01・笑顔と嫌悪
午後8時。東京都内。
インクルシオ東京本部の1階にある飲食店『カフェスペース・憩』のアルバイト従業員である穂刈潤は、仕事を終えた帰宅途中、道端で目が合ったという理由で工事中のビルに連れ込まれた。
緩やかなウェーブのかかった黒髪に細いフレームの丸メガネをかけた穂刈は、コンビニエンスストアのビニール袋を持って暗がりの空間に佇む。
穂刈の眼前には、薄ら笑いを浮かべた5人の男が立っていた。
「あんちゃんよぉー。俺らにメンチ切っといてタダで済むと思うなよぉー」
「メンタル傷ついたんで、がっぽり慰謝料下さーい」
「財布とクレカとスマホと……。表にあるミニサイクルも置いてってもらおーか」
いかつい風貌をした5人は口々に好き勝手なことを言う。
穂刈は眉根を寄せると、短く息を吐いた。
「僕はグラウカですよ。あなたたちは人間? グラウカ?」
「はぁ? グラウカだから何だっつーんだよ? 俺らは人間だが5人いるんだぜ? お前みたいなヒョロガリのグラウカなんざ目じゃね……」
いきり立って前に出た赤髪の男が言い終わる前に、穂刈の左手がその首根を掴んだ。
大柄な男の両足がコンクリートの床から浮き、バタバタと宙を蹴る。
他の4人が驚いて見上げると、赤髪の男の頚椎がボキボキと潰れる音がした。
「……てっ……てめぇっ!!!!」
口から泡を吹いて痙攣する男を見て、4人の男たちがナイフを取り出す。
穂刈は赤髪の男を手放すと、無表情で視線を上げた。
穂刈の頭の中で声がする。
『──グラウカは至上にして至高の存在だ。僕らはこの世の全てを統べるに相応しい生物なんだ。人間というグラウカになり損ねた下等種は、君が朝起きて伸びをするように、ごく気楽に殺していいんだよ』
形のいい薄い唇がゆっくりと弧を描いた。
穂刈の脳内に響く甘美なリフレインは、“人間”の男たちを惨殺しきるまで止まらなかった。
9月中旬。東京都月白。
『厚生省特殊外郭機関インクルシオ』東京本部の最上階の会議室で、定例の幹部会議が開かれた。
部屋の中央に置かれた楕円形のテーブルには、インクルシオ総長の阿諏訪征一郎、本部長の那智明、東班チーフの望月剛志、北班チーフの芥澤丈一、南班チーフの大貫武士、西班チーフの路木怜司、中央班チーフの津之江学が着席している。
時刻は午前9時を少し回ったところだった。
ブルーのワイシャツを着た那智が資料を手にして口を開く。
「つい先ほど入った情報だが、福岡市内で殺人事件が起きた。現場は繁華街にある金券ショップで、客と従業員の7人が殺された。通報を受けて現場に駆け付けた福岡支部の対策官によると、店のカウンターには血文字で『イマゴ』と書かれていたそうだ」
「……チッ。クソが」
那智の報告に、芥澤が顔を顰める。
望月が顎に手を当てて言った。
「今月に入ってまだ2週間も経ってないのに、これで6件目か……。これまでも規模の大小に関わらず『イマゴ』は多くの殺人事件を起こしてきたが、ここ最近は特に頻発しているな」
「ええ。福岡だけでなく、東京、大阪、名古屋、横浜、仙台と場所も様々ですね」
津之江が返し、大貫が険しい表情で手元の資料を見つめる。
路木が指に挟んだボールペンをくるりと回した。
「彼らは毎回のように現場に血文字、あるいは組織名の入ったナイフを残して犯行を誇示しています。きっと、未だにリーダーや構成員を割れない我々を嘲笑しているんでしょうね」
「ああ。その通りだろうよ。だが、いつまでもクソ共の好きにはさせねぇぞ。必ず小汚い尻尾を捕まえてやる」
芥澤がギリギリと歯噛みをして呻る。
阿諏訪が両手の指を組み、重厚な声でチーフたちに告げた。
「インクルシオのキルリストの最上位に載る反人間組織『イマゴ』の壊滅は、言うまでもなく必達の責務である。『イマゴ』による殺人事件が急増する中、我々はただ手をこまねいて見ているわけにはいかない。全国のインクルシオの拠点並びに東京本部の各班は、総力を挙げて捜査にあたれ」
午後6時。
インクルシオ東京本部の南班に所属する「童子班」の面々は、担当地区の巡回を終えて本部のエントランスを潜った。
1週間ほど前にインクルシオ大阪支部の疋田進之介らと共に消炭区の『地下闘技場』を摘発した5人は、長引く残暑の中、任務と鍛錬に勤しむ日々を送っていた。
黒のツナギ服を着た対策官たちは、本来であれば2階のロッカールームに向かうところを、エレベーターホールを素通りして1階の通路の奥に進む。
まもなく『カフェスペース・憩』の前に到着し、5人はドアを開いた。
途端に食欲をそそる香りが鼻孔をくすぐり、腰にブレードとサバイバルナイフを装備した塩田渉が目を輝かせた。
「うわぁ〜! 旨そう! これ全部食べてもいいの?」
「すごい。料理だけじゃなくてスイーツやドリンクもあるのね」
黒髪を耳にかけた最上七葉が笑顔を浮かべて言う。
鷹村哲が「けっこう種類が多いな」と店内を見渡し、雨瀬眞白が「もうこれでお腹一杯になりそう」と痩身の腹部を摩った。
高校生たちの指導担当である特別対策官の童子将也が、ツナギ服のポケットから5人分の招待チケットを取り出し、ドア付近に待機していた店員に「お願いします」と渡す。
店員はチケットを受け取ると、「どうぞお入り下さい」と促した。
──この日、『カフェスペース・憩』では、新作メニューの試食会が開催されていた。
試食会はインクルシオ東京本部の対策官と職員が招待され、立食形式にテーブルが配置された店内では、多くの関係者たちが小皿に盛られた料理やスイーツの賞味を楽しんでいた。
「みなさん! お疲れのところ、来て下さってありがとうございます!」
空いた小皿やグラスを下げていた穂刈が、「童子班」の5人に気付いて歩み寄る。
早速、色とりどりの料理に手を伸ばした高校生たちが、「穂刈さん!」と振り返った。
「今回の新作メニューは、どれもスタッフ一推しの自信作ばかりです。おかわりもどんどん追加されますので、たくさん食べていって下さいね」
「はい! ありがとうございます!」
爽やかに微笑んだ穂刈に、高校生たちが声を揃えて礼を言う。
塩田が「では、遠慮なく!」と声をあげて猛然と和風ガパオライスを掻き込み、鷹村が焼き野菜とベーコンのオープンサンドに噛り付き、最上が生チョコレートのモンブランを堪能し、雨瀬が甘酒入りのグリーンスムージーを飲んで「美味しい」と息をついた。
「お前ら、今日はコンビニの買い食いを我慢してよかったな」
特製ビーフシチューの小皿を手にした童子が笑う。
塩田がもぐもぐと口を動かしてうなずいた。
「ほんとっスよぉ〜。空腹を耐えた甲斐があったっス」
「腹が盛大に鳴って大変だったけどな」
鷹村が苦笑し、穂刈が「さすが食べ盛りの高校生だねぇ」と感心する。
すると、穂刈が持っていたトレーから一枚のコースターが落ちた。
「おっと。失礼」
「俺が拾いますよ」
穂刈と鷹村が同時に腰を落とし、床に舞ったコースターを掬う。
その際に互いの腕が触れ、コースターを掴んだ穂刈は「ありがとう」と言って立ち上がった。
「それじゃあ、僕は仕事に戻りますね。試食会、楽しんで下さいね」
「はい!」
高校生たちが返事をし、穂刈が軽く手を振って背中を向ける。
店内には任務終わりの対策官が次々と訪れ、『カフェスペース・憩』の試食会は明るく盛況した。
「………………」
厨房に戻ってシンクに洗い物を入れた穂刈は、半袖のシャツから出た腕をじっと見る。
先ほど、鷹村──“人間”と触れた肌には、真っ赤な蕁麻疹が浮き出ていた。




