02・“人喰い”
午前8時。東京都月白区。
インクルシオ東京本部の1階の会議室で南班の捜査会議が開かれた。
南班チーフの大貫武士が、資料を片手に前を見据える。
「空五倍子区で起きた女性の殺害事件だが、これは“人喰い”の犯行と見てまず間違いないだろう」
大貫の言葉に、会議室に集まった南班の対策官たちが騒めいた。
前から二列目の長机に座った「童子班」の5人は、険しい表情で資料に目を落とす。
大貫は言葉を続けた。
「我々が“人喰い”と呼ぶ人物は、鏑木良悟。31歳。身長190センチの長身で黒髪の長髪。反人間組織には属しておらず、10年ほど前から人間を襲っては喰い殺してきた偏執的なグラウカだ。鏑木は目鼻立ちの整った風貌で、これまでの犠牲者は殆どが若い女性だ」
黒のツナギ服を着た最上七葉が「最低な男ね」と眉根を寄せる。
塩田渉が「今まで、何人が犠牲になったんだろう……」と小さく呟き、特別対策官の童子将也が「300人以上と言われとるな」と小声で答えた。
雨瀬眞白と鷹村哲は、黙ったまま資料に載る“人喰い”の写真を見つめる。
大貫は演台に手をついて言った。
「この10年間で鏑木良悟が捕まっていないのは、グラウカ特有の超パワーに加え、残虐性と理知的な思考を併せ持つ厄介な相手だからだ。インクルシオ対策官も、過去に6名が奴の餌食となっている。全員、顔面の皮膚を喰われ、その後に頭部や頸部を潰されて死んだ」
大貫の説明に、長机に座る50名近くの対策官がごくりと唾を飲む。
大貫が演台に資料を置くと、ふと雨瀬と鷹村の二人と目が合った。
高校生二人を暫く見やった大貫は、視線を上げて低い声音で言った。
「“人喰い”鏑木良悟は、決して見くびってはならない相手だ。各自、気を引き締めて捜査にあたれ」
午後12時半。
インクルシオ東京本部から徒歩5分の場所にある立ち食いそば店で、インクルシオの黒のジャンパーを着た大貫はたぬきそばを注文した。
カウンターの隅でそばを啜っていると、背後から聞き慣れた声がかかる。
「クソみてぇな陰気な顔して、そば食ってんじゃねぇよ」
「芥澤」
大貫の隣に天ぷらそばのトレーを置いたのは、北班チーフの芥澤丈一だった。
昼時の客で混み合う店内で、二人は並んでそばを啜る。
店の壁に設置されたテレビでは、空五倍子区の“人喰い”事件のニュースが流れていた。
そばを食べ終えた大貫が、丼に割り箸を置いて言う。
「……芥澤。お前も忙しいだろうけど、少し外で話さないか」
芥澤はえび天を頬張って大貫を見やると、「アイスおごれよ」と了承した。
立ち食いそば店を出た二人は、自動販売機でアイスクリームを購入して、歩道に設置されたベンチに座った。
アイスクリームの紙の包装を剥がしながら、大貫が口を開く。
「……今から2年半前に、俺が雨瀬と鷹村をインクルシオの訓練生に誘っただろ」
「あいつらが中一ん時だっけ。確か、グラウカに襲われた人間を助けたのがきっかけだろ?」
芥澤が砕いたアーモンドが乗ったアイスクリームを齧って返した。
「ああ。その時に、人間を襲っていたグラウカが鏑木良悟なんだ」
大貫が言い、芥澤の動きが止まる。
「……詳しくは知らなかったが、“人喰い”だったのか」
「そうだ。当時、不言区の区民図書館の裏通りで、鏑木が女性を襲っていたところにあの二人が遭遇してな。二人は女性を助けようと、危険を顧みずに間に割って入ったんだ。その直後、近くを巡回していたうちの対策官が駆け付けて鏑木を追ったが、逃してしまった」
「クソ使えねーな」
芥澤が大仰にため息を吐き、大貫は「“人喰い”確保のチャンスだったんだがな。面目ない」と手にしたストロベリー味のアイスクリームに目を落とした。
ベンチに座る大貫と芥澤の前を、多くの通行人が通り過ぎる。
行き交う人々の姿を眺めて、芥澤は「……なるほどな」と独りごちた。
大貫が芥澤に目を向ける。
「お前は“人喰い”の報復から守る為に、あの二人を訓練生にしたんだな」
芥澤の言葉に、大貫はうなずいた。
「ああ。その通りだ。“食事”の邪魔をされた鏑木は、近いうちに雨瀬と鷹村を襲うと思った。当時の二人は、不言区の児童養護施設にいた。事件が起こってからでは遅い。俺は二人に会ってそう話し、埼玉県にあるインクルシオの訓練施設の寮に入れた。たまたま“グラウカ”の雨瀬が訓練生になったことで周りから注目されたが、俺は二人が正式な対策官になれなくても構わなかった。訓練施設で2年間学べば、基本的な戦闘技術が身につけられる。自分たちの身を守る最低限の術を与えてやれれば、それでよかったんだ」
そう言って、大貫はアイスクリームを大きく齧った。
芥澤は食べ終わったアイスクリームの包装を丸めて、ゴミ箱に放る。
そして、徐にベンチから立ち上がった。
「……雨瀬と鷹村は、訓練生の狭き門を抜けて正式な対策官になった。今では、共に戦う多くの仲間もいる」
大貫は顔を上げて芥澤を見る。
芥澤はスラックスのポケットに両手を突っ込むと、口端を上げて言った。
「心配すんな。お前のおかげで、あの二人はもう無力じゃねぇよ」
インクルシオ寮の1階にある食堂で、雨瀬は緑茶を一口飲んだ。
昼食後、雨瀬と鷹村は過去に不言区で遭遇した“人喰い”について、「童子班」の3人に話をした。
窓際のテーブルにつく童子、塩田、最上がじっと耳を傾ける。
鷹村は「それで」と、2年半前の記憶を辿って言った。
「……眞白が“人喰い”に学生鞄をぶつけて、俺は襲われていた女性の腕を掴みました。女性は顔の半分近くが喰われてた。俺は血だらけの女性を支えて逃げようとしたけど、その時、眞白が“人喰い”に捕まって……」
そこまで話して、鷹村は僅かに言い淀んだ。
塩田が「え……? どうなったの……?」と恐る恐るといった様子で訊ねる。
鷹村の隣に座る雨瀬が、緑茶の湯呑みをテーブルに置いて言った。
「“人喰い”に、右目を喰いちぎられました」
「ひぃぃぃ……っ!!!」
塩田が白目を剥き、最上が痛ましい表情を浮かべる。
童子が雨瀬に訊いた。
「その時、鏑木はお前がグラウカやとわかったやろ? 反応はどうやった?」
「はい。“人喰い”はじっと僕を見て、『邪魔をするな』と言いました。そこに巡回中のインクルシオ対策官が来て、女性と僕らは保護されました」
雨瀬の返答に、童子は「そうか」とうなずいた。
「女性を助けたのは勇敢な行動だけど……大変だったわね」
「いやぁ〜。まさか、お前らがあの“人喰い”とやり合ってたなんてなぁ〜」
最上が細く息をつき、塩田が緊張を解いた顔で言う。
鷹村は「まぁな」と返して、手元のアイスコーヒーを飲んだ。
「でもさ。“人喰い”は、あの時の中学生二人がインクルシオ対策官になってるなんて思わないだろうな。もし、どこかで会っても気付かないんじゃね?」
「だと、いいけどな」
「警戒はしておくべきや。油断はあかん」
塩田と鷹村の会話に、童子が釘を刺す。
塩田はすかさずに「ですよねー!」と笑顔で言い、最上が「バカね」と呆れた。
童子は「何にせよ」と言って、高校生たちに視線を向けた。
「大貫チーフも言うてた通り、鏑木は厄介な相手や。決して気を抜かずに、しっかりと捜査していくで」
新人対策官たちは背筋を伸ばすと、「はい!」と声を揃えて返事をした。
午前1時。東京都水縹区。
閑静な住宅街に建つマンションの一室で、シャワーを浴びた“人喰い”──鏑木良悟は、タオルで髪を拭きながらパソコンを操作した。
インターネットのニュースサイトでは、空五倍子区の“人喰い”事件が大きく報道されている。
鏑木はニュース記事に目を通し、その中に掲載された一枚の画像に目を留めた。
それは、事件が起きた児童公園で、数人のインクルシオ対策官が現場検証をしている場面だった。
「……これは……」
鏑木はマウスを掴むと、急いで画像を拡大した。
そこには、まだ若そうな二人の対策官が話をしている姿が写っていた。
緩やかな癖のついた白髪と、まっすぐに伸びた短い黒髪。
横を向いているので殆ど顔は見えなかったが、直感でわかった。
鏑木の唇が自然と弧を描く。
「……あの二人は、インクルシオ対策官になっていたのか」
鏑木は感心したように呟くと、長い指を伸ばして、画像に写る二人の輪郭を撫でた。