06・“闘士”
午後7時。東京都消炭区。
インクルシオ東京本部の南班に所属する新人対策官の雨瀬眞白は、昨夜に引き続き、洋館レストラン『ノビリス・モルス』の前に立った。
入店した雨瀬が蝶ネクタイのウェイターに『“闘士”として参加したい』と告げると、何の手続きもなく『地下闘技場』のリング脇にある控え室に通された。
控え室には鍵付きのロッカー、テーブル、パイプ椅子、ドレッサーがあり、10人前後の“闘士”らしきグラウカが出番を待っていた。
その中に、虹色のパンチパーマの強面の男がふんぞり返って椅子に座っており、雨瀬はうつむき加減で部屋に足を踏み入れた。
壁際に設置されたロッカーの前で立ち止まる。
(……童子さんが、スニーカーだと踏ん張りがきかないって言ってた。脱いで裸足になっておこう。服装は自由みたいだから、Tシャツとジーンズのままで……。あとは……)
雨瀬は思考を巡らしつつ、空いているロッカーを開けた。
すると、雨瀬の隣に誰かが立った。
「見ない顔だけど、『地下闘技場』に出場するのは初めてか?」
「……あ、はい。そうです」
雨瀬が顔を向けると、鼻の下まで覆うデザインの仮面が目に入った。
雨瀬は両目を見開いて反応する。
(この人、昨日の試合で見た仮面の“闘士”だ)
黒色の仮面をつけた“闘士”は、手にした鍵をロッカーに差し込んで扉を開けた。
「お前、まだ高校生くらいだろ。こんなところに来て大丈夫なのか? あそこにいるパンチパーマの男と当たったら、殺されるかも知れないぜ?」
「あ、いや……。むしろ、あの人と対戦したいんです」
雨瀬の言葉に、仮面の“闘士”がぴくりと肩を揺らす。
仮面の下から覗く口元が、「……なるほどね」と密かに呟いた。
「あのパンチパーマの男は、これまでの対戦相手を悉く殺してきてる。だから、みんな怖がって試合をやりたがらない。仕方ねぇから、今夜は俺があいつと対戦するんだよ」
「!」
雨瀬は弾かれたように顔を上げた。
「そ、その対戦を僕と代わってもらえませんか? お金ならいくらでも出します」
「何だよ。そこまでしてあいつと戦いたいのかよ」
仮面の“闘士”は呆れたように笑うと、ロッカーからデイパックを取り出した。
雨瀬は「お願いします」と小声で食い下がり、デイパックを肩に担いだ仮面の“闘士”は徐に口端を上げた。
「いいぜ。俺は急用を思い出したから帰る。あとは好きにしろよ」
多くの食事客で賑わう『ノビリス・モルス』に、8人の男女が訪れた。
時刻はあと数分で午後7時半になろうとしていた。
ウェイターが「いらっしゃいませ」と笑みを浮かべて歩み寄る。
「こんばんはー。7時半に予約を入れた疋田です」
「疋田様ですね。3階の個室をお取りしています。こちらへどうぞ」
ウェイターが絨毯の上を歩き出し、私服姿の8人の客──インクルシオ東京本部とインクルシオ大阪支部の“特別編成チーム”の対策官たちは、その後に続いて店の奥に向かった。
ウェイターがエレベーターの前で振り返る。
「申し訳ございません。当店のエレベーターは6人乗りでございますので……」
「ああ。全然かまへんですよ。ほな、4人ずつに分けて乗ろか」
麻のジャケットを左手に持った疋田進之介は快く了承すると、市来匡、塩田渉、鈴守小夏と共にエレベーターに乗り込んだ。
青色の扉が滑らかに閉まった途端、疋田がウェイターの背後から腕を回して頸動脈を絞める。
「ぐうぅ……っ!!」
ウェイターはじたばたと藻搔き、数秒もしないうちに失神した。
「よし。これで俺のジャケットを着せて、一緒にエレベーターを降りるで。そんで、トイレの個室に監禁しておく」
「疋田さん、すげぇ。あっという間に落としたぜ」
「進之介さんなら、こんなの朝飯前やで」
塩田が目を輝かせて言い、鈴守が自慢げに腰に手を当てる。
市来が「じゃあ、『地下』に行きましょう」とエレベーターの操作パネルに手を伸ばし、乳白色のボタンを押した。
ほどなくして、『地下闘技場』の会場に現れた疋田たちは、非常階段を使って下りてきた童子将也、時任直輝、鷹村哲、最上七葉と合流し、熱気に満ちた空間に紛れていった。
午後8時。
白髪を黒髪に染めた雨瀬は、レフェリーに連れられてフェンスの中に入り、眩しいスポットライトが照らすリングの上に立った。
雨瀬の目の前には、グラウカの重犯罪者である貝塚門人が仁王立ちしている。
まもなく甲高いゴングが鳴り、『地下闘技場』の第3試合が始まった。
「行けー! パンチパーマ! 今日も“闘士”を殺せ!」
「俺は黒髪の癖っ毛に賭けたぜ! 頑張れよー!」
「二人共、武器はないんだよな! やっぱり、体格差で癖っ毛が不利かぁ!?」
リングを囲む観客たちが興奮の面持ちでそれぞれに叫ぶ。
雨瀬は白のTシャツに色落ちしたジーンズを履き、裸足で試合に臨んだ。
貝塚はタンクトップに膝丈のハーフパンツ、足元はワークブーツを履いている。
雨瀬を見下ろして、貝塚が嘲笑した。
「おいおい。お前みたいなヒョロいのが“闘士”やて? 早死にしたいんか?」
貝塚は関西弁で言うと、両手の拳を勢いよくぶつけた。
ゴッゴッという硬質な音が雨瀬の耳に届く。
「俺はなぁ。今まで『地下闘技場』で武器を使たことはないねん。この拳ひとつで相手を殺せるからな。お前も、その可愛いツラをぐちゃぐちゃにして殺したるわ!」
そう言い放つや否や、貝塚はリングのマットを蹴って突進した。
ゴオッという轟音と共に貝塚が右拳のパンチを繰り出し、雨瀬が体を捻って避ける。
その反動を利用して、雨瀬は裸足の右脚でハイキックを入れた。
雨瀬の鋭いハイキックが貝塚の眉間に決まり、観客たちが大きな歓声をあげる。
「……っ!」
「ハハハッ! 今のはハエが止まったんかと思たわ! そんなん効かへんで!」
しかし、貝塚は僅かもよろめくことなく、犬歯を剥き出して笑った。
雨瀬は後ずさって貝塚から離れ、コーナーポストを背にして立つ。
低い姿勢で貝塚を見据えたまま、雨瀬が言った。
「……あなたの額には鉄板が入っていますね。さっき聞こえた硬い音から、おそらく両拳の皮膚の下にも。それで『武器なし』と申請するのは、反則じゃないですか?」
「アホか!! これは地上のお綺麗なスポーツやない!! 『地下闘技場』の試合やで!! 観客も主催者側もルールなんて関係あらへん!! 求めとるんは“金”と“死”のみや!!!」
貝塚は大口を開けて咆哮すると、再び雨瀬に向かって突進した。
「オラオラァ!! フェンスに囲まれたリングじゃ、どこにも逃げ場はあらへんでぇ!!」
「…………」
雨瀬は貝塚をきつく睨み、くるりと踵を返して走り出した。
そのままコーナーポストに足をかけ、宙を一回転して貝塚の頭上を飛び越える。
観客に紛れて潜んでいた塩田と最上が「あれは……!」と目を瞠り、鷹村が「戦闘訓練で童子さんがやった技だな」とニヤリと口角を上げた。
「こ、小賢しい真似をしよって……!!」
雨瀬の動きに虚を突かれた貝塚が急いで振り返る。
その喉仏を、空を滑った強烈が蹴りが捉えた。
「……がっ……はぁっ……!!!!!!」
口から泡を吹き出した貝塚が、青いマットに崩れ落ちた──その時。
「全員、動くな!!! インクルシオや!!!」
熱狂に包まれた『地下闘技場』の会場に、腰に差し込んだサバイバルナイフを引き抜いた疋田の大きな声が響いた。
雨瀬はすかさず気絶した貝塚に覆い被さって四肢を押さえる。
童子が素早くリングに上がり、「雨瀬。ようやった」と側に駆け寄った。
突然のインクルシオ対策官の出現に、『地下闘技場』は悲鳴と怒号が飛び交う。
雨瀬は騒乱の音の中で、ほっと小さく息をついた。
その後、“特別編成チーム”の対策官たちの手によって、貝塚門人を始め『地下闘技場』の“闘士”、スタッフ、観客が次々と拘束された。
時を同じくして、北班の対策官が『ノビリス・モルス』のオーナーである青年実業家のマンションに踏み込み、身柄と関係資料を押さえた。
また、雨瀬が控え室で会話をした『仮面の“闘士”』の足取りを追ったが、店の周辺の防犯カメラに姿は映っておらず、その行方は杳として知れなかった。