1-13
王太子の寝室は、実に愛想のないものだった。
部屋の作りは立派で、窓枠一つにも意匠がこらしてある。壁も柱もよく磨かれ、絨毯にカーテン、ベッドのシーツも質が良い。
それでも愛想がないと思ってしまうのは、必要最低限のものしか置いていないからだろうか。
あるいは、散らかり放題の大聖女の執務室に、慣れ切ってしまっているからかもしれない。
――はじめて入ったな……。
などと、フランカは面白みもない感想を抱いてしまう。
王宮の中でも、王の家族が住む階層は、基本的に立ち入りが禁止である。入ることができるのは王族と、その護衛と、あとは身の回りの世話をする選ばれた使用人たちだけだ。
あるいはその恋人や愛人であれば忍び込むことも可能だろうが、フランカには関係のない話だった。
「……あっさり許可をいただけたわね」
部屋の隅でこわごわ震えるラヴィニアが、そっとフランカに話しかけた。
ラヴィニアの言う通り、離れの回廊でアレッシオと出くわしてから、王太子の部屋までは驚くほどに早かった。どんな交渉が必要かと思ったが、部屋を見たいと言うと、アレッシオは特に反対するでもなくここまでフランカたちを連れ込んだのだ。
伯爵との会話に割り込んだことも咎められることはなく、道中話題に出ることさえなかった。
不気味といえば不気味だが――。
「まあ、変に揉めるよりは楽でいいだろう」
アレッシオの心境なんて、考えたところでわかるはずもない。
フランカはさっさと切り替え、部屋の中央に足を踏み込んだ。
「暗殺者が隠れていたって言うのはどのあたりです?」
椅子に座って足を組み、無言で監視をするアレッシオに向け、フランカは尋ねた。
彼の傍にはエミリオがいて、珍しくしかつめらしい顔で立っている。こうしていると、陽気な彼も一応は兵士なのだと実感した。
「そこだ」
アレッシオは片肘を突いたまま、ベッドの近くを目で示す。天蓋付きのベッドは大きく厚みがあり、いかにも隠れやすそうだ。
「その裏側に潜んでいた。少し時間が空いていたからな。仮眠を取ろうと近づいたときに襲われた」
「仮眠?」
意外な単語に、フランカは思わず聞き返す。寝る必要もなさそうなくらい人間味がないくせに、仮眠とは珍しい。
「事件の前夜は、王都の魔物対策のためにほぼ寝ていなかった。……どこぞの大聖女は『のんびり』と言ったのだったか」
「む」
たしかに言った。しかも今の話だと、この男はほとんど徹夜で予算会議に出ていたことになる。
「こちらが寝ずにしている対応を『のんびり』とは、聖殿はずいぶんと優秀なようだ」
「はいはい悪うございましたよ!」
乱暴に言って、「けっ」とフランカは喉を鳴らした。アレッシオの様子にも気付かず対応の遅さを責めていたとは、いい面の皮である。
――相変わらず……わかりにくい……!
せめて少しくらいは態度に出せよ、と思いつつ、フランカはアレッシオの示した場所にしゃがみ込む。
もちろん、ひとたび態度に出そうものなら、フランカは「自己管理もできない無能だ」などと責めるだろう。だいたいあの予算は来年用だし、魔物対策が遅れているのも事実である。
が、それはそれ。気持ちの問題なのである。
――……まあ、いい。今はこっちだ。
腹立たしいが、過ぎてしまったからには仕方ない。今は暗殺犯探しが最優先だ、とフランカは自分の周りを確認する。
しゃがんだ状態で、頭はベッドの高さよりも下に来る。フランカ程度の体型なら、楽に全身を隠すことができるようだ。
痕跡を探して、フランカは周囲に目を凝らす。
床に敷かれた亜麻色の絨毯。替えられたばかりの真っ白なシーツ。それらを眺めてから、立ち上がって部屋全体を見回すが――見えない。
「どうだ?」
聞かれて、フランカは首を振る。期待したものが見つからない。
「私の姿をしていると言うから、変化の魔法かなにかだと思ったんですけど……」
目を凝らすフランカが見ているのは、部屋に漂う精霊たちだ。ふらふらと浮かぶ大小の精霊を眺めつつ、フランカは渋い顔をする。
「いませんね。魔法に使われた精霊は、疲れているからすぐにわかります」
「そういうものか」
アレッシオの言葉には疑惑が含まれている。顔を見やれば、気難しそうに部屋を見ている珍しい姿があった。
しかし、なにも見つけられなかったのだろう。すぐに諦めて、フランカに視線を戻す。
そこで、にやりと笑うフランカの顔を見つけ、彼はいっそう難しそうに顔をしかめた。
「完璧な王太子様も、魔法にだけは弱いんでしたっけ」
「理屈は知っている」
「でも、精霊は見えないんですよね。見えなきゃ、精霊に命じることもできない。――たまに、精霊の方が勝手に手を出してくることもありますけど。そんなこと滅多にあることじゃないですし」
精霊は神の一部であり、神の名の下でしか働かない――というのが、現在の魔法の理論である。
精霊を見つけ、神の名を借りて彼らに語り掛け、承諾を受けて発動する奇跡。これが魔法と呼ばれるものだ。
この語り掛けは、言葉でも良いし、文字でも良い。もしもそれなりに神の寵愛を受けているのであれば、念じるだけでも働いてくれることがある。
この寵愛が大きいとき、ごくごく稀に、精霊が自発的に手助けをすることもある。ただしこれは突発的なうえ、当人の意思と無関係に発動するので、恐ろしいほど不安定だ。魔法としては物の数に入らず、単に『奇跡』と呼ばれることの方が多い。
アレッシオは、これだけの寵愛を受けていながら、精霊を見る目を持っていなかった。魔法が使えなくとも問題のない身分であるが、惜しまれるのは仕方ない。
フランカにとっては数少ない絶対的な優位性なので、アレッシオのこの欠点が楽しくて仕方がなかった。
ゆえに、ついつい饒舌になってしまう。
「魔法が使えない殿下にお教えしますけどね、姿を変えることも、魔法ではそう難しくはないんです。ただ、精霊は息が短い。というか、飽きっぽいのかもしれません。一つ命じても、長続きはしないんです」
ただよう精霊を捕まえて、ぎゅっとフランカは握りしめる。
手放した瞬間、精霊はその姿を光に変えた。
はじめはまばゆい光だが、しばらくすると少しずつ弱まっていく。簡単な魔法ということもあって、数十秒ほどで光は消えてしまった。
光に変わった精霊は、フランカから逃げるようにふらふらと浮かんでいく。そして、精霊本来の光球に戻るのだが――力を使ったために、色が薄い。背景が透けて見えていた。これが精霊の疲労だ。
「長く命ずるには、術者がつきっきりで命じ続けるか、文字を使って残しておくかです。魔法を使うにも体力を使うので、長く魔法をかけたいなら基本は文字ですね。でもこちらも欠点があって、直接命じるよりも弱いし、ずっと効果が続くわけでもありません」
「知っている。王都の結界も魔法を文字で書かせている」
ん、とフランカは頷く。
王都には、街を守るために魔物避けの結界が張ってある。この結界がまさしく長期持続用の魔法だった。街の外壁いっぱいに、魔法の文字が書かれていることは、王都に住む者ならみんな知っている。
これを維持管理するのは魔法研究所の役割だ。時間とともに劣化する魔法を書き直すのが彼らの仕事なのだが、なにぶん範囲が広いため、しばしば書き損じや修正漏れが出る。
そういうとき、王都にも魔物がもぐりこんできてしまうのだ。現在の王都における魔物被害も、この劣化により結界に穴が空いたのだろうと予想されている。劣化の場所を特定するために、今ごろ魔法研究所の所員が必死に走り回っているはずだ。
「長時間持続する魔法は、文字であれ直接であれ、精霊の入れ替わりが激しいんです。疲れた精霊が抜けて、代わりの精霊が入ってくる。だからどこで魔法を使っても、魔法を維持した状態でいれば、必ず周囲には疲労した精霊が残っているはずなんです」
「――だが、この部屋にはいないのだろう?」
「いないんですよねえ……」
的確な指摘に、フランカは腕を組む。
魔法で姿を変えていれば、ここに必ず精霊が残っているはずだと思っていた。
疲れた精霊は移動する力もなく、丸一日経ってもその場に漂っているものだ。それがいないということは、魔法を使ったわけではないということになってしまう。
――自分と似た背格好の女か、仮面でも付けていたのか。でも、たしかに私の顔だったと言ってるしな……。
外で見られた大聖女の聖衣はさておき、実際に殺されかけたアレッシオは正面から犯人の顔を見たはずだ。そこでフランカと同じ顔だと言うのなら、きっと間違いないのだろう。
――もしくは、この男が私を嵌めるために嘘を吐いているのか。
ありえなくもない想像をして、フランカは長く深い息を吐く。もっとも、別人だとしても犯人が存在するのだから、それを捕まえるほかにないのだが。
考え込むフランカを、アレッシオはしばらく黙って眺めていた。
頬にあてた手を口元に移動し、少し迷うように視線を流した後、疑問を一つ口にする。
「……精霊を使わない魔法はないのか」
よくある質問の代表みたいな発言である。アレッシオの隣で、エミリオがちょっと意外そうに主人を見ている。そのくらい、この質問の答えは決まりきっていた。
「ないですね」
精霊を見る目を持たなくても、魔法を使いたい。そういう人間は多いものだ。
しかし、現実は彼らの夢を無慈悲に砕く。
「自ら奇跡を起こせるのは、神に近い存在だけです。人間は遠すぎて、自分だけで奇跡を起こす力がない」
「ふん……」
「大昔の英雄とか、もっと神に近い生き物なら可能ですけど、それはもう人間ではありませんね。魔物なんかは魔法に似た術を使うこともありますが――こちらは賢くないので、こういう暗殺には不向きでしょう」
言いながら、フランカは自分が不利になっていくのを感じていた。言わなくてもいいことを言い過ぎたような気がする。
そしてアレッシオは、そういう失言を逃すほど優しくはないのだ。
「つまり、この部屋にいたのは貴様以外にありえないというわけだな」
「ぐ……っ」
素直に考えれば、その結論以外にたどり着かない。
アレッシオは気が済んだ、と言うように立ち上がり、フランカに扉を示した。
「探るものは探っただろう。部屋を荒らすのはここまでだ。まだ犯人は自分でないと言うつもりなら、他を当たるがいい」
――この……!
偉そうな態度に苛立つが、たしかに見るべきところは見た。異論がないだけに、なおさら腹立たしい。
――珍しく揉めてないんだ。もう少しくらい……。
考えかけて、フランカは首を振る。もう少し、なにができると言うのだろう。あと九日で犯人を見つけなければならないのだ。無意味な時間を過ごす方が惜しい。
「ああ――それから、貴様の言う真犯人とやらのことだが」
そのフランカの思考を読んだように、アレッシオは告げた。
「九日後に、ちょうど夜会がある。そこの余興として一つ、見苦しい言い訳でも聞かせてもらおう」
「――はあ!? 夜会だあ!?」
あまりに思いがけない言葉に、フランカの気取った態度が一瞬で崩れた。言葉も荒れているが、そのことにフランカ自身気づかない。
――だって、夜会って……!
夜会といえば、着飾った貴族たちが踊ったり談笑したりする会だ。華やかな貴族社会を象徴する、夜も灯りの絶えないきらびやかな世界。若い男女の、恋の遊び場でもあるという。
知識としては知っているが、平民であるフランカとは縁遠い。どちらかといえば、苦手意識さえもある。大聖女になってから何度か招待状をもらっていたが、ずっと断り続けていた。
「夜会で、しかも余興って……人前で晒しあげるつもりかよ!」
「本当に貴様が犯人でなければ可能だろう。……それとも、恥をかくのが怖いのか? 犯人はわかりませんでした、と」
「はぁあああ?」
ガラの悪い声を上げ、フランカはアレッシオに詰め寄った。薄く口元を曲げたアレッシオを見上げる姿は、どう見ても三下である。
「私が恥をかくとでも思っているのか? 本気なら舐められたもんだな!」
「自信があるなら出席すればいいだけだ。拒むのならばそれまでと判断する」
「それまでだあ!? ――ああ、わかったよ! 夜会だな? そこで逆に、お前に恥をかかせてやる!」
「フランカ!」
慌てたラヴィニアの声が響くが、フランカの耳には届かない。
「真犯人を見つけて、お前に人前で頭を下げさせてやる! 首を洗って待ってろよ!!」
「フランカ! やめなさい!! ――殿下、ご無礼を失礼しました。すぐに連れて帰るので……!」
手慣れたラヴィニアがフランカを捕まえ、慌てて彼女の口をふさいだ。
そのままラヴィニアの手によって、まだまだ言い足りなさそうなフランカは扉の外に連れ出されていった。
どこかで口の拘束を解かれたのか、フランカの憤りの声だけが遠く響いていた。
フランカが出て行った扉の先を見据えたまま、アレッシオは一つ息を吐いた。
遠ざかるフランカの声が、まだ部屋に届いている。
「――これも口実ですか?」
背後から、楽しむようなエミリオの声がする。
アレッシオはそれに答えず、笑うエミリオの顔を見上げた。
「……さっさとあれを追いかけろ。九日後まで、傍を離れるな」
「心得ておりますよ」
腹心の配下は笑みを深めると、フランカを追って部屋を出て行った。