03・クストスの面会
東京都月白区。
築30年の木造アパートの窓の外には、霞みがかった空が広がっている。
インクルシオ東京本部の1階に入る飲食店『カフェスペース・憩』の従業員であり、反人間組織『イマゴ』のリーダーである穂刈潤は、六畳間に敷いた布団の上で寝返りを打った。
その動きにつられて、薄手のタオルケットが波を描くようにずれる。
穂刈の頭上には、愛用の丸メガネとデジタル時計が置かれており、時刻はまもなく午前6時になろうとしていた。
『──潤。この世にグラウカが出現したのは、それまでの支配種である“人間”を淘汰する為だ。長らく続いた“人間”の時代は終わった。これから先は、俺たちグラウカが全生物の頂点となるんだ』
目を閉じた穂刈の脳裏に、懐かしい人物の姿が浮かぶ。
穂刈が名前を呼んで手を伸ばすと、甲高い電子音が鼓膜を叩いた。
「……朝か……」
枕元で鳴り響くデジタル時計のアラームを止め、穂刈はのそりと体を起こす。
半分開けた窓から風が入り込み、ウェーブのかかった黒髪をしっとりと撫でた。
形のいい薄い唇が僅かに動く。
「……先生……」
穂刈の小さな呟きは、朝の静謐な空間に消えていった。
午前10時。東京都乙女区。
インクルシオ東京本部の南班に所属する「童子班」の面々は、捜査目的の面会を行う為、グラウカ収監施設『クストス』に訪れた。
『クストス』は反人間組織や重犯罪者のグラウカを収容する施設で、基本的には面会は一親等の親族のみとなっている。
インクルシオの黒のツナギ服を纏った5人は、『クストス』のロビーにある受付で対策官証と面会許可書を提示し、装備した武器を預け、ボディチェックを受けて、漸く館内に進むことができた。
「俺、『クストス』に来るのは初めてだよ。なんかドキドキするなぁ」
「建物の中は明るくて清潔感があるわね。収監施設のイメージとは違うわ」
青色の制服を着た刑務官の後ろを歩きながら、塩田渉と最上七葉が話す。
鷹村哲が隣を歩く雨瀬眞白に言った。
「俺らは、6月に一度来たことがあるよな。よっちゃんの面会で」
「うん」
鷹村の言葉に雨瀬がうなずく。
二人は小学校時代の幼馴染である“よっちゃん”──反人間組織『コルニクス』の構成員であった吉窪由人を思い浮かべて、小さく微笑んだ。
「それでは、こちらにお入りになってお待ち下さい」
「ありがとうございます」
通路に複数並ぶ面会室の一室の前で、刑務官が立ち止まる。
特別対策官の童子将也が礼を言い、電子ロックを解除した部屋に入室した。
こじんまりとした面会室は部屋の中央がアクリル板で仕切られており、天井には監視カメラが設置されている。
対策官たちが備え付けのパイプ椅子に座ると、反対側のドアが開き、一人の人物が姿を現した。
「これはこれは。随分と若そうな対策官たちだな。みんなで社会見学かい?」
そう言って室内に入ってきたのは、グラウカ至上主義の思想犯として収監されている人物──韮江光彦であった。
韮江は39歳のグラウカである。
髪を額の中央で分けた韮江は、童子を見て嬉しそうに言った。
「やぁやぁ。君がインクルシオNo.1の特別対策官の童子将也か。君の活躍はこの監獄にも轟いてるよ。こうして人間側最強の人物と会えるなんて光栄だ。しかし、君は確か大阪支部の所属だと思ったが、違ったかな?」
「本日はお時間をいただきありがとうございます。俺はこの4月に大阪支部から東京本部に異動してきました。こっちの4人は、俺が指導担当についとる新人対策官です」
童子が紹介し、高校生たちが「よろしくお願いします」と挨拶をする。
韮江はパイプ椅子に深く腰掛けると、「よろしく。何でも聞いてね」と笑った。
「早速ですが、韮江さん。あなたは極度のグラウカ至上主義者であり、人間の排斥・抹殺を広く扇動したとして10年前に拘束されました。その後、世の中に反人間組織『イマゴ』が出現し、大量の殺人事件を起こし始めた。あなたは『クストス』収監後に、この『イマゴ』との関わりを仄めかす供述をしとるようですが、その部分を詳しく聞かせてもらえませんか?」
童子の質問に、韮江は大袈裟に肩を竦めた。
「やれやれ。その話はもう千回はしたよ。だが、インクルシオNo.1の質問とあっちゃあ、無下にはできないな」
韮江は人差し指で頰を掻いて、言葉を続ける。
「いやね。俺の思想の教え子に優秀な子がいてさ。その子が『イマゴ』を作ったんだよ。だから、俺と『イマゴ』には関係があるんだ」
童子の隣に座る鷹村が口を開いた。
「あの。一つ質問いいですか。『イマゴ』が世間に出てきたのは、韮江さんが拘束されて一年ほど経った後です。『イマゴ』は今でもリーダーと構成員の氏名はわかっていない。なのに、どうして教え子が『イマゴ』を作ったとわかるんですか?」
「それはねぇ。俺の教え子が、反人間組織を作るなら『イマゴ』と名付けると言ってたからだよ。名付けの理由は響きがカッコいいからだってさ。単純だよねぇ」
韮江がくつくつと笑って答えると、すかさず童子が口を挟んだ。
「その“教え子”というんは、誰ですか?」
「あはは。いくらNo.1からの質問でも、それは答えられないな」
「裏付けが取れへんのなら、あなたの供述はただの狂言や妄想で片付けられる。それでもええんですか?」
「ああ。構わないよ。たとえ拷問を受けても俺は口を割らないし、司法取引も断る。それが“師”としての役目だからね。俺は決して教え子たちの邁進の邪魔はしない」
「………………」
童子が韮江を見据え、韮江が童子を見返す。
数瞬の沈黙が流れた後、韮江が「それより」と視線を逸らした。
「そこの白髪の君。君は、“グラウカ初の対策官”の雨瀬眞白君だよね?」
「は、はい」
韮江が唐突に話しかけ、雨瀬が肩を揺らして返事をする。
韮江は穏やかな笑みを湛えて雨瀬に言った。
「君の噂もよく聞いているよ。剛木三兄弟の『アダマス』を始め、いくつかの反人間組織の壊滅に貢献したんだってね。でもさ、人間の言いなりになって同胞を屠るのは感心しないなぁ。君はグラウカなんだから、人間なんかに謙ってちゃダメだ。もっとこの世の支配種としての自覚を持たなきゃ。よかったら、次は一人で面会に来てくれよ。俺が君のあるべき姿と進むべき道を説いて……」
「韮江さん」
韮江が話している途中で、童子がガタンとパイプ椅子から立ち上がった。
童子はアクリル板越しに韮江を見下ろす。
「お話を聞かせていただいてありがとうございました。もう時間なんで、これで失礼します」
そう言うと、童子はくるりと踵を返した。
高校生たちが次々とパイプ椅子から立ち上がり、「ありがとうございました」とお辞儀をしてドアに向かう。
クリーム色のドアがパタンと閉まり、室内はしんと静まり返った。
面会室に取り残された韮江は、「……予定時刻まで、まだ10分もあるじゃん」と苦笑する。
韮江はパイプ椅子の背に凭れて、双眸を細めた。
「なかなか楽しい時間だった。外界は面白そうだな。……潤」
面会室から出た「童子班」の5人は、リノリウムの廊下で一息ついた。
塩田が両手を上げて伸びをする。
「ああ〜。なんか緊張したな。やっぱり、思想犯だけあって口が上手いな」
「ええ。雨瀬への勧誘がスラスラと出てきたあたり、さすがだと思ったわ」
「韮江が言ってることが真実かどうかは、測りかねたな。ただ単に、嘘をでっち上げて面白がってるようにも見えるし……」
最上が言い、鷹村が腕を組んだ。
雨瀬が童子に訊ねた。
「……童子さん。韮江は、本当に『イマゴ』と関わりがあるんでしょうか?」
雨瀬の質問に、鷹村、塩田、最上が童子に注目する。
童子は新人対策官たちを見やって言った。
「確たる証拠や裏付けがあらへん以上、現段階では何とも言えへん。……せやけど、拷問を受けても口を割らん、司法取引も断るて言うた時の韮江の目は、本気やったと思うわ」