01・裏切りと申し出
午後8時。千葉県千葉市内。
鉄道の路線沿いに建つ食品加工工場の倉庫に、二つの影が足を踏み入れた。
つい先ほどまで、贔屓の割烹料理店で酒と食事を楽しんでいた反人間組織『アゴー』のリーダーの須磨泉一が、スーツの胸ポケットから煙草を取り出して言う。
「随分と急な呼び出しだな。何かあったのか?」
須磨は煙草を口に咥えて、銀製のライターで火をつけた。
髪をオールバックに整えた須磨は、34歳のグラウカである。
薄暗い倉庫内に佇む人物が、ゆっくりと口を開いた。
「あんたらの拠点が割れた。明日、午後4時にうちの班の対策官が突入する」
「……何だと? ここがバレたのか?」
「そうだ。構成員の一人が防犯カメラに写っていたのを、うちの対策官が見つけた。今までに何度も、この辺りの防犯カメラの位置と死角は教えたのにな。無駄だったよ」
そう言って、須磨に向かい合う人物は薄く嗤った。
須磨は煙草のフィルターをきつく噛むと、顔を歪めて低く呻った。
「……チッ。その構成員は必ず処分してやる。だが、まずは拠点を移さなければ」
「一晩あれば、拠点を移す時間は十分だろう」
「……明日の突入まで、ここを見張っている対策官はいないのか?」
「それは、『俺ら』が交代でやる。問題ない」
黒のツナギ服を着た人物が、ゆったりと口角を上げる。
ブレードとサバイバルナイフを腰に装備した人物は、静かな声で須磨に告げた。
「じゃあ、もう行くよ。情報代は、いつもの口座に振り込んでおいてくれ」
9月下旬。東京都月白区。
午後9時半を少し回った時刻、『厚生省特殊外郭機関インクルシオ』東京本部の南班に所属する「童子班」の5人は、本部から300メートルほど離れた場所にある『月白噴水公園』に集っていた。
「おおー! これ、火花が次々と七色に変わってく! 超キレー!」
涼しい夜風に樹木がそよぐ中央広場に、塩田渉の歓声が響く。
七分袖のシャツにジーンズ姿の鷹村哲が、中腰の姿勢で目を細めた。
「この鉄砲型の花火、すげぇ懐かしいな。ガキの頃によくやった」
「やっぱり、花火と言えばこれよね。儚げなオレンジ色が好きだわ」
薄手のカーディガンを羽織った最上七葉が、指先でつまんだ線香花火をうっとりと見つめる。
「……僕、花火をするの初めてだ」
雨瀬眞白が色鮮やかに散る光の粒にぽつりと言い、ジャージの上下を着た特別対策官の童子将也が「ようさんあるから、好きなだけやりや」と笑った。
9月に全国で急増した反人間組織『イマゴ』による殺人事件は、思想犯の韮江光彦が10年前にインクルシオに拘束された日である9月17日を境に、ぴたりと止まった。
それから一週間が経ち、「童子班」の面々は任務に勤しむ日々を送っていた。
この日の巡回終了後、5人は黒のジープを停めたコインパーキングに戻る途中で、家電量販店の入り口に貼られた『在庫処分セール! 花火セット各種70パーセントオフ!』の広告に目を留めた。
7月に木賊第一高校の体験学習が行われた奥多摩のキャンプ場で、反人間組織『トレデキム』の襲撃を受けて花火を満喫することが叶わなかった高校生たちは、広告のポップな書体を恨めしく見やった。
そこで、童子が「……買うてくか?」と横から提案し、高校生たちが「いいんですかぁ!?」と揃って相好を崩して、今に至る。
「この公園に、花火が許可されている場所があってよかったわね」
「うん。すごく綺麗だし、色々な種類があって楽しい」
「花火って、火薬の匂いがいいんだよな。なんか、ノスタルジックでさ」
「あっ! 童子さん! ネズミ花火があるっスよ! よーし! 5個いっぺんに……」
「アホウ。塩田。ここは手持ち花火以外は禁止や。それは返せ」
最上、雨瀬、鷹村が半円形に並んでほのぼのと微笑み、塩田が嬉々として掲げたリング状の花火を、童子が手を伸ばして没収する。
5人がわいわいと花火を楽しんでいると、鷹村のスマホの着信音が鳴った。
「……あ。石坂君と宇佐さんからだ」
スマホの画面をタップした鷹村が、顔を綻ばせる。
そこには一件のメッセージと画像が表示されており、メッセージの送り主はインクルシオ千葉支部に所属する石坂桔人と、同じく千葉支部の宇佐葵だった。
石坂と宇佐は高校2年生の新人対策官で、「童子班」の高校生4人と同じ埼玉県のインクルシオ訓練施設の出身である。
「わー! 石坂君と宇佐ちゃん、久しぶりだなぁ!」
「二人共、8月の新人懇親会以来ね。……あら? あっちも花火だわ」
鷹村のスマホを塩田が覗き込み、最上が画像を見て言った。
石坂と宇佐の連名で送られたメッセージには、『久しぶり! 先週、花火が半額だったので、先輩方と童心に帰って遊びました! これはその時の画像です!』と書かれており、画像には千葉支部の対策官たちが花火に興じる様子が写っていた。
「この時期に花火が安いんは、どこも一緒やな。種本さんも元気そうで何よりや」
童子が石坂と宇佐の指導担当につく種本広海の姿に笑みを浮かべ、雨瀬が「千葉支部のみなさん、楽しそう」と感想を漏らす。
鷹村が指を軽快に動かしてスマホを操作した。
「俺らも、二人に「童子班」の花火の画像を送ろう。……いつか、みんなで一緒にできるといいな」
そう言って、鷹村は送信ボタンをタップする。
5人の笑顔と美しい花火が写った画像は、月の浮かぶ夜空を越えて、遠く離れた仲間の元に送られた。
翌日。千葉県千葉市二藍区。
日曜日の午前10時、インクルシオ千葉支部の支部長の浪川政尚は、執務室の椅子に腰掛けた。
千葉支部は70名の対策官を擁する拠点であり、千葉県全域を3つのエリアに分けて、それぞれ1班、2班、3班を置いている。
浪川は執務机の前に立った対策官たちに言った。
「いよいよ、今日の午後4時に『アゴー』に突入だな」
「ええ。『アゴー』は、このあいだ壊滅した『アラネア』ほどの大きな組織ではありませんが、これまでに千葉県内で多数の殺人事件を起こしてきました。突入チームの対策官全員、気合いが入っていますよ」
千葉支部の2班に所属する種本が、強い眼差しで返事をする。
種本の隣に立つ、同じく2班の秋野亮平と岸山智紀が、引き締まった表情でうなずいた。
秋野と岸山はどちらも26歳の対策官で、種本の1年後輩にあたる。
「よし。後は、現場での突入の手順をしっかりと……」
浪川が話していると、執務室のドアがコンコンコンとノックされた。
視線を上げた浪川が「入れ」と言うと同時に、「失礼します!」と勢いよくドアが開く。
そこに現れたのは、2班に所属する新人対策官の石坂だった。
黒のツナギ服を纏った石坂は、背筋をぴんと伸ばして言った。
「浪川支部長! 今回の『アゴー』の突入チームに、どうか僕を入れて下さい! お願いします!」
石坂が頭を下げて申し出ると、種本が慌てて口を挟んだ。
「こ、こら、石坂……! 突入は命懸けの危険な任務なんだ。まだ新人のお前を、チームに入れるわけにはいかない」
「石坂。お前は経験を積みたいんだろうが、俺らは現場で新人を気にかけてる余裕はない。いざと言う時に、お前を守ってやれない」
秋野が腰に手を当てて言い、岸山が「そうだぞ」と相槌を打つ。
「……で、でも……!」
石坂は頭を下げたまま、言葉に窮した。
浪川が徐に両手の指を組んで言った。
「石坂。顔を上げなさい。お前は優秀な戦闘技術を持つ、将来有望な新人対策官だ。だからこそ、焦って任務に飛び込み、そこで命を落とすようなことがあってはならない。……今回は、2班の先輩対策官たちに、『アゴー』壊滅の成功を託しなさい」
浪川の諭すような声に、石坂の張り詰めた表情が徐々に緩む。
石坂は澄んだ瞳を上げると、「──はい!」と大きく返事をした。