と、アロガンテはなんら変わりない。人間でありながら、悪魔のごとき残虐なる侵略者なのである。
しかし、そんな悪魔の国にも、たった一つだけ良心と呼べるものが残っていた。
戦に焼け出され、親を亡くした子供。夫を亡くした女。手足を失くして動けぬ男まで、どんな人間にも手を差し出す救済者たちがいる。身分も出自も問わない。兵であろうと農民であろうと、敵であろうと味方であろうと受け入れるという組織。
これこそが、天地神信仰の総本山にして、万民の救済施設――『聖殿』である。
聖殿は、大陸全土に伝わる創世神話の主神、天の父神と地の母神を祀る使徒の集いだ。
大聖女と呼ばれる巫女を頂点に、神に仕える神官と聖女で構成されるこの聖殿は、民に背を向けたアロガンテ王政に代わり、民を守り慈しむために存在するのである。
〇
大聖女とは、この世の愛の権化である。
地母神の化身である彼女は、優しく穏やかで、それでいながら凛として強い。決して物事に動じることはなく、常に微笑みを湛えたたおやかな女性なのだ。
救いを求める声を、彼女は一つとして聞き漏らしはしない。罪の告白にも些細な悩みにも耳を貸し、怒らず、貶さず、ただ慈しみで受け止める。彼女の前では、どんな罪人も悔い改めずにはいられない。まさに、この世に生きる万民の母である。
――だ、そうだ。
「うがぁあああああああ!! マジでムカつく!! なんだあのスカし野郎!!」
アロガンテ王国、王都南部は聖殿本殿。
二階に位置する大聖女の執務室で、その大聖女本人――フランカ・フランメリヤが喚いた。
「なぁにが『貴様の案ずることではない』だ! 尻ぬぐいすんのはこっちだっての!!」
大荒れのまま終わった予算会議を思い出し、フランカは頭を掻きむしる。苛立ちに任せて執務机を叩けば、山のように積まれた書類が崩れ落ちた。
すでに崩れていた書類とあわせて、部屋の中は乱雑さを極めていた。しかし、彼女は一向に気にしない。整理整頓なんて高尚な趣味など持ち合わせてはいないのだ。
「あの脳筋、魔物さえ倒せば終わりだと思ってやがる! その後どうすんだって話だろうが!」
フランカの顔に、噂の大聖女らしい優しさはない。穏やかさもなければ、凛とした強さも見られない。苛立ちを隠せず歪んだ表情は、微笑みとも無縁である。当然、たおやかさなど片鱗さえも窺えない。
「品がないからなんだってんだ! 品でメシが食えるかよ! クッソクソのクソ野郎! 絶対に吠え面かかせてやる!!」
そこらの聖女が聞けば卒倒するような罵声を吐き、フランカは荒く息を吐く。誰かに聞き咎められる可能性を想像もできないくらい、彼女は頭に血が上っていた。
フランカの思考を占めるのは、腹立たしいほど冷笑を崩さない王太子の姿だ。侮蔑以外の感情を一切捨てたようなあの男に、フランカはどれほど煮え湯を飲まされてきたことだろう。
二年前の大聖女就任からこっち、フランカはやることなすことあの王太子に否定され続けてきた。口を開けば侮辱の言葉が吐き出され、意見を言えば切り捨てられ、あまつさえ人間どころか猿扱い。聖殿への冷遇も著しく、予算もろくに下りないときた。
これでは、仲良くするのも無理がある。過去の因縁を飲み込み、下手に出てやっていると言うのに、いったい何様のつもりだろうか。王子様か、と内心でフランカは唾を吐く。
「王家がそんなに偉いかよ、くそったれ! 今に見てろ、あのド畜生!」
怒りに震える手のひらを握りしめ、フランカは虚空を睨んだ。視線で人が殺せるのなら、あの王太子は百回死んでも死に足りないだろう。
「絶対にぶっ潰してやる! 王家なんざすぐに追い落として、偉そうな顔を歪ませてやる――――ぐえ」
声高に叫ぼうとしたフランカの語尾が、それこそ潰れた鳴き声に代わる。息苦しさに目をやれば、フランカに向けて白い手が伸びていた。どうやら襟首を締めあげられているらしい。
なにごとか、と思うより先に、フランカに向けて涙交じりの怒声がぶつけられた。
「『今に見てろ』じゃないわよ! あなた、なんてことしてくれたのよ!!」
言いながら、相手はぐい、とフランカに顔を寄せる。黄色味の強い金の巻き毛が頬に触れ、白くやわらかな輪郭が迫っていた。息をのむほどの美女であるが――今は表情で台無しだ。
緑の瞳は潤み、顔はくしゃくしゃに歪んでいる。ほとんど半泣きといえるこの表情は、悲しみではなく怒りによって生み出されたものだった。
「殿下に逆らってあんな醜態晒して! しかもこれ、何度目よ!? どうしていつもいつも、殿下に食って掛かるのよ!!」
「ら、ラヴィ……」
自分以上の怒りを前に、フランカはたじろいだ。なだめるように相手の名前を呼ぶが、聞こえているかすらわからない。襟首を掴む手は、力を緩めるどころかいっそう容赦がなくなっていた。
無理もない。彼女はフランカに、積年の恨みがある。
「これだから、あなたの補佐官なんてやりたくなかったのよ! やることなすことめちゃくちゃで、昔から問題ばっかり起こしてるんだから!!」
フランカの側近にして苦労人。大聖女補佐官ラヴィニア・ラニエーリの魂からの叫びであった。
フランカとラヴィニアの付き合いは長い。元をたどれば十数年前、フランカが聖殿に入ったときからの腐れ縁だ。
言い換えれば、彼女は十数年来、無軌道すぎるフランカに振り回され続けてきた被害者でもある。
勝手気ままな自由人。型にはまらないフランカは、大聖女になる前から問題児として有名だった。彼女の奔放さに付いていける人間は少なく、一人、また一人「フランカだから……」と諦めていく中で、面倒見のよさゆえに最後まで残ってしまったのがラヴィニアなのである。
大聖女の補佐役も、実のところはこの延長だ。要は暴れ馬のようなフランカのお守り役としてあてがわれたのだが、悲しいことにラヴィニアが期待通りの役割を果たせたことはほとんどない。
「今回は絶対大丈夫だって言ったじゃない! ちゃんと我慢するって、自分で言ったのよ!?」
先刻の予算会議も、ラヴィニアはフランカに同行していた。フランカには何度も念を押し、「今度こそ大人しくする」と約束させて挑んだ会議だったのに、結果は御覧のありさまである。ラヴィニアにできたことは、会議が終わっても王太子に噛みつくフランカを、どうにか引きはがして聖殿まで連れ帰ることだけだった。
「あなた聖殿の代表なのよ! 少しくらい自覚しなさいよ! あなたの評価が聖殿の評価につながるのよ!?」
「私は大人しくしようとしてたんだよ! でもあっちが!」
「『あっちが!』じゃない! 子供みたいな言い訳しないで、いい加減に慣れなさいよ! もう二年も大聖女やってるんでしょう!?」
鋭い声がフランカの言い訳を制する。その剣幕に、さすがのフランカもおののいた。
「あなたが――」
ラヴィニアはくしゃくしゃの顔でフランカを見据えた。彼女の瞳に浮かぶのは、溜まりに溜まった鬱憤である。
「あなたがいつまでもそんな調子だから、未だに『平民上がりの卑しい偽聖女』なんて言われるんでしょうが!!」
「……しょうがないじゃん。本当のことなんだし」
「開き直るんじゃないわよ!」
荒く息を吐くラヴィニアの怒気に、フランカは肩を縮めた。相手を直視できず、そっと視線を逸らす。
これは相当怒っている。下手なことを言ったら、このまま絞め殺されかねない。
「そう言われても……」
だというのに、ついつい口を滑らせてしまうのは不思議である。
「事実なんだからどうしようもないじゃん。私が平民の生まれなのも、卑しいのも――偽物の聖女ってことも」
そう言いながら、フランカは逸らした視線を部屋の中に移動させた。
二年前から自分の部屋になった大聖女の執務室。この部屋を一言で表すなら、『空虚』という他にない。
書類が散らばり、床一面を埋め尽くす。机の引き出しは半分が開け放したままだ。空になったインク瓶は捨てられることなく転がって、ペンが机の上にも下にも転がっている。
これだけの乱雑さの中にあっても、部屋の空虚さは誤魔化されない。
部屋には調度の類が一切ない。壁にあるのは、中庭に面した大きな窓と、日差しを避けるように置かれた二つの本棚だけだ。その本棚の本も、半分くらいは空になっている。
机も椅子も、古くて固い安物だ。床には絨毯の一つもない。天井には巨大な燭台が吊り下げられているが、すっかり埃が被っていた。代わりに机に簡素な手燭が置かれ、黒ずんだ蝋燭が刺してある。
この蝋燭の色は、何度も蝋を固め直したせいだ。王座に次ぐ地位と言われる大聖女が、真新しい蝋燭さえも使うことができない。
これが、聖殿の実情だ。王家と対立し、冷遇され続けた組織の末路である。
「だからこそ、聖殿は私を必要としたんじゃないか。貴族生まれの尊い『本物の聖女様』は、金の集め方なんて知らないんだから」
無意識に、フランカの口元が歪む。
笑みとは言い難いその表情には、神をも恐れぬ不遜さが滲んでいた。