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「――――で」
中庭をうろうろと歩くフランカに、ラヴィニアの低い声がかけられた。
「さっきからずっと中庭を歩き回っているけど、ここに何か用があるの?」
不服そうな声に振り返れば、いくらか疲弊した様子のラヴィニアが、疑り深い目を向けていた。エミリオは相変わらず飄々としていて、疲れた様子もない。
ラヴィニアが疲弊している原因は、聖殿を敵視する貴族たちに何度も絡まれたせいだろう。
ただでさえ王宮は王太子派閥が多いうえ、今は大半がフランカを暗殺犯だと疑っている。相対する貴族たちは嫌悪と侮蔑を隠そうともせず、表面上だけは慇懃に声をかけてくるのだから、ラヴィニアが疲れるのも無理はない。そつなく躱しているとはいえ、フランカもさすがにうんざりとしていた。
しかし、だからと言ってフランカが探す場所を変えることもなければ、場所を移動することもしない。もっとも、中庭の広さと絡んでくる貴族の多さが相まって、その中庭さえ満足に探せていない始末なのだが。
成果もないまま敵意だけがぶつけられる状況に、ラヴィニアは飽き飽きしているようだった。
せめて、人目に付きやすい中庭から離れようと、フランカに呼びかける。
「殿下を探すなら、まずはお部屋に向かった方がいいんじゃない? それともまさか、当てもなく歩いているってわけじゃないわよね」
「当てなんかあるわけないだろ」
さらりと言い放つフランカに、ラヴィニアが目を見開いた。
「殿下のこと探してるんじゃなかったの!? 真っ先に中庭に行ったから、てっきり殿下のいらっしゃる場所に心当たりがあるのかと――」
「なんで私に、あの男の居場所に心当たりがあるなんて思うんだよ」
「そりゃ、そうだけど……!」
ラヴィニアは不服そうだが、真実フランカはアレッシオの居場所など知らない。事前に約束もしていないし、予定を把握しているわけでもないのだから、当たり前である。
「じゃあ、どうして中庭なんて来たのよ」
はー、と脱力したように息を吐くラヴィニアを背に、フランカは中庭の景色を見やる。
最初にいた場所からはずいぶん歩いたが、まだ中庭を横断するには遠い。今フランカたちがいるのは、王宮と離れを繋ぐ回廊の近くだった。
離れは、王家主催の舞踏祭や夜会の会場としてよく使われる。ひとたび人が集まれば華やかなこの会場だが、昼日中はあまり人の出入りもなく、少し寒々しくさえある。
――どうして。
こんな場所を探すよりも、部屋に行った方が確実ではないだろうか。
ラヴィニアのその言い分はよくわかる。
なのに真っ先にここへ来たのは、なぜだろう。
――あの男なら。
人が多い場所を好まない。普段使わない場所にも目を通す。部屋にこもるよりは、外に出る方を選びがちだ。風が吹く日は特に好きで、この回廊は風がよく通るのだと、昔――――。
「勘だよ、勘」
はん、と鼻で息を吐くと、フランカは視線をラヴィニアから逸らした。一度目を伏せ、再び上げたときには、不毛な思考は断ち切られている。
背中からは、秋の風が吹いていた。フランカの髪を撫でる追い風は、回廊に向けて流れ込む。
風の行方を追った先――。
離れから出てくる男の姿が、遠く目に映った。
〇
「いやいや、さすがは殿下! 見事な差配ですな! とても二年前まで国外遠征に出られていたとは思えません! もうすっかり、この国のことをお分かりになっていらっしゃる!」
近く開催予定の夜会の下見を終え、離れから出るアレッシオを、中年男の猫撫で声が追いかけた。
「この遠征についても、お噂はかねがね伺っておりますぞ! どんな不利な戦いでも、殿下の指揮は必ず勝利に導くとか。特に高名なのはあれですな。十年は帰れない――いえいえ、生きては戻れないかもしれないという北部国境線の戦い。悪魔どもを相手に獅子奮迅の活躍だったそうではありませんか! 絶望的な戦力差を返しての、わずか五年でのご帰還は、まことに感嘆してしまいます! 兵たちが殿下に心酔するのも無理はありませんな!」
わははは、と笑う男に、アレッシオは見向きもしない。アレッシオの歩幅についていけず、まろびながら男は追いかける。
「さすがは『魔神殺し』の予言を持つ殿下! 現代に残る最後の英雄と謳われるだけありますな! 戦場で剣を振るう殿下のご雄姿、直にその目で見たかったものですぞ! その凛々しいお姿は、男女を問わず魅了するという――いえいえ、実はこれは、娘の言っていたことでしてね」
咳ばらいを一つ。男は「ここからが本題だ」と言いたげに、声の調子を改めた。
「三年前、その北部国境線に私の娘もいたのですよ。もちろん兵ではなく、負傷者を癒すための奉仕活動のためですな。そこで殿下のご雄姿を拝見し――なんですな、すっかり参ってしまって、殿下のことしか話さなくなってしまったのですよ」
アレッシオの反応がなくとも、男が怯む様子はない。恰幅の良い体を揺らし、息を切らせながらも話し続ける。
「この娘というのがですね、父親である私が言うのもなんですが、実によくできた娘なのですよ。気立ても良いし、亡き妻に似てひどく美人で、おまけに精霊を見る目も持っている。たまに私の仕事を手伝わせているのですがね、頭の良さも感心するほどですよ。ですが決して出過ぎず、男を立てるということを知っているのです」
アレッシオは前を向いたまま、かすかにため息を吐いた。いつもは静寂の回廊も、今は男の粘着質な声が響いている。
だが、男は迷惑などお構いなしだ。とにかくアレッシオの気を引こうと、一層声を張り上げる。
「私の子は、この娘一人きりでしてな。どうにか幸せにしてやりたいんですよ。この娘が、殿下にすっかり参って、他のことは手に付かないありさまで。父としては、少しでも娘の望みを叶えてやりたい。ええ、家格の差は重々承知しております。伯爵家程度で殿下を独り占めなんて大それたことは、私も娘も考えておりません」
きちんとわきまえております、と男は丁重に口にする。目の前のアレッシオの歩調が緩むのを見ると、必死の口元がいびつに曲がった。
「ええ、ええ! もちろん正妃などは望みません。第二妃でも第三妃でも――なんなら、愛人でも」
アロガンテの王族は、複数の妃を持つのが普通だ。現国王は正式な妃として五人。今年で二十六となるアレッシオの兄も、すでに三人。先代国王などは好色と評判で、両手で数え切れないほどの妃と、それを上回る数の愛人がいた。
アレッシオもまた、それを望まれている。次期国王となる王太子。その妻の座は、第二、第三に落ちてもなお強い。愛人でも寵愛を受ければ妃より力を得ることもできる。
「身分は望みません。ただ殿下のお傍にいることが私と娘の幸せなのですから。私の可愛い娘に、どうかお慈悲を与えてくださいませ。寝寂しい夜の慰めとしてだけでも構いません。どうか、娘を役立ててやってくださいませ」
「――卿」
縋りつくような男の声に、アレッシオは足を止めた。振り返った瞬間に、男は浮き上がるような笑みを浮かべ、そのままの表情で強張った。
「セルモンティ卿、貴殿の娘はたしか、まだ十四歳だっただろう?」
「え、ええ……で、ですが、結婚するには不自由はないかと……!」
アロガンテでは、男女ともに十四歳から結婚を許可されている。とはいえ、この年齢はさすがに幼すぎると考えるのが一般的だ。結婚をしても、手を出すのはもう少し成熟してから。子を成すにしても、体つきに不安が残る。
果たして娘とやらは、本当に十も年上の男の慰み者となることを承知しているのだろうか――浮かんだ思考を、アレッシオは口にしない。ただ、切り捨てるように短く答える。
「不要だ。妃は必要なとき、相応しい相手を自分で見つける」
「殿下!」
悲鳴のような声が男――セルモンティ伯爵の口から洩れる。アレッシオの冷たい視線に震えながらも、断固として首を振った。
「そうおっしゃって、もう何年になりますか! もう二十四にもなりますのに、妃どころか、婚約者さえ作っていないなど!」
「必要ないから作らぬまでだ」
ぐっとセルモンティ伯爵は息を呑んだ。無機質な声の調子から、説得が通用しないとわかったのだろう。恥をかかされたとでも思ったのか、アレッシオの無下な言葉に、伯爵の脂の浮いた顔が赤くなる。
「……そんなことだから、未だに『秘密』が消えないのですよ」
見上げる伯爵の視線を、アレッシオは無言で見返す。琥珀の瞳から光が失せたことに、伯爵は気が付いただろうか。
「火遊びもせず、女を買いもせず、数多の誘いに見向きもせず。ずいぶんと硬派でいらっしゃる。ええ、殿下のご様子からとてもそうは思えませんが、もしやどこかに想い人でもいらっしゃるのでは、と。疑念の消えない者は少なくありません」
「……ほう」
「このアロガンテの王になるお方の想い人が、万が一卑しい素性の人間であっては、我ら貴族も認められません。陛下も反対されますでしょう。なにより、アロガンテ王家は神王から連なる尊き血筋。一滴でも卑賤な血を含ませては、民への示しが付きません」
なるほど、と言って、アレッシオは薄く目を細める。
セルモンティ伯爵家は長らく王家に仕えてきた重臣で、伯爵自身も自他ともに認める王太子派だ。残しておけば役に立つと思ってはいたが――。
――ここまでか。
アレッシオは伯爵に一歩踏み出し、最後の言葉を掛けようと口を開いた。
その、直後だった。
「――話し中悪いな。ちょっとお邪魔しますよ」
不遜な声が割り込んでくる。
剣呑な空気の中でも物怖じせずに近寄ってくるのは、見慣れたくなくとも、見慣れてしまった黒髪の女だった。
少し遅れて、その付き添いの二人が駆け寄ってくる。驚いた目をしているのは、側近のラヴィニア。アレッシオを見て一礼するのは、護衛兵のエミリオだ。
「うっそでしょ! 本当に見つけたの!?」
「私の勘も馬鹿にならないだろう。これでも巫女だからな」
明るく言って女が笑えば、回廊に満ちていた気配が変わる。気が抜けたようにセルモンティ伯爵は瞬き、アレッシオもまた、肩から力が抜けていた。
風が回廊を吹き抜ける。頬を撫でる秋風は、冷たく澄んで心地が良かった。
「ええと……セルモンティ伯爵? 申し訳ないけど、殿下は借りていきますね。私の方が緊急の用件なので」
こくこくと頷く伯爵を確かめると、女は――フランカは、この場を移動するようにとアレッシオを顎で促した。
あまりに雑で、あまりに無礼で、今となってはあまりにも憎い。
恐れ知らずの態度は、もう十年以上前。何度もアレッシオに向けられたものだった。