1-9
当然のごとく、十日間完全に自由に過ごせるわけではない。
なにせフランカは暗殺容疑者だ。逃亡を図らないとも限らない。
そこで、監視役としてつけられたのがエミリオだった。
十日間を聖殿で過ごし、フランカの傍に控え、怪しい動きがあれば即座に取り押さえるのが、彼の役割だ。
「まあ、俺としては十日間の休暇だと思っていますよ」
しかし、当人はこれである。
「四六時中狙われる殿下の傍より、よっぽど息も吐けます。あっちは女っ気もないですしね。猊下にはお気の毒ですが」
あはは、と笑う彼の笑顔は屈託がない。剣を収めて伸びをする姿は、厳格な宮中の兵の印象とはずいぶんと異なっている。
――人選誤りでは?
などと思わなくもないが、固すぎる人間を寄越されるよりは、フランカとしてはやりやすい。やたら軽いエミリオに若干の疑いを寄せつつ、まあいいか、と息を吐く。
「監視するなら好きにしてくれ。寝泊まりもするなら、適当に拝殿の空き部屋を使っていい」
言いながら、フランカは立ち上がる。だいぶ長いこと座らされていただけに、少し尻が痛んだ。
「つきまとうのもご勝手に。ただし、邪魔はするなよ」
「心得ておりますよ」
そう言って、エミリオは笑みを深めた。
食堂は騒動の余韻が抜けきらず、未だに呆然と座ったままの客が目についた。
すでに護衛たちもエミリオを残して退散しているので、戸惑いだけが取り残されたような印象だ。
「フランカ、これからどうするのよ」
エミリオの登場で少し気を落ち着かせたラヴィニアが、目元を拭いながら尋ねた。
「殿下にああ言った手前、やるしかないのはわかっているわよ。でも、どうやって犯人を捜す気? 心当たりとかあるの?」
「ない」
「堂々と言うことじゃないわよ!?」
ラヴィニアがぎょっと声を上げるが、ないものはない。真実、寝耳に水の話だった。
「ないから、調べるんだ。ラヴィ、移動するぞ。あまり時間はないからな」
「移動ってどこに」
「一番手を付けやすそうな場所からだ。ああ、あとジラルドに食事代払っておいてくれ。それから――――」
言いながら、フランカは視線を食堂の内部に向ける。ジラルドを見つけて一度頷き、「また無銭飲食して!」と怒るラヴィニアを聞き流しながら、目当ての人物を見つけてもう一度頷く。
視線の先にいるのは、食堂には似合わない貴族の男二人。足元にはカップの破片と、紅茶の水たまりができている。
アレッシオの視線を受け、さぞや恐ろしい思いをしたのだろう。蒼白な顔をしながらも、汗で自慢の服がぐっしょりと濡れている。呼吸は浅く短く、瞳が不安そうに揺れていた。
「ごきげんよう、閣下」
両手を前に合わせ、フランカは品よく挨拶をしてみせる。頬に力を入れ、「にっこり」という言葉がいかにも似合う笑顔を作れば、先ほどまでの乱暴な態度など嘘のようだ。
「ずいぶんな災難だったようで。私も人のことは言えませんが」
男たちの視線がフランカに向かう。安堵の様子がないのは、自分たちの会話を覚えているからだろう。アレッシオ以上に、フランカに聞かれてはいけなかったはずだ。
「私を探して聖殿までいらしてくださったのに、お相手できずにすみませんでした。ええ、きちんとこの後お時間を取るので、存分にお話をいたしましょう」
笑顔のまま、フランカは二人に向けて「大丈夫」と言ってみせた。
「殿下とのお話よりは、私の方がマシですよ、きっと」
〇
唖然とする貴族たちを後に残し、フランカは食堂を後にした。
迷わずずんずん進むフランカの後ろを、エミリオは悠々と、ラヴィニアは慌ただしく追いかける。
「フランカ! フランカ、どこに行くつもり! さっきの話はなんなの!?」
「ラヴィ、あの二人にすぐに使いを遣って。明日の午前中は空けておく」
「はあ!?」
「寄付を申し出て来たらありがたく受け取って。その後は額面によって指示するから、いくらもらったかはちゃんと記録しておいてくれよ」
瞬くラヴィニアを一瞥し、フランカは本殿の中へ足を進める。地の神殿二階。大聖女の執務室の前までたどり着き、ようやく足を止めた。
扉を開けると、見慣れた汚い部屋の様子が目に入る。中庭に面した窓から風が吹き込み、部屋に散らばる書類をいっそう掻き乱していた。
――ない。
脱ぎ捨てていった聖衣は、部屋のどこにもなかった。それ以外に、部屋が荒らされた様子はない。もっとも、元から荒れ放題なので気が付かないだけかもしれないが。
「ラヴィ、私の聖衣はずっと部屋に?」
「え……? ええ。たたんで置いておいたわ。……こんなことになると思わなかったから」
「部屋に入った人間は?」
「いないはずよ。勝手に入っていい部屋ではないし、あまり他人に見せたい部屋でもないし」
なにせ大聖女。この国でもっとも神に近いはずの聖母の部屋がこのありさまだ。威厳なんてあったものではない。
ゆえに、部屋に入る人間は限られている。フランカかラヴィニアか、特別に許可された数人だけだ。
「それに、あなたが戻ってくるかもしれないから、入り口に人を置いていたのよ。誰かが訪ねて来たら、お帰りいただくようにお願いしていたわ」
「ふうん……」
そうなると、入り口から堂々と入ったわけではないだろう。
フランカは自然、視線が開け放たれた窓に向かう。
「まあ、忍び込むこと自体は難しくないな……」
窓に歩み寄り、窓枠を掴んでフランカは外を見やる。
大きく傾いた太陽が、中庭を斜めに差していた。眼下には都合の良い木々がある。登って枝を掴めば、フランカのような体格の良くない女でも、侵入は不可能ではない。
視線を少し遠くすれば、騒動のあった食堂も目に入る。目を凝らせば様子はわかるが、意識していなければ人が動いていることには気が付かない距離だ。これは、食堂からも同様だろう。中庭側からの侵入者は疑っていないので、当然見張りなどは付いていない。
つまり、盗もうと思えば誰でも聖衣が盗める状況だったわけだ。
――ただし、この時間に私がいないと知っていた人間に限る、と。
なら次は、「どうやってフランカがいないことを知ったのか?」だ。知り得る人間はどれだけいただろうか――と、フランカは赤く染まり始めた空を見ながら考えていた。
考え込むフランカの背後では、ラヴィニアが散らばった書類を拾い集めていた。
聖殿本来の仕事である、民への施しや救済の報告書はもちろん、寄付金の集金具合やら新規事業の決算報告やら、フランカが目を通すべき資料が目白押しである。フランカの判断が必要なもの、許可を出すべきもの、相談の依頼なども目に付いた。
「……この忙しいのに、厄介事を持ってきちゃうんだから」
書類の束を集め、思わずラヴィニアは息を吐く。普段から問題児のフランカだが、アレッシオの前では特に冷静ではいられないらしい。まるで、積極的に問題を持って帰っているような気さえする。
「フランカじゃなきゃできない仕事が山ほどあるのに。だいたい、本当に捕まっちゃったらどうするのよ……」
「すみませんねえ、うちの大将がご迷惑をおかけして」
独り言への返事に、ラヴィニアは驚いた。顔を上げれば、書類集めを手伝ってか、ラヴィニアと同じようにしゃがみ込んで紙を拾うエミリオの姿がある。
「あの人、口実見つけるとすぐにこうなんですよ」
「口実って!」
仮にも監視という名目のエミリオを警戒しつつ、ラヴィニアは苦い顔をする。
「それでフランカが捕まえられたらたまらないわ。あの子、どれだけ殿下に嫌われてるのよ」
「あれ?」
エミリオは少しだけ意外そうにラヴィニアを見やり、すぐにその表情を消した。切り替わるように浮かぶのは、人懐っこい笑みである。
「ああ、いや、そうですね。殿下は猊下を捕まえたくて仕方ないんですよ。聖殿は殿下にとって、なにかと邪魔な存在ですからね。特に今の聖殿は、反王家の根城になっていますし」
むう、とラヴィニアは気難しく顔をしかめる。
聖殿が反王家の立場となってしまっているのは、聖殿自体の性質もあるが、なによりフランカが原因だ。フランカは寄付金目当てに、積極的に反王家派の貴族に声をかけてしまっている。アレッシオから不当な扱いを受けた良識派の貴族のみならず、「太鼓持ちとしても不要」と切り捨てられた相手まで、聖殿の名を貸して庇護を与えている状況だ。
そうこうするうちに、聖殿が囲う貴族の数もずいぶんと増えた。政治に関わらない、という聖殿の方針を考えると、ラヴィニアは複雑な気分になる。
「猊下を捕まえれば、聖殿も瓦解するでしょう。そうすれば、もうこの国には殿下の敵になる相手なんていませんよ。あちこちに残った力ある貴族たちを排除して、おしまい。そういうところ、容赦する人じゃありませんから」
軽い口調で、エミリオは恐ろしいことを言う。集めた書類を軽くまとめて、彼はラヴィニアに差し出した。
「まあ、お気の毒ですけどがんばってください。ああして真犯人を見つけるって宣言しちゃったんですし。これで見つけられなかったら、殿下は本当に猊下を暗殺犯に仕立て上げますよ」
他人事のようにそう言って、エミリオは無責任に笑った。
実際、王太子配下の彼にとっては他人事だろう。が、聖殿が口実ごときで潰されてはたまらない。
ラヴィニアはとても笑えず、渋い顔でエミリオから書類の束を受け取った。