01・新学期と出張
午前1時。大阪府大阪市内。
広い敷地に建つ日本家屋の一角で、土足で踏み込む複数の足音が響いた。
「インクルシオ大阪支部や! おどれら『恐呂血組』を摘発する! 死にたなかったら大人しくせぇ!」
大蛇の掛け軸が飾られた床の間の襖を、黒のツナギ服を纏った男たちが一斉に開く。
酒を片手に花札遊びに耽っていた恐呂血組の組員が目を剥いた。
「なんやワレェ! 俺らは人間の組織やぞ! グラウカの反人間組織と間違うとるんとちゃうか!」
「やかましわ! おどれらは重犯罪者のグラウカを囲っとるやろうが! そいつを使てミナミの『地下闘技場』で荒稼ぎしとんのはわかっとるんやぞ!」
「……!」
インクルシオ対策官の鋭い怒声に、畳に片膝を立てた組員が言葉に詰まる。
部屋の一番奥で金色の座布団に座った若頭に、一人の対策官が近付いた。
「あんたが恐呂血組の若頭さんやな。グラウカの貝塚門人はどこや?」
「…………」
「手荒な真似はしたないねん。あんたも、脳下垂体を貫かれて死ぬんは嫌やろ?」
鼻にそばかすを散らした柔和な容貌の対策官が静かな声で言う。
頭髪に剃り込みを入れた若頭とそばかすの対策官は暫し睨み合い、やがて、二匹の蛇の刺青を入れた喉元がゆっくりと動いた。
「貝塚はもう大阪にはおらへん。もっと稼ぎたい言うて、東京に行きよったわ」
9月1日。東京都木賊区。
『厚生省特殊外郭機関インクルシオ』東京本部の南班に所属する「童子班」の高校生たちは、木賊第一高校の新学期を迎えた。
数日前に反人間組織『フロル』の拠点に突入し、反人間組織『キルクルス』のメンバーと対峙した4人は、久しぶりの制服に身を包んで朝の校門をくぐった。
「藤丸! 湯本! お前ら病み上がりなんだから、あまり無理すんなよ!」
「うっせ」
昇降口に向かう途中で、同じバスに乗っていた東班の藤丸遼と湯本広大に、塩田渉が声をかける。
藤丸と湯本は2ヶ月ほど前に反人間組織『マグナ・イラ』との交戦で怪我を負ったが、現在は完治しており、すでに東班の任務に復帰していた。
朝の光が照らすリノリウムの廊下は、多くの生徒たちで賑わっている。
「童子班」の4人が1年A組の引き戸を開けると、明るく騒めく教室内で文庫本を読んでいる生徒が目に入った。
「おーす! 半井! 久しぶりー!」
窓際の席にひっそりと座る生徒──半井蛍に、塩田が大きく手を振る。
「…………」
半井は出入り口に立つインクルシオ対策官たちを横目で一瞥して、すぐに文庫本に視線を戻した。
そんな半井の素っ気のない態度に寸分も落胆することなく、塩田は「今日も暑いなー!」と言って自分の席に学生鞄を置く。
「ああいう塩田のメンタルの強さは、見習うべきだな」
「単に厚かましいだけじゃない?」
鷹村哲が苦笑し、最上七葉が肩を上下した。
雨瀬眞白は「塩田君の性格がうらやましい」と小声で漏らす。
その後、始業式とホームルームが行われ、木賊第一高校の生徒たちは午前中で下校となった。
午後8時。東京都月白区。
インクルシオ東京本部の隣に建つインクルシオ寮の食堂で、南班に所属する特別対策官の童子将也は緑茶を一口飲んだ。
「今日から新学期やな。無事に迎えられて安心したわ」
「本当ですよー! これも童子さんのおかげっス!」
Tシャツにハーフパンツ姿の塩田が言い、食後のドリンクを飲んでいた鷹村、最上、雨瀬が深くうなずく。
──この日の前日。「童子班」の高校生たちは、童子の部屋に集まって“夏休みの宿題”を一気に片付けた。
夏休み期間中はインクルシオ対策官としての任務やトレーニングに忙殺され、4人がようやく宿題に手をつけたのは非番の最終日だった。
山積みの問題集とレポートに取り組む高校生たちを童子も手伝い、全ての宿題を終えたのは深夜0時を回った頃だった。
「はー。昨日は大変だったけど、これで肩の荷が下りたなー」
「そうだな」
塩田がアイスカフェラテを飲んで息をつき、鷹村が梅昆布茶を啜る。
最上と雨瀬も安堵の表情を浮かべた。
「そーだ。この後、部屋でゲーム大会しねぇ? みんなでお菓子でも食べながらさぁー」
うきうきと提案した塩田に、鷹村が「たまにはいいな」と乗り気になる。
最上が「じゃあ、簡単なクッキーでも焼こうかしら」と笑顔で返し、雨瀬は「ゲームは下手だけど、僕もやりたい」と小さく言った。
すると、童子が空になった湯呑みをテーブルに置いた。
「すまん。俺は、この後はやることがあるねん。ゲームはまた今度にするわ」
「えー!」
そう言って椅子から立ち上がった童子を、塩田が残念そうに見上げる。
童子は塩田の頭を宥めるようにポンと叩くと、「お前らで楽しんでや。あまり遅うならんようにな」と言って、対策官でごった返す食堂を後にした。
虎柄のTシャツの背中を見送った塩田がため息を吐く。
「ちぇー。童子さん、最近はメシの後にどっかに行っちゃうことが多いよなー」
「きっと俺らの知らない仕事があるんだろう」
鷹村が言い、最上が「そうね」とやや寂しげに納得する。
「それはちょっと違うな」
「わっ!!!」
そこに急に声がかけられ、高校生たちは驚いて椅子から飛び上がった。
後ろを振り向くと、北班に所属する特別対策官の時任直輝と、同じく北班の市来匡がトレーを持って立っていた。
「時任さん! 市来さん! お疲れ様です!」
「おう。お前らもお疲れさん。ここに座ってもいいか?」
私服姿の時任と市来は、高校生の新人対策官たちと同じテーブルに腰を下ろす。
山盛りのカツカレーと鶏の唐揚げに「いただきます」と手を合わせた時任に、鷹村が訊いた。
「時任さん。違うと言うのは……」
「童子はな。毎日遅くまで、一人でトレーニングをしてるんだ」
「えっ!」
時任の言葉に高校生たちが目を見開く。
市来がアボカドサラダにドレッシングをかけて言った。
「鳴神さんの件があってから、童子さんは空き時間や任務後にトレーニング棟に行ってるみたいだよ。何回か見掛けたことがある」
「……それ、俺らは知らなかったです」
鷹村が低く呟く。
時任はスパイスの効いたカツカレーをスプーンで掬った。
「そりゃあ、お前らに言ったら『俺らも!』ってなるからな。お前らには学校があるし、普段の任務や非番の日のトレーニング以外に無理をさせたくないんだろう」
「そんな気を遣わなくてもいいのに……! なぁ、今からみんなで童子さんのところに行こうぜ!」
塩田が高校生3人を見やって声をあげる。
雨瀬が目を伏せて口を開いた。
「僕らが行ったら、童子さんが自分のトレーニングに集中できなくなる。僕らは僕らで別にトレーニングをしよう。……『キルクルス』に対抗できる力をつける為に」
カツカレーを頬張った時任が「その通りだ」と微笑む。
鷹村が空の皿の乗ったトレーを持った。
「よし。ゲームは次の機会だな。早速、外で走り込みをしてくるか」
塩田と最上が「俺も!」「私も!」と賛同し、雨瀬が「僕も行く」と続く。
高校生の新人対策官たちは、それぞれに気合の入った表情でテーブルを立った。
午後9時。
インクルシオ東京本部の7階にある執務室の電話が鳴り、本部長の那智明は手を伸ばして受話器を取った。
電話は大阪支部の支部長の小鳥大徳からで、その内容は『大阪支部の対策官2名を出張捜査で東京に派遣する』というものであった。




