03・“A”と記者会見
午前8時。東京都天区。
閑静な住宅街に建つ『健康フード・エム』は、健康食品を製造販売する有限会社である。
外壁を赤レンガが覆った自社ビルは4階建てで、1階に店舗、2・3階に事務所、4階に社長室がある。
革張りのソファセットが置かれた社長室で、『健康フード・エム』の代表の桃木田昂明は、スマホを片手に舌打ちをした。
「なんだよ。“ハッピーロード”の占い師が、ずっと電話に出ねぇぞ」
ソファに腰掛けた社員の及川修吾が顔を上げる。
「そうなんですか。まさか、“A”の売上金を持って逃げたとか……はないか。まだ、売り始めたばかりですしね。大方、女の所にでも行ってるんじゃないですか?」
「フン。雇われの売人の癖に、定時連絡もできないとは。使えねぇ奴だ」
「後で、俺が連絡しておきますよ。他の売人の方はどうでしたか?」
及川が読んでいた新聞紙をテーブルに置き、桃木田はワイシャツの胸ポケットから煙草を取り出した。
「まぁまぁだな。数は多くはないが、着実にばら撒いている。これから、続々と“成果”が出てくるのが楽しみだ」
そう言って、桃木田はケースから取り出した煙草を口に挟むと、ニタリと双眸を歪めた。
同刻。東京都月白区。
インクルシオ東京本部の1階の会議室で、南班の捜査会議が開かれた。
南班チーフの大貫武士が、演台に手をついて口を開く。
「昨夜、天区にある商店街“ハッピーロード”で、『占いの館』に勤務する男を拘束した。この男は、“A”と呼ばれる『アンゲルス』入りのクスリを売っており、一昨日に起きた女性の急死事件に関与していることがわかった。男の供述では、売人は他にもいるらしいが、横の繋がりはなく詳細は不明。そして、“A”の元締めは、反人間組織『フロル』ということだ」
大貫の話を聞きながら、会議室に集まった対策官たちが資料に目を落とす。
黒のツナギ服を纏った「童子班」の5人は、前から2列目の長机に座っていた。
大貫は説明を続けた。
「反人間組織『フロル』のリーダーは、桃木田昂明。組織のNo.2に及川修吾がいる。桃木田は31歳、及川は27歳のグラウカだ。『フロル』の構成員は18人前後で、拠点はわかっていない。昨夜に拘束した男を使って『フロル』を捜査する手もあるが、状況が切迫している為に、これは断念せざるを得ない」
大貫の言葉に、塩田渉が「え? なんで?」と声を漏らす。
塩田の隣に座る特別対策官の童子将也が、小声で答えた。
「『占いの館』の男の供述で、他にも売人がおることがわかった。つまり、今もどこかで“A”は売られとるんや。せやから、インクルシオとしては第二、第三の被害を防ぐ為に、この“A”の情報をすぐに世間に出さなならん。“A”の情報が表に出てしもたら、『フロル』側は売人が捕まったと知って、一切の接触を断つやろうけどな」
「……あ。そっか」
塩田が合点のいった顔をし、鷹村哲が険しい表情で腕を組む。
最上七葉が「この状況なら、仕方がないわ」と低く呟き、雨瀬眞白が「うん」とうなずいた。
大貫は目の前にいる50人近い対策官を見渡して言った。
「この後、那智本部長が“A”について緊急の記者会見を開く。クスリの情報が大々的に報道されれば、被害者の増加は食い止められるかもしれない。だが、我々の任務は、“A”の元締めである『フロル』の壊滅だ。一刻も早く奴らを見つけ出せるよう、捜査に尽力してくれ」
「──はい!」
広々とした会議室に、対策官たちの声が響く。
ほどなくして、南班の捜査会議は散会となった。
「おーい! お前たちー!」
会議室から通路に出た「童子班」の面々は、背中にかかった声に振り向いた。
南班に所属するベテラン対策官の薮内士郎が、足を止めた5人の側に走り寄る。
薮内の後ろには、同じく南班の服部大和と、城野高之の姿があった。
服部と城野は共に27歳の同期で、今年で配属7年目となる対策官である。
また、二人の新人時代は、薮内が指導担当についていた。
「童子班」の高校生たちを前にした薮内は、満面の笑顔で言った。
「聞いたぞ! クスリの売人を拘束したのは、最上だってな! よくやった!」
「は、はい。ありがとうございます」
薮内に大声で褒められた最上が、戸惑いながら礼を言う。
身長188センチ、体重99キロの大柄な体躯の服部が、穏やかに微笑んだ。
「“A”の元締めの反人間組織が判明したのは、本当に大きいよ。お手柄だな、最上」
「いや〜。4月に配属されてからこっち、「童子班」の新人たちはよく活躍してるよな。まだ高校生なのに、大したもんだよ」
やや小柄で細身の城野が、長めの前髪を人差し指で払う。
薮内が「本当だな。お前たちの新人の頃より、ずっと優秀だよ」といたずらっぽく言い、服部と城野が「ひどいッスよ、薮内さん〜!」と声を揃えて抗議した。
高校生の新人対策官たちが笑みを浮かべ、傍に立った童子が言う。
「占い師の男の拘束は、“ハッピーロード”の情報をくれた影下さんのおかげです。せやけど、最上もよう頑張ってくれました。後は、大貫チーフの言うてた通り、『フロル』の壊滅を急がなあかんですね」
「ああ。そうだな。捜査は一歩進んだが、逆に言えばまだそれだけだ。引き続き、気を抜かずにやっていこう」
薮内が返し、服部と城野がうなずく。
南班の対策官たちは表情を引き締めて、朝の光が差し込む通路を歩き出した。
午前8時半。
インクルシオ東京本部の1階にある大会議室で、グレーのスーツに身を包んだ本部長の那智明は、緊急の記者会見に臨んだ。
室内には多くのマスコミが集まり、数台のカメラが那智の姿を映し出す。
那智は精悍な顔をまっすぐに前に向け、低く通った声で言った。
「報道各社の皆様。本日は早朝にお集まり頂き、誠にありがとうございます。早速ですが、一昨日に天区で起きた女性の急死事件は、“A”というクスリが原因であることが判明しました。“A”には、グラウカ特有のホルモンである『アンゲルス』が混入されています。“A”は、クスリの売人により違法ドラッグと偽って売られており、その元締めは反人間組織です。現在、インクルシオでは早急に捜査を進めていますが、もし、“A”を買われた方がいれば、命を落とす危険性がありますので服用をしないで下さい。“A”は濃いピンク色をした楕円形の錠剤です。繰り返しますが、心当たりのある方は、絶対に服用をしないで下さい」
“A”についての情報を言い終わると、那智は浅く息をついた。
それと同時に、カメラのフラッシュが忙しなくたかれる。
やがて、インクルシオが公表した“A”のニュースは、テレビやインターネットを通じて、瞬く間に世間に広がった。
午後6時。東京都不言区。
閉鎖済みの児童養護施設「むささび園」の地下にある物置部屋で、反人間組織『キルクルス』のリーダーの乙黒阿鼻は、手にしたスマホを眺めた。
乙黒の前には、テーブル代わりの木箱に置いた流しそうめん器を囲む、『キルクルス』のメンバーの5人がいる。
黒のタンクトップにダメージジーンズを履いた獅戸安悟が、麺つゆのボトルを掲げて言った。
「乙黒ー! 何、スマホ見てんだよ! 流しそうめんをやりたいって言ったのは、お前だろ! 早くこっち来い!」
ワイシャツの袖をまくった遊ノ木秀臣が人数分の割り箸を配り、艶のあるロングヘアを一つに結んだ茅入姫己が「流しそうめん器って、プールのウォータースライダーみたいだね」とうきうきと眺める。
半井蛍は、ペットボトルの麦茶を6つの紙コップに注いだ。
乙黒はスマホの裏面に貼ったプリントシールを愛おしげに撫でて、腰掛けていた冷蔵庫から降りた。
「でもさー。ここじゃあ、ガスが通ってなくてそうめんを茹でられないから、結局、スーパーで買ってきた『茹でうどん』で代用でしょ。何だか、興が削がれるよ」
「贅沢言うな。食えりゃあ、何だっていいんだよ。ほら、そこに座れ」
獅戸がレジャーシートを敷いた床を指差し、乙黒が胡座をかいて座る。
おろし生姜のチューブを持った遊ノ木が訊いた。
「乙黒君。ずっとスマホを見ていたね。何か面白い情報でもあった?」
「うん。インクルシオの本部長さんの動画」
乙黒の返答に、獅戸が「あー。あれか」と反応した。
「どっかの反人間組織が、『アンゲルス』入りのクスリで殺人事件を起こしたんだっけ? なんか、やり方がセコイ気がするけど、人間にとっては『アンゲルス』は猛毒だからな」
そう言って、獅戸は流しそうめん器にうどんを入れる。
乙黒は向かいに座る紺色のシャツを着た人物──鳴神冬真に目をやった。
「……やっぱり、ちょっと気になる? 鳴神さん?」
色白の肌をした涼しげな容貌が、ゆっくりと乙黒に向く。
「……そうだね」
鳴神はそう答えると、静かに微笑んだ。