1-15
王都の外壁は、回廊のような構造になっている。
回廊の中へは、町の東西南北それぞれにある門から入ることができた。中は、街門の開閉機構や、兵たちの詰所、見張り台へ上る階段などがある。
この回廊の壁一面に、結界を張るための魔法の文句が描かれていた。
白くてなめらかな壁面に、ほとんど隙間がないくらい書き込まれた魔法の文字。現在広く使われるアロガンテの文字ではなく、はるか神話の時代に使われていたという古い文字を前に、フランカは立ち止る。
「ふ、フランメリヤ様……急にどうされたのでしょう? いきなり、結界の様子を見せて欲しいなんて……」
おどおどした様子でフランカに話しかけるのは、たまたま捕まえられた門兵だ。
いきなりフランカに乗り込まれ、鬼気迫る顔で結界を見せろと脅され、すっかり委縮してしまっている。
「なにか問題でもありましたか? すでに、結界のほころびは修復されているはずですが……」
「そうみたいですね」
王都に魔物が出てから、長らくアレッシオの指揮で結界の穴を探させていた。修復終了の判断が下ったのは、暗殺の前夜。これで新たな魔物が入り込む不安はなくなったが、まだ町のどこに潜んでいるかわからない状況だ。
もちろん、目立って暴れる魔物は討伐が済んでいる。だが、王都は良くも悪くも広い。消極的な魔物であれば、長らく潜み続けることもできるだろう。兵たちが町をしらみつぶしに探しているが、完全な討伐まではもうしばらく時間が必要だった。
――この魔物が、どうやって入って来たのか。
自然な劣化であれば、見てすぐにわかる。結界のほころびは、壁が壊れる様子とほとんど変わりない。脆い場所が崩れ落ち、その周辺も危うい状態になっているはずだ。
あるいは、強引に破ったかどうかも、判断はたやすい。明らかに不自然な壊れ方をしているからだ。
そう――見ればわかるはずなのだ。
「結界のほころびは、魔法研究所の人たちで修復したんですよね。所員総出だったと聞いています」
「え、ええ。人手が必要だったようで……」
「結界のほころびを発見したのはどなたでした? その様子は聞いています?」
フランカの問いに、戸惑った様子の門兵が、さらに困った顔をした。
と、いうよりも、むしろ奇妙そうな顔というほうが近い。怪談でも聞いたようなしぐさで、彼は小さく肩を震わせた。
「それが、どうにも妙な話で……魔法の使える方々で、この結界中を見て回ったそうなのですが――」
「ほころびは見つからなかった」
門兵よりも先に口にして、フランカは彼に視線を向ける。
「そうですね? 不自然な場所は、どこにもなかった。それが不自然だったのでしょう」
万全の結界をこじ開けることも、その痕跡を隠すことも、ただの魔物にはできない。
そうとなれば、これは人為的に起きたこと。いや、『人』という言葉さえ、適切ではないだろう。
知恵持つ邪悪――人と異なる存在がこの王都に忍び込んでいた、何よりの証だった。
「結界が修復される『前』に、ここを訪ねてきた人間をすべて教えてください。彼らが、どこを見て回っていたのかも」
〇
外壁を出たのは、すっかり空が赤くなったころだった。
空の東端は、すでに藍色が滲み始めている。
町は暗く、家々にぽつぽつと灯りが灯り始めていた。夜を含んだ風は冷たく、石畳の上を吹き抜ける。
夜に向かう町を、フランカとエミリオは足早に駆けていた。急ぎ聖殿に戻るため、近道を選び、人通りの少ない裏通りを抜ける。
その、通りの半ば。不意に、フランカは立ち止った。
なぜ止まったかは、フランカ自身わからない。強いて言うなら、巫女の勘だろう。
――なんだ……?
目に映るのは、家々の壁。無数の小路と、打ち捨てられたゴミの山。かすかに、すえたようなにおいがする。
どこからか、狼の遠吠えが聞こえた――次の瞬間。
頭上から、獣の咆哮が響く。驚くよりも早く、フランカの体は横に突き倒された。
石畳の上に転がり、強か肩を打ち付ける。慌てて跳ね起きれば、フランカを突き飛ばした張本人が、剣を抜いていた。
「エミリオ!」
「下がっていてください。一匹くらいなら俺一人でどうにかなります!」
剣を抜いたエミリオが対峙するのは、狼――に似た生き物だ。
体は狼よりも、はるかに大きい。体格の良いエミリオと、足をついたその獣の目線が同じだ。黒い毛並みは夜闇に溶け、かすかに揺らめいて見える。
鼻先の突き出した顔つきは、一見すると犬のようだ。だが、目の位置が明らかにおかしい。
顔の真正面に、無数の赤い目が横に並んでいる。瞼はない。白目もない。赤い玉のような瞳だけが、まるで蜘蛛のように、顔の上に乗っている。
足もまた、蜘蛛と同じく八つある。すべて節がついており、先端はかぎづめのように鋭い。
――魔物だ……!
王都に忍び込んだ魔物の一体なのだろう。討伐隊を組んで、王都をしらみつぶしに探しても未だ見つからずにいた魔物が姿を現し、フランカたちに敵意を向けている。
異常事態ではあるが、なぜ、とは考えなかった。原因は明白だ。
――当たりを引いたんだ!
この魔物はおそらく、口封じのために寄越された。となると、魔物を寄越した誰かにとって、探られたくない場所にフランカは触れたのだ。
だが、これを喜んでいる暇はない。
魔物の喉の奥から、威嚇の低い唸り声がする。
無数の目が睨むのは、フランカを背に剣を構えるエミリオだった。
エミリオが退かないのを見ると、獣は声を荒げた。それが攻撃の合図なのだろう。咆哮を上げながら、獣は足を振り上げて飛びかかってきた。
真正面から振り下ろされた足を、エミリオが切り捨てる。それを見るや、フランカは慌てて飛び起きた。
背中を気にして戦わせるわけにはいかない。魔物と打ち合いをするエミリオに意識を向けつつ、フランカは距離を取った。
どうにかなる、と言った通り、エミリオは魔物を圧していた。一本、また一本と足が切り落とされて行く。どろりとした黒い血が足から流れ、腐臭にも似た悪臭が傷口から漂っていた。
このままなら、エミリオが魔物を打ち倒すだろう――だが。
フランカは周囲を見回した。直前に聞いた音が気になっている。
――どこだ……。
頭上、家々の影、ゴミの中。暗い路地に、フランカは視線を巡らせる。
狙うとしたら、どこに潜む。どこから出てくる?
エミリオが魔物に致命傷を与えるため、強く踏み込む。
剣を抱え込むように握り、魔物の喉に突きつけた。その、背後。
――いた!
赤い目の光を見た。エミリオが相対する魔物と同じ、横一列に並んだ赤色。
――遠吠え! やっぱり複数いたか!
魔物の咆哮の直前に、フランカは遠吠えを聞いていた。ほぼ同時に聞こえたからには、同じ生き物の声ではありえない。少なくとも、あと一体はいるはずだった。
おそらくこのもう一体は、獲物が無防備になる――つまりは、仲間の魔物を仕留める瞬間を待ち構えていたのだろう。
エミリオが魔物の懐に飛び込むのとほぼ同時に、もう一体が影の中から飛び出した。
「――――精霊ども」
フランカは強く目を凝らす。夜の路地に浮かび上がるのは、無数の精霊の光だ。
低く呼びかければ、精霊が揺れるのがわかる。次の言葉を待っている。
フランカは息を吸い込んだ。
「守れ!!」
魔物の腕が振り上げられ、エミリオの背後から頭を狙う。その直前に、フランカは叫んだ。
同時に、一瞬だけ光の壁が浮かぶ。淡く輝く壁は、魔物の腕がエミリオの腕に触れる寸前で、大きく弾いた。
魔物はすぐに体勢を戻し、第二撃を打ち込もうと飛びかかる。
だけど、エミリオの方が早い。最初の魔物から引き抜いた剣をそのまま振り抜き、魔物の赤い瞳を横に切り裂いた。
倒れた二体の魔物に止めを刺すエミリオを、フランカは苦々しく睨んだ。
「くそ……! お前、この時のためにいたんだな!」
どうりで、監視らしくもないと思った。実際監視ではなく、彼はフランカの護衛だったというわけだ。
――あの野郎……!
内心で、フランカは苦々しさを吐き捨てる。要するに彼は、真相に近付けば狙われるだろうと予期していたのだ。
――よくもあんなすまし顔で、エミリオなんて寄越してきたな!
先の魔物との戦いで、彼の腕が立つと言うのはよくわかった。そう考えると、ますます腹が立ってくる。自分も散々狙われる癖に、守備の一角を削いでまで、エミリオをフランカにあてがったのだ。
――ほんっと……! わかりにくいんだよ!
苛立たしさに、フランカは地面を蹴る。それを見て、エミリオが笑った。
「役立てて良かったです。まあ、逆に助けられてしまいましたが。……もしかして、俺がいなくても大丈夫だったんじゃないですか?」
飄々とした笑みもまた、今は腹立たしい。
フランカは「けっ」と吐き捨てると、遠く夕日を浴びる王城を睨んだ。
〇
聖殿へ戻ると、すぐにラヴィの怒声が出迎えた。
「フランカ! 夕方って言ったくせに遅すぎるわ! どこに行っていたの! ――って、その格好なに!? エミリオもドロドロじゃない!?」
フランカの聖衣は突き飛ばされたときに汚れ、エミリオに至っては魔物の体液でかなりひどい状態だった。おまけに少し腐臭もする。おののくラヴィニアに、しかし付き合っている暇はない。
「ラヴィ、急ぎ調べてもらいたいことがある。明日まで」
「明日!? もう夜になっているのに!?」
「悪いが大至急だ。それと明日の夜会について、荒事に慣れている神官か聖女を何人か見繕って参加させてやってくれ」
「ええ!?」
ラヴィニアの困惑は極まっていた。せめて説明を、と言いたげな顔に、フランカはさらに難題を突き付ける。
「それから――」
指先をラヴィニアに向け、顔を寄せ、フランカは口を曲げて笑った。
「明日着るドレスを変えてくれ。露出は多くていい。できるだけ――背中が大きくあいたものを選んでくれ」