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暗殺未遂事件翌日。
午後になって早々に、フランカはラヴィニアの渋い顔を見る羽目になった。
「――今から王宮に行くぅ!?」
その渋い顔を作らせた原因は、しかしフランカ自身の発言である。
悪びれもせずに頷くと、フランカは執務机の上に筆を放って椅子から立ち上がった。
「そう。いろいろ話も聞かないとだし、早いうちに現場をたしかめておきたいんだ」
「現場……って、殿下のご寝所に行くつもり!?」
大聖女の執務室。隣でフランカの仕事を手伝っていたラヴィニアが、信じられないと言いたげに目を見開いた。
「いきなり行って、入れていただけるわけないじゃない! 殿下にお話は通してあるの!? まさか、一人で行くつもりじゃないでしょうね!!」
詰め寄るラヴィニアの言葉は、フランカの返事を期待しているのかいないのか、息を継ぐ暇もない。フランカは慣れているが、監視として部屋の隅に控えているエミリオは苦笑していた。
「だいたい、この仕事どうするのよ! 昨日断ったぶん面会の申し込みだって山ほどあるし、このあと会議だってあるのよ!」
ラヴィニアは執務机の上を示し、肩を怒らせる。
机の上には相変わらず書類の山がある。ラヴィニアが掃除したおかげで床の上は片付いているが、それにしたってうんざりする量だ。
それに目を通すのも、うんざりした。昨日の夕方から根を詰めて対処しても、ここまで時間がかかってしまった。
「急ぎのヤバそうな用件だけは片付けた。面会は断ってくれ。他は全部後回しだ」
「片付けた……!?」
ラヴィニアはフランカが終わらせた書類に手を伸ばし、ざっと確認してから苦々しそうに息を吐く。それから片手を額に当て、怒りのやりどころがないかのように首を振った。
「ああ、もう! 珍しく熱心に仕事をしていると思ったら!」
「向こう十年分の仕事をした気分だよ」
「毎日ちゃんとしていれば、こんなに溜め込むことないのよ!?」
紛れもない正論である。この書類の山のほとんどが、期限いっぱいまで手を付けないフランカの自業自得であった。
しかし、終わらせたのだから文句はあるまい。文字の見過ぎで痛む頭を軽く叩くと、フランカは上着がわりに大聖女の聖衣を羽織った。
外は上天気だが、そのぶん空気が澄んでいて寒い。陽光が出ているうちはともかく、日が暮れてからは冷たさが染みそうだった。
「本当に行くつもり? あなた、仮にも大聖女なのよ?」
出発の準備をするフランカを見て、ラヴィニアは慌てて立ち上がる。
「王宮を調べたいなら、代わりに誰かを行かせるわ。別に、あなたが自分で行かなくてもいいじゃない」
「人に任せられることじゃないだろ。だいたい、自分で見た方が早いし確実だ」
「そうかもしれないけど……そう簡単にあちこち出歩けるほど、あなたは気楽な身分じゃないのよ。しかもあなた、自分が危うい立場だってこともわかっているでしょう」
「もちろん」
偽聖女で、敵だらけで、おまけに今は暗殺容疑がかかっている。宮中なんて敵陣のような場所に足を踏み込めば、どんな目で見られるかわかったものではない。
慇懃な侮辱を受けるだろう。足も引っ張られるだろう。ひそひそと、冷たい噂話もされるだろう。
そんなことは百も承知だ。
「理解はしているさ。誰も彼も、私が失敗するのを待っている――宮中も、聖殿の人間だって」
聖女を詐称するフランカの立場は弱い。後ろ暗さしかないのだから当然。いつだって背中を狙われているし、引きずり降ろせるなら降ろしたい人間ばかりだ。
「だけど私だって、簡単に出歩こうってわけじゃない。非常事態だから、仕方なく、行きたくもない王宮に仕方なく向かうんだ。そうでなければ王宮になんて行かないし、近寄ろうとも思わない」
そうだろう?――とフランカはラヴィニアに呼びかけた。
「ラヴィだって、私が仕事以外で王宮に行きたがらないのを知っているだろう? 行かなくて済むなら、本当はそうしたいんだ。でもこれほどの事態で、大聖女が黙っているわけにはいかない。心苦しいけど、やむにやまれず行くんだよ」
むう、とラヴィニアは口をつぐむ。まったく納得した顔をしていないが、ありがたいことに反論はなかった。
「心配ならラヴィも付いて来ればいい。ついでに町で魔物被害の様子も見てくれば、立派な大聖女の仕事になるはずだ」
それだけ言うと、フランカは早々に部屋を出た。付いて来ればいい、と言ったくせに、ラヴィニアが付いて来ているかどうかは確かめもしなかった。
フランカは足早に去り、エミリオもすぐにその後ろを追いかけて出て行ってしまった。
一人取り残された執務室で、ラヴィニアは力なく息を吐く。
――口実、ね。
昨日のエミリオとの会話を思い出し、無意識のうちに目を伏せた。
珍しく片付いた部屋と仕事を見ても、気分は妙に沈んだままだ。片付いた部屋はかえって寒々しく、ラヴィニアを不安にさせる。
特例中の特例で大聖女となったフランカには、行動の制限が多い。
ラヴィニアの頭に浮かぶのは、その制限の一つ。フランカを大聖女にするために交わした約束だった。
――必要な場合以外の王太子との接触を禁ずる。
今でこそ仲の悪さが知れ渡っている二人だが、フランカが大聖女になった当時は、『公然の秘密』の印象が残っていた。長く疎遠になっているとはいえ、万が一にも間違いのないように、と念を押すための約束だ。破れば当然、フランカは大聖女ではいられない。
だけどフランカはこの約束を忠実に守り続けているし、彼女自身も格別アレッシオに会いたがる素振りは見せない。
それに、会ったところで二人の会話はいつだってギスギスとした空寒いものだ。その容赦のないやり取りは、横で聞いている方が不安になるくらいだった。
フランカはいつだって聖殿の利益になる行動を取っていて、そこから軸がぶれることはない。そのうえ――ラヴィニアとしては不本意だが――疑り深い聖殿は「約束を破ることがないように」とフランカに監視までつけているのだ。
聖殿はフランカの味方とは言えない。あくまでも必要に迫られて据えた偽聖女だと思っている。だから人と会う時には必ず立会い人を用意するし、手紙は送るにも受け取るにも検閲が入る。
そうして一挙手一投足を見られていても、だけどフランカに綻びは見られない。立派に、というと語弊があるが、たしかに大聖女の務めを果たしている。
フランカが王家を敵視し、聖殿の力を強めようとしているのは間違いない――なのに。
部屋を出て行くフランカの、逸るような足取りが頭に残っている。
――まさかね。考えすぎだわ。
細かすぎる、と自分自身に苦笑して、ラヴィニアは思考を頭から追い払う。
それからフランカを追うために、急ぎ部屋を飛び出した。