03・心情と地下闘技場
午後3時。東京都月白区。
インクルシオ東京本部の南班チーフである大貫武士は、5階の執務室で3つの湯呑みに番茶を注いだ。
室内のソファセットには、南班に所属する特別対策官の童子将也と、インクルシオ大阪支部からやってきた特別対策官の疋田進之介が座っている。
童子の案内で東京本部の上層部に挨拶回りをした疋田は、最後に大貫の執務室を訪れた。
湯気の立つ番茶を差し出して大貫が言う。
「ささ。粗茶で申し訳ないが飲んでくれ。出張捜査の話は那智本部長から聞いているよ。さっき、小鳥支部長からも『よろしく』と電話をいただいた」
「ありがとうございます。今回の出張捜査は3日間だけですけど、こうして東京本部のみなさんに会えて嬉しいです。それに、個人的には将也の様子が気になっとったので、顔を見ることができて安心しました」
そう言って、疋田は番茶を一口啜った。
疋田の隣に座る童子が視線を上げ、大阪支部の先輩対策官を見やる。
鼻にそばかすを散らした柔和な容貌が、童子を見返して言った。
「鳴神冬真が『キルクルス』の一員やったという件は、俺も驚いた。まさか、将也が“期限付きの異動”で東京に来とる時に、こんなことが発覚するとはな。新旧のインクルシオNo.1同士の、皮肉な巡り合わせやな」
疋田の言葉を聞いた大貫が反応する。
「疋田君は、童子の異動が“期限付き”だと知っているのか」
「はい。俺は、小鳥支部長と将也本人から聞いていました」
疋田がうなずき、童子が湯呑みをテーブルに置いた。
「俺の異動の条件は極秘扱いでしたけど、進之介さんにはほんまのことを話しました。進之介さんは強い人やけど、大阪支部は特別対策官一人やと負担が大きいので……」
「ほんまやでー。毎日毎日、凶悪な反人間組織の捜査やら摘発やらでヘトヘトやわー。将也、早よ帰ってきて俺を楽にしてくれやー」
疋田がおどけて言い、童子が「すんません」と頭を下げる。
大貫が「大阪は、東京に次いで反人間組織が多いからなぁ」と息をついた。
疋田は笑顔を引っ込めると、「まぁ、こっちのことはええんですけどね」とふと声のトーンを落として言った。
「俺が心配なんは将也の方です。鳴神冬真の件でインクルシオNo.1としての責任を負い過ぎとるんとちゃうかって。今回、俺が東京に来たんは、こいつにあまり無理をすんなって伝える為でもあります」
「……進之介さん……」
童子が小さく呟き、疋田は「こんなん言うんは、ガラやないけどな」と照れ臭そうに頭を掻く。
大貫が「……童子。いい先輩を持ったな」と目を細めて微笑んだ。
疋田は顎を上げ、まっすぐな眼差しで言った。
「たとえ一年間という期限付きであっても、将也は東京本部に一生懸命に尽くすと思います。鳴神冬真が敵に回ったんは大きな脅威やけど、こいつは身を盾にしてでもインクルシオと人間社会を守る覚悟のはずです。せやから、どうか将也の十分なバックアップをよろしくお願いします」
午後3時半。
大貫の執務室を出た童子と疋田は、1階のエントランスで「童子班」の高校生たちと合流した。
そこでトレーニング棟での顛末を聞き、二人の特別対策官は眉尻を下げた。
「そんなことがあったんか」
「せっかく小夏と一緒におってくれたのに、嫌な思いをさせてごめんな」
疋田が謝罪し、鷹村哲が慌てて手を振る。
「いえいえ。俺らは全然気にしていません。だけど、鈴守さんがどこかに行ってしまって……」
鷹村の隣に立つ塩田渉、最上七葉、雨瀬眞白が心配そうな表情を浮かべる。
疋田は「ええねん。ええねん」と笑顔を見せた。
「しばらく一人になりたいんやろう。スマホで連絡はできるから大丈夫やで」
「……あの。疋田さん。鈴守ちゃんは、童子さんにかなり憧れてるみたいですけど……」
塩田が訊ねると、疋田は「ああ。実はそうやねんなぁ」と腕を組んだ。
「ちょっと話をするとな。小夏は、もともとは将也の実家の近所に住んどった子やねん。将也が高校1年生でインクルシオ対策官になってから、ずっとこいつのファンでな。大阪支部の前で“出待ち”しとったこともあった。そんで、将也を追いかけるように小夏もインクルシオの訓練施設に入ってな。訓練生165人中トップという成績で、今年の4月に大阪支部に採用されたんや」
疋田の説明に、塩田が「トップ! すげぇ!」と驚嘆し、最上が「どおりで強いわけだわ」と納得する。
午後の光が差し込むエントランスで、疋田は話を続けた。
「小夏は大阪支部に配属が決まって、めっちゃ喜んどった。せやけど、将也は東京本部に異動になってしもてな。小夏は3月の終わりに大阪支部に挨拶に来た時に、それを知らされたんや」
「……それは辛いな」
鷹村が低く言い、雨瀬が癖のついた白髪を揺らしてうつむく。
童子は前を向いたまま、雨瀬の背中をポンと叩いた。
疋田は小さく息を吐いて言った。
「今回の出張捜査もな。ほんまは俺一人で来る予定やったけど、小夏が『どうしても同行したい』て小鳥支部長に頼み込んだんや。それだけ将也に会いたかったんやろう。せやから、小夏が雨瀬君に言うたことはあかんけど、あいつの心情を汲んで許したってくれるか?」
「も、もちろんです」
疋田が窺うように訊き、雨瀬が顔を上げて答える。
疋田は「ありがとうな」と礼を言うと、腕時計を見やった。
「ほな、そろそろ小夏に連絡を取ろか。遠くには行ってへんはずやで」
東京都消炭区。
オフィスビルの立ち並ぶ通りの一角にある洋館レストラン『ノビリス・モルス』は、創作料理の名店である。
店舗は3階建てで、ブルーを基調としたアンティーク風の内装の店内には、心地のいいクラシック音楽が流れている。
午後7時を回った時刻、一人の男が店の前に立ち、優美な曲線を描いたドアノブに手を掛けた。
白のマスクにキャップを被った男は、Tシャツにジーンズ姿で店内に入る。
すると、蝶ネクタイをしたウェイターが歩み寄り、少し言葉を交わした後、男と共に絨毯の上を歩き出した。
男とウェイターはエレベーターに乗り、乳白色のボタンを押す。
エレベーターは音もなく沈み、間もなく、乾いた音を鳴らして停止した。
「行ってらっしゃいませ」
エレベーターの扉が開いてウェイターが男を送り出す。
男が足を踏み出すと、ひんやりとした薄暗がりの空間の中に、背の高いフェンスに囲まれたリングが浮かび上がった。
「なぁなぁ。お前もこの『地下闘技場』の“闘士”?」
リングの脇にある『控え室』と表示された小部屋に入った男に、タンクトップを着た筋骨隆々の大男が話しかけた。
「俺は『地下闘技場』に初めて出場するんだけどよ。どんな感じ? 稼げる?」
「──…………」
男は黙ったまま肩に掛けたデイパックをテーブルに置く。
タンクトップの大男は「武器はあり? ルールは?」と続けざまに質問し、男は僅かに眉根を寄せて口を開いた。
「何も知らないで来たのか。『地下闘技場』の勝負は武器ありだ。相手がギブアップするか、気絶とかで戦闘不能になるか、あるいは死んだら勝ちだ。観客は対戦者同士を見て金を賭け、勝った“闘士”には主催者側から賞金が入る」
男は話しながらキャップを外し、デイパックの中から黒色の仮面を取り出した。
仮面は鼻の下まで覆うデザインで、装着すれば人相はわからない。
タンクトップの大男が顔色を変えて言った。
「え? 死? そ、そんなの滅多にないよな?」
「…………」
「…………ちょ、ちょっとトイレに行ってくる。説明ありがとな」
タンクトップの大男は自分の荷物を持つと、足早に控え室から出て行った。
パタンと閉まったドアに、男はため息を吐く。
「それでビビるなら、こんな所に来るなよ」
そう言うと、男──反人間組織『キルクルス』のメンバーの半井蛍は、徐にマスクを外した。




