01・教室の内と外
午後9時。
東京都内の繁華街にあるラブホテルの一室で、人気読者モデルの茅入姫己は、セーラー服の上にクリーム色のカーディガンを羽織った。
中学二年生の茅入は、まだ幼さの残る薄い唇に、ストロベリーフレーバーのリップクリームを塗る。
すると、シーツの乱れたベッドの上に封筒が差し出され、茅入はサテン生地のシュシュで長い髪を結びながら、それをちらりと一瞥した。
「いつも、ありがと。先生」
茅入が甘さを含んだ声音で礼を言うと、ベッドに腰掛けた半裸の男が微笑む。
「いや。これで姫己の恋人気分を味わえるなら、安いものさ。君ほどの魅力的な子は、滅多にいない」
「ふふ。先生ったら、褒め上手なんだから」
茅入は柔らかく笑って、薄茶色の封筒に手を伸ばした。
その白く華奢な手を、半裸の男の手がそっと掴む。
「……姫己。前から言ってるが、俺と本気で付き合わないか? 小遣いなら好きなだけやるし、必ず君を幸せにしてみせる」
男の言葉に、茅入はゆっくりと睫毛を伏せた。
「……ごめんね。今は、読モの仕事と学校で忙しいから、恋愛は後回しかな」
そう言って、茅入は封筒を握った自分の手を、男の手の下から抜いた。
そのまま制服のスカートを軽やかに翻し、「じゃあ、またね。先生」とダウンライトが照らす部屋から出ていく。
しんと静まった部屋に一人残された男──木賊第一高校の教師である鴨田潮は、「……ちぇっ」と息を吐くと、乱れた頭髪をがりがりと掻いた。
10月上旬。東京都木賊区。
『厚生省特殊外郭機関インクルシオ』東京本部の南班に所属する「童子班」の高校生4人は、木賊第一高校の学食で昼食を済ませた。
一週間ほど前、反人間組織『アゴー』に監禁されたインクルシオ千葉支部の石坂桔人と宇佐葵の救出に尽力した高校生たちは、日に日に秋が深まる中、任務と学業に勤しむ毎日を過ごしていた。
この日は午後からロングホームルームがあり、4人は1年A組の教室に戻ると、それぞれの席について開始を待つ。
まもなくチャイムが鳴ると同時に引き戸が開き、クラス担任の鴨田が現れた。
鴨田は32歳の独身で、数学を担当する教師である。
「みんな、揃ってるなー。それじゃあ、今度の文化祭の係を決めていくぞー」
鴨田が黒板にチョークで『文化祭』と書くと、俄に教室内の空気が浮き立った。
「童子班」の高校生たちが通う木賊第一高校は、毎年10月に文化祭を開催しており、今年は10月9日の日曜日に行われる予定となっていた。
また、文化祭は一日のみの実施で、一般参加は自由であった。
紺色のブレザーを着た鷹村哲が、声を潜めて言った。
「うちのクラスの出し物は、『バトラー&メイド喫茶』だったな」
「それも、男女逆転のコスプレのな! 今から、超楽しみ〜!」
隣の席の塩田渉が小声ではしゃぎ、鷹村が「お前は、女装が楽しみなのかよ」と苦笑して突っ込む。
胸元に赤のリボンタイを付けた最上七葉が、顔を綻ばせた。
「でも、文化祭ならではの企画だものね。私も、けっこう楽しみだわ」
「僕は、色々な意味で、すごく不安だ……」
雨瀬眞白が戦々恐々とした顔で呟き、塩田が「大丈夫! 気楽にいこーぜ!」と親指を立てて励ました。
1年A組の生徒たちは、これまでのロングホームルームで文化祭の話し合いを重ね、『バトラー&メイド喫茶』を催すことに決定した。
文化祭の当日は、クラスの半数が男女を逆にしたコスプレ衣装を着て接客し、残りの半数が飲食物の用意等の裏方を務める。
高校生の新人対策官たちは、厳正なるあみだくじの結果、全員が接客係に当たっていた。
屋内用のサンダルを履いた鴨田が、チョークを片手に言う。
「衣装はレンタル業者、食材は近所のスーパーに発注済みだ。あとは、小物類の買い出し係、教室の装飾係、メニュー表やポスターの制作係が必要だな。なるべく、みんなで参加してくれなー」
「はーい!」
生徒たちが元気よく返事をし、鴨田はにこりと笑った。
窓際の席につく半井蛍に、塩田がうきうきと声をかける。
「半井君! 文化祭、一緒に盛り上げていこうな!」
「…………」
裏方係に決まっている半井は、頬杖をついて前を見やったまま黙殺した。
塩田はその反応に落胆することなく、「あー。マジで楽しみだなぁー」と頭の後ろで両手を組む。
そして、1年A組のロングホームルームは、和やかな雰囲気の中で滞りなく進んだ。
午後11時半。東京都月白区。
インクルシオ東京本部の隣に建つインクルシオ寮で、南班に所属する特別対策官の童子将也は、タブレットPCに表示された画像に目をやった。
「これか。オーソドックスなデザインで、なかなかええやん」
「でしょう? このヘッドドレスとか、すげぇ可愛いッスよね〜!」
Tシャツにスウェットパンツ姿の塩田が、ジュースの入った5つのコップが置かれたテーブルに身を乗り出して言う。
「童子班」の高校生4人は、午後9時までの巡回任務を勤めた後、個人トレーニングに出た童子の帰りを待って、寮の2階にある『211号室』に集まった。
就寝までの短い時間を、童子の部屋でわいわいと雑談をしながら過ごす。
塩田は持参したタブレットPCでレンタル衣装の企業のホームページを開き、木賊第一高校の文化祭で着用するメイド服を、シャワーを浴びたばかりの童子に嬉々として見せた。
鷹村がぶどう味のジュースを一口飲んで言う。
「そういやさ。文化祭のゲストは、茅入姫己が来るんだってな。確か、7月に蘇芳区の竹ノ子通りに遊びに行った時に、撮影してるところを見たよな」
「ええ。茅入姫己って、少し前に同じ事務所の読者モデル3人で音楽ユニットを組んで、ポップスのCDを出したのよね。最近は雑誌のモデルだけじゃなくて、テレビの歌番組にも出ているわ。うちの文化祭では、そのユニットでミニライブを行うんですって」
最上が淀みなく解説し、雨瀬が「最上さん、詳しい……」と目を丸くした。
最上は「実を言うと、ちょっぴりファンなの」と気恥ずかしそうに返す。
塩田が勢いよく両手を上げて言った。
「茅入姫己のミニライブも、クラスの出し物も、超楽しみだー! 童子さん! 来週の文化祭、絶対に来て下さいよ! 素敵なメイド服姿で待ってますからね!」
「ああ。俺も、楽しみにしとるで」
童子は笑ってうなずき、ベッドのヘッドボードに置いた時計を見やった。
デジタル表示の時刻は、あと3分ほどで午前0時になろうとしている。
「お前ら、もう遅い時間やで。そろそろ、自分の部屋に戻って寝ぇへんと……」
ガラス製のコップを持った塩田が、「えー。まだ眠くないッスよー」と唇を尖らせた。
鷹村が「もう少しだけ、ダメですか?」と窺うように訊き、最上が「明日は、ちゃんと起きますから」と上目遣いで言い、雨瀬が「童子さんが、迷惑でなければ……」と膝を抱えて体を丸める。
高校生4人の我儘に、童子は思わず吹き出した。
「……しゃーないな。ほな、ジュースのコップは片付けて、はちみつ入りのホットミルクでも淹れよか」
そう言って、童子はラグマットから腰を上げる。
高校生たちはぱっと明るい表情を浮かべると、「手伝います!」とその後を追いかけた。
午前0時。
インクルシオ東京本部の本部長である那智明のスマホに、一本の電話が着信した。
相手はグラウカ研究機関『アルカ』の所長の是永創一で、那智が通話ボタンを押した途端、是永は低い声で早口に告げた。
「阿諏訪灰根の『アンゲルス』に関して、至急伝えたい件がある。夜が明け次第、幹部を集めて緊急会議を開いてくれ」
 




