05・過去と現在
──15年前。
反人間組織『イマゴ』のリーダーの穂刈潤と、そのメンバーの一人であり、インクルシオのキルリストの個人最上位に載る乾エイジは、東京都立川市にあるグラウカ支援施設「ひまわり苑」にいた。
グラウカ支援施設とは、親との死別や養育放棄等で孤児となったグラウカを保護する児童福祉施設である。
穂刈と乾は、保健所が行う『4歳児検診』でグラウカと判明した後に親に捨てられたケースで、こうした“人間の突然変異種”であるグラウカの養育放棄は、昨今の社会問題の一つとなっていた。
ある夏の日。
小学4年生の穂刈と乾は、全身を泥で汚して「ひまわり苑」に帰ってきた。
「潤。エイジ。おかえり。酷く汚れてるけど、どうしたの?」
そう言って二人に歩み寄ったのは、「ひまわり苑」に児童福祉司として勤務する人物──当時24歳の韮江光彦だった。
「……学校の砂場で遊んでいたら、タッくんに突き飛ばされて水をかけられた」
玄関先に立った乾が言い、頰に泥を付けた穂刈がうつむく。
韮江は深くため息をついて、その場にしゃがんだ。
「君たちはグラウカだろ? やり返さないのか?」
「……だって……暴力はダメだから……」
穂刈が泣きそうな声で小さく言う。
韮江は手を伸ばして二人の肩に乗せると、顔を近付けて囁いた。
「いいことを教えてあげる。暴力はね、“人間”相手なら振るってもいいんだ」
韮江の言葉に、穂刈と乾はきょとんとする。
韮江は二人の顔をじっと見つめて、にこりと微笑んだ。
「そろそろ、君たちも知る歳かな。グラウカとして歩むべき『正しい道』を」
──韮江はグラウカ支援施設で働く傍ら、ある活動を精力的に行っていた。
それは休日等を利用して全国のグラウカ支援施設を回り、差別やいじめに悩む子供たちの話を聞くというものであった。
韮江は“相談会”と称したこの活動で、自身の『グラウカ至上主義』の思想を子供たちに滔々と説き、傷ついた心の隙間にするりと染み込ませた。
穂刈と乾も例外ではなく、二人は韮江の“教え”に一気に傾倒した。
そして、夏が終わる頃には、二人が通う小学校のタッくんと呼ばれる児童が、廃工場の敷地内で頚椎を折られた状態で発見された。
しかし、犯人に繋がる手がかりに乏しく、事件は未解決のまま時は過ぎた。
それから5年後。
穂刈と乾は中学3年生になった。
「韮江先生。もし僕が反人間組織を作ったら、組織名は『イマゴ』にするよ。響きがカッコいいでしょう?」
「俺は組織に属するよりも、一匹狼だな。その方が性に合ってる」
「えー。エイジは強いんだから、僕の組織に入ってよ」
「仕方ないな。じゃあ、両方で」
「ひまわり苑」のほど近くにある、立川市の『緑のアーチ市民公園』のベンチで、穂刈と乾は屈託なく笑った。
缶コーヒーを手にした韮江が、公園を囲む木々を眺めて言う。
「潤。エイジ。お前たちは、すでに何十人もの人間共を屠ってきた。俺は戦闘はダメなタイプだが、お前たちは違う。この先、俺に何かがあった場合は、お前たちが俺の思想を継いでくれ」
「え?」
韮江の静かな一言に、穂刈と乾が顔を向けた。
韮江は前を見たまま言った。
「ここ最近、俺は何者かに見張られている。おそらく、インクルシオだろう。今までに全国で行ってきた“相談会”の内容が、どこかで漏れたかな。……だが、もう遅い。俺はすでに優秀な教え子を数多く育てた。あとは、教え子たちが自身の『あるべき道』を突き進むだけだ」
韮江は缶コーヒーを一口飲み、穂刈と乾を見やった。
「潤。俺の教え子たちのリーダーはお前だ。エイジ。潤の隣で支えてやってくれ。お前たちが、グラウカこそがこの世の支配種だと証明するんだ。──頼んだぞ」
その3日後。
韮江は『緑のアーチ市民公園』のベンチにいたところを、反社会的な理念を広めた思想犯としてインクルシオに拘束された。
更に一年後には、穂刈が韮江から聞いていた全国の“教え子”を集め、広域的に活動する反人間組織『イマゴ』を作った。
その後、メンバーの一人にグラウカ限定入店の『BARロサエ』を経営するリリーが加わり、穂刈と乾の盟友となった。
午前1時。東京都月白区。
インクルシオ東京本部の南班に所属する「童子班」の高校生たちは、インクルシオ寮の2階にある特別対策官の童子将也の部屋を出た。
「いつの間にか、すっかり遅い時間になったな」
鷹村哲が小声で言い、塩田渉、最上七葉、雨瀬眞白がしんと静まり返った廊下に立つ。
そこに、西班に所属する特別対策官の真伏隼人が通りかかった。
「……ま、真伏さん! お疲れ様です!」
ラフな私服を着た高校生たちが姿勢を正すと、童子が部屋のドアから顔を出して「お疲れ様です」と挨拶をする。
薄手のジャケットにスラックス姿の真伏は、「童子班」の5人を一瞥した。
「……こんな夜中に揃って何をしていたんだ? もし遊んでいたとしたら、言語道断だな」
そう言うと、真伏はすたすたと自室に歩いていった。
真伏がドアの鍵を開けて中に入るのを確認して、塩田が唇を尖らせる。
「ちぇー。別に遊んでたわけじゃないのにな。みんなで『イマゴ』の事件とか捜査の話をしてたら遅くなっただけだし……」
ジャージを履いた童子が、「まぁ、気にすんな」と宥めるように言った。
「それより、今日は学校やろ? 早よう寝ぇへんと起きられへんで?」
童子の言葉に、高校生たちがピクリと反応する。
4人は「おやすみなさい!」と抑えた声で言うと、それぞれの部屋に小走りで戻っていった。
午前1時半。
白壁に囲まれた広い邸宅で、穂刈はリビングのソファに座っていた。
革張りのソファの向かいには、インクルシオ総長の阿諏訪征一郎がいる。
穂刈は出されたコーヒーを飲んで、口を開いた。
「こうして貴方と向き合ってコーヒーを飲んでいると、“あの日”を思い出します」
「……もう10年前になるか。韮江光彦の拘束後、お前は私を襲いに来たな」
阿諏訪はコーヒーを一口啜り、懐かしむように目を細めた。
「ええ。中学生の僕は、インクルシオ総長である貴方を人質にして立てこもり、『クストス』に収監された韮江先生の釈放の取引材料にしようと考えた。……だけど、この家に侵入してナイフを突き付けた時、貴方は『私と組まないか?』と笑顔で言ったんです」
穂刈は小さく微笑み、コーヒーカップをソーサーに置く。
ナイトガウンを羽織った阿諏訪が、鷹揚に足を組んだ。
「韮江をすぐに『クストス』から出すことは難しいが、収監期間が短くなるように口添えすることはできる。そう告げた私に、ナイフを手にしたお前は熱心に耳を傾けた。それからの展開は早かったな。お前は韮江の育てた全国の“教え子”と共に『イマゴ』を作り、私はインクルシオ総長の立場からその躍進を手助けした。2年前には、西班の真伏隼人を『イマゴ』に誘い込ませた」
阿諏訪が言い、穂刈がうなずく。
「あれは素晴らしいご提案でした。特別対策官が仲間に加われば、細かい捜査情報のリークだけでなく、様々な場面で役立ちますからね。とは言え、真伏君に声をかけた当初は、本当に『イマゴ』に引き込めるのか少し疑問でしたけど……」
「真伏は父親である路木怜司に深い思慕の念を抱いている。多大な功績を挙げて路木に認めてもらう為に、独断でスパイの道を選ぶことは容易に想像できた」
「さすがはインクルシオ総長ですね。内部事情にお詳しくて助かります。……ただ、その真伏君ですが、最近『イマゴ』の大ボス……つまり貴方に会わせろと、少々うるさくなってきました」
緩いウェーブのかかった黒髪を揺らして、穂刈が言う。
阿諏訪は足を組み替えて、浅く息を吐いた。
「真伏の目的は、『イマゴ』の黒幕を暴くことだ。今は適当に遇らっておけ。奴は、利用できるだけ利用する」
穂刈が「わかりました」と返事をすると、阿諏訪はソファから立ち上がった。
壁際の暖炉の前に立ち、一つの写真立てを手に取る。
「……それより。“特異体”探しの方は、引き続き頼んだぞ」
「承知しています。貴方が『イマゴ』の大ボスとなって僕らに手を貸し、僕らが貴方の望みである“特異体”探しをする。それが、お互いが協力する条件ですからね」
そう言って、穂刈が丸メガネの奥の双眸を光らせた。
阿諏訪はゆったりと口角を上げると、写真立ての中に写る少女──今も2階の寝室に眠る、阿諏訪灰根を愛おしく見つめた。
 




