1-17
夜会場はざわめいていた。
事前に伝え聞いていた余興の時間になっても、未だに王太子も大聖女も姿を現さない。
代わりに先ほどから、兵たちがなにやら慌ただしく出入りしていた。
なにかあったのだろうか。
夜会の客たちはひそひそと噂をするが、その答えを持っている人間はいなかった。
――そろそろか。
彼は客たちを横目に、そっと足を引いた。
立ち去ろうとする彼を見て、話をしていた相手がいぶかしそうに眉をひそめる。
「どうした? まだ話の途中だろう」
「すみません、空気に酔ってしまったようで。少し風に当たってきます」
適当な言い訳を口にすると、不服そうにだが男は彼を離してくれた。
代わりに別の相手と、今日の余興の『答え合わせ』について語っている。
この時間まで大聖女が現れないのは、すなわち犯人を明かせなかったということ。
大方、逃げ出したかなにかして、王太子が探し回っているのだろう。
これは自白したも同然だ――などと、喜々として話していた。
――はずれ。
彼は蔑むように男たちを見やる。
だが、正答は最後までわからないままだ。
王太子とともに大聖女も死ねば、もう秘密を悟られることもないだろう。
――あとは、ゆっくりと『あのお方』をお探しするだけだ。
彼は笑うように息を吐くと、夜会場の外へ足を踏み出した――その直前。
「――――どうも、大将。これからどちらに向かわれるつもりです?」
彼は肩を掴まれた。
「死体の確認なら不要ですよ。――私以外の死体を確かめたいなら別ですけども」
聞こえてきたのは、不遜な響きを持つ、女の声。
顔を上げて、彼は悲鳴を漏らしかけた。すんでのところで飲み込み、代わり相手の名前を絞り出す。
「フランメリヤ様……」
目の前にいたのは、ボロボロのドレスを身に纏った黒髪の大聖女だ。
白いドレスが切り裂かれ、点々と血が滲んでいる。髪は乱れ、化粧も崩れ、靴すらもなく、裸足だった。
――生きていたのか……!
思わず内心で呟いたとき、大聖女は表情を歪めた。
「生きていたのか――って顔をしてますね? おおかた同士討ちをさせて、生き残った方を魔物で始末しようって腹だったんでしょう。当てが外れたようで残念ですね」
心を読んだような言葉に、彼はぎくりとする。黒い瞳にのまれそうで、彼は慌てて顔を背けた。
「な、なんのことでしょう? すみません、私は具合が悪いので……」
「それなら、悪いですけどもう少しだけ辛抱をお願いしますよ」
大聖女は彼から手を離さない。
肩を掴む手に力をこめ、彼女はにやりと笑ってみせた。
「これから余興があるのですから、主役がいてくれないと困るでしょう。ねえ――フィロー伯爵?」
魔法研究所の副所長。
小柄なフィロー伯爵が、フランカの視線を前に身をすくませた。
〇
フランカの異様な姿に、会場中の視線が集まっていた。
ざわめく周囲の視線に怯えたのか、伯爵は小さく体を震わせた。
「ど、ど、どういうことですか? わ、私と余興になんの関係が……? だ、だいたいフランメリヤ様、そのお姿はなんなんですか!」
おどおどと視線をさまよわせながら、伯爵は甲高い声でそう言った。
そのお姿、と言われて、フランカは自分のひどい格好を思い出す。動きにくいからドレスは破り、靴も早々に脱ぎ捨てた。上着はどこへ行ったのやら。背中が開いているぶん、寒々しくて仕方がない。
「い、いったいなにがあったのですか……! わ、私にはさっぱり……」
「なら、説明して差し上げますよ。ちょうど注目を集めたようですし、余興を始めるのにちょうどいいでしょう」
フランカは薄く笑って会場を見回した。
物見高い貴族たちが、遠巻きにこちらを見ているのがわかる。場違いすぎるフランカの様子に眉をひそめる者もいるが、好奇心は隠せていない。フランカと伯爵の会話を、大多数が耳を澄ませて聞いている。
「せ、説明? 余興って、で、殿下もいらっしゃならいのに……!」
殿下、と言った瞬間、伯爵の目に微かに光が戻った。はっと気が付いた様子でフランカを見やり、怯えるように目を見開く。
「そう! 殿下はどうされたんです! ご一緒ではないのですか!?」
「ああ、そうですねえ。あなたの計画だと、彼は死んでいるはずなんでしたっけね」
はん、とフランカは鼻で息を吐く。乱れた髪を掻き上げて、伯爵の顔を覗き込んだ。
「殿下が再び襲撃に遭い、犯人を追いかけた先に、私がいて――ここで互いに争い合うか、そうでなくとも疑心暗鬼に陥るはずでしたよね? その隙を突いて魔物をけしかければ、いくら武勇に優れた殿下も仕留められるはず――と。こんなところですかね」
「ま、魔物に襲撃……? なんのことで……」
「私と殿下の態度を見れば、同士討ちくらいやりかねないですもんね。特に今日は、私の進退が決まる日です。ここで真犯人を明かせなかったら、どちらにしろ王太子暗殺未遂で私は処刑だ」
ならば処刑の前に、最後の抵抗をするだろう。
少なくとも、周囲の人間たちはそう考えてもおかしくない。
ここで王太子が死んでいたら、フランカが犯人だと多くの人間が思うはずだ。二人分の死体が上がっても、フランカが返り討ちに遭ったのだと判断するだろう。
魔物の痕跡は、死体の確認ついでに隠しておくつもりだったのか。あるいは、それも聖殿に押し付けるつもりだったのか。そこまでは知らないし、重要なことではない。
「最善は、二人とも死ぬこと。悪くても、片方は死んでいる。――どうですかね、この推測は」
「……ま、待ち、お待ちください!」
フランカの問いには答えず、伯爵は慌てて声を張り上げた。恐れるようにフランカを見やり、まさか、と首を横に振る。
「い、今のお話ですと、ど、同士討ちをされたということですか!? し、しかもフランメリヤ様がご健在ということは――」
必然的に、アレッシオが死んでいることになる――彼の中では。
魔物、襲撃、同士討ち。不穏な言葉の数々に、会場がどよめく。フランカに向けられた無数の不審な目を武器に、伯爵はさらに言葉を重ねようと口を開くが――。
「悪いが、生きている」
視線がそのまま、フランカの後ろに向かう。
抜き身の剣を持ったまま、ゆっくりと歩いてくるのは、死んでいるはずのアレッシオだった。
剣は、血とすら思えない泥のような黒い液体に汚れている。腐臭にも似た悪臭を放つこの汚れが魔物の体液であることを、伯爵は理解しているのだろう。彼は表情を歪め、一歩足を引いた。
「俺と大聖女の関係を見誤ったな。聖殿の魔法があれば、あの程度の魔物など物の数ではない」
アレッシオは血を払うように剣を振る。黒い体液が剣先から滑り落ち、大理石の床の上を穢す。
それを不愉快そうに踏みにじり、アレッシオは伯爵を見据えた。
「命を奪い合うような真似をすると思ったか。大聖女に理があれば、納得するだけの理性はある」
「まあ、普通に話しあって、答えが一致したってわけだ。同士討ちもないし、疑心暗鬼もない。魔物は協力して倒しました、と。――伯爵、顔が青いようですが?」
青ざめる伯爵に、フランカは問いかける。
伯爵は小さな体いっぱいに汗をかき、目の焦点が合わない。いかにも泣き出しそうな顔は哀れを誘うが、フランカは薄笑いのままで、アレッシオに至っては眉一つ動かさない。
それでも、縋るように伯爵は首を振った。
「そ、それと私と、なんの関わりが……なぜ私が疑われて……」
「なぜ?」
ああ、と言ってフランカは口を曲げる。思い返すのは、事件の翌日。彼が魔法研究所の人々と交わしていた会話だった。
「フィロー伯爵、覚えておいでです? 以前私がベルティ伯爵に『罪人』と呼ばれたとき、あなたがかばってくださったこと」
「え? ええ……まだフランメリヤ様が罪人だと決まったわけではなかったので……」
「まだ、と」
フランカの顔は、笑うようで笑ってはいない。口を曲げ、目を細めていながらも、どこか歯を食いしばるような表情だった。
「それはありがたいことですね。そんなことを言ってくれる人は、この国には一人もいませんよ。王家の判断を否定することになりますからねえ」
言葉の意図が読めないかのように、伯爵は瞬きを繰り返す。
彼にとって――フランカの罪は、王太子の暗殺容疑だ。確定するまでは罪人ではない。
それに、フランカは大聖女だ。聖女の条件は、穢れなき肉体を持ち、『清廉潔白』な人生を歩んできていること。
罪など無縁のはずだった。
「ど、どういう意味で……」
未だ理解の至らない伯爵に、フランカは目を眇めた。
彼の肩から手を離し、短く息を吐く。
ちらりと背後に目を向ければ、アレッシオの視線に気が付いた。彼はずっと、フランカの背を見つめている。らしくもない物憂げな顔を、からかってやる気にはならなかった。
大きく開いたドレスの背。そこにあるのは、フランカにとってもアレッシオにとっても、悔やみきれない過去の痕跡だ。
「……伯爵。あなたが本当にフィロー伯爵なら、わからないはずないんですよ」
アレッシオから目を背けると、フランカはゆっくりとそう告げた。
空気にさらされた背に、フランカは手を触れる。十年近く、誰にも見せなかった自身の肌を、笑うように、嘲るように撫でてから――。
「だって、私が――」
一度、強く目を閉じる。息を飲み込み、唇を噛む。
そして再び目を開くと、フランカは夜会場に背を向けた。
「――――私が罪人であることなんて、この国じゃ全員が知っているんだからな!!」
フランカの背に広がるのは、聖殿が隠し続ける『公然の秘密』だ。
小さな背中を埋め尽くす、鞭で打たれた無数の傷跡。十年たっても消えない、赤いあざ。
それらを踏みにじるように、丸く広がる――火傷跡。
境目のはっきりとしたその痕跡は、自然のものではありえなかった。
幾何学的な円形と、その内部にある文様が意味するところを理解したのか、伯爵がはっと目を見開く。
それは、一生消えない罪の証。
重罪を犯した人間のみに記される、罪人の焼き印だった。