01・天使と毒
東京都天区。
人通りの多い商店街“ハッピーロード”の中程に建つ『占いの館』に、オレンジ色のカットソーに白のスキニージーンズを履いた女性が来店した。
アンティーク風の椅子に座った女性の目の前には、緋色のマントを羽織り、顔の上半分を覆う仮面を付けた占い師がいる。
時刻は午後5時を少し回ったところだった。
「えっとー。とりあえずー。恋愛運と金運を知りたいんですけどー」
女性はラメの入ったのネイルを施した指で、茶髪の毛先をくるくるといじる。
占い師は徐に上体を屈めると、女性を下から覗き込むように囁いた。
「……ねぇ。いいクスリがあるよ」
占い師の口から出た唐突な言葉に、女性が「はぁ?」と片眉を上げる。
「アッパー系で副作用なしの安全なクスリだよ。君は可愛いから、3万円のところを特別に1万円で売ってあげる」
そう言って、占い師はマントの裾から右手を差し出した。
大きな手のひらには、一粒の錠剤が乗っている。
占いを期待してやってきた女性は、文句を言おうとして、口を噤んだ。
毒々しいピンク色を放つその小さな物体から、どうしても目を逸らすことができなかった。
8月下旬。東京都空五倍子区。
『厚生省特殊外郭機関インクルシオ』東京本部の南班に所属する「童子班」の面々は、コインパーキングに駐車したジープに乗り込んだ。
千葉県南房総市で反人間組織『アラネア』と交戦してから一週間が経ち、5人は厳しい残暑が続く中、任務と鍛錬に勤しむ日々を送っていた。
後部座席に座った塩田渉が、黒のツナギ服のジッパーを下ろして言う。
「はー。あっついなー。もう5時を過ぎたってのに、全然気温が下がんねぇなー」
鷹村哲がブレードとサバイバルナイフの装備を外してうなずいた。
「本当だな。夏休みで一日中巡回できるのはいいけど、こう暑いとバテるな」
最上七葉が助手席からくるりと振り返る。
「あんたたち、情けないわね。しっかりと寝て食べて鍛えていれば、そう簡単にバテたりしないわよ」
塩田が「最上ちゃん、キビシイー!」と声をあげ、雨瀬眞白は額に滲んだ汗を手の甲で拭った。
運転席でエンジンキーを回した特別対策官の童子将也が、エアコンの設定温度を下げて言う。
「さてと。明日の巡回は聴区や。巡回ルートの重点箇所はどこや?」
「えーと……」
童子の質問に、高校生たちは宙に目をやって暫し思考した。
南房総での新人懇親会が終わった後、童子は勉強会で聞いた各拠点のやり方に倣い、巡回ルートの重点箇所を高校生4人に決めさせていた。
巡回ルートは、過去に反人間組織絡みの事件があった場所や、不審者情報の出た場所を特に重点的に見回る。
その他に、人通りの少ない場所・廃屋・空き物件等も重要な巡回箇所であった。
5人を乗せた黒のジープは、コインパーキングから夕暮れの公道に滑り出る。
涼しいエアコンが効いた車内で、鷹村が答えた。
「確か、2日前に聴区の本町3丁目で不審者情報が出ていました。……と言っても、下半身を露出した男性の目撃情報ですけど……」
「それは、ただの酔っ払いじゃねぇ? あの辺は居酒屋とかバーが多いし。それより、西町にある区民公園だよ。最近、ひったくり事件が多発してるらしいぜ」
「うーん。ひったくりねぇ……。それって、俺らより警察案件じゃないか?」
鷹村と塩田がそれぞれに言い、最上が短く息をついた。
「聴区と言えば、『コルニクス』でしょ。すでに壊滅したとはいえ、拠点だった製粉工場と屋内遊戯施設は見回った方がいいわ」
雨瀬が「うん」と癖のついた白髪を揺らす。
「特に、製粉工場の周辺は昼間でも人通りが殆どない。細い路地の一本一本まで注意深く見回るべきだ。あとは、長く空き状態になっている店舗とか、ひと気のないガード下とか……」
最上が「ええ。そうね」と返し、鷹村と塩田が「そうだなー」と同意した。
運転をしながら高校生たちの話を聞いていた童子が口を開いた。
「お前ら。それだけやったら、まだ十分とは言えへんな。『コルニクス』に着目したんはええけど、他の情報が足りてへん。まず、聴区では、9年前に本町4丁目のパチンコ店で、反人間組織『デウス』の刻印入りのライターが見つかっとる。12年前には、みどり台1丁目の路上で反人間組織の構成員とみられる男性が傷害事件を起こして逃走した。さらに、25年前には、北町2丁目の桜ビルで反人間組織『テネブラエ』の構成員3人が拘束され……」
童子の言葉を、塩田が慌てて遮る。
「ちょ、ちょ、ちょっと、童子さん! そんな、20年以上前の情報まで……!」
「どんなに前でも、重要な情報に変わりはあらへん。これらの残党が、今でもどこかに潜伏しとるかもしれへんからな。巡回ルートの重点箇所ていうんは、現在と過去、全ての情報を元に練らなあかんで」
鷹村が腕を組んで低く呻った。
「その通りだな……。一人前の対策官になる為には、エリアのあらゆる情報を漏らさずに頭に叩き込まないと……」
雨瀬と最上が唇を引き結び、塩田がウィンドウに顔を向けて嘆息した。
「あーあ。もっともっと、勉強しなきゃダメってことかぁ。……あっ! コンビニ! 童子さん、アイス食べたいッス!」
塩田の明るい声に、他の3人が左前方にあるコンビニエンスストアを見やる。
童子は勉強会での話を思い出して「それは……」と言いかけたが、「まぁ、ええか」と思い直し、左にウィンカーを出した。
翌日。東京都月白区。
インクルシオ東京本部の最上階にある会議室で、緊急の幹部会議が開かれた。
楕円形の会議テーブルに、インクルシオ総長の阿諏訪征一郎と本部長の那智明がつき、続いて各班のチーフが着席した。
時刻は午前8時を少し回ったところだった。
ブルーのワイシャツを着た那智が、「早速だが」と視線を上げる。
「昨夜午前0時過ぎ、天区の路上で、若い女性が通行人を次々と暴行した挙句、口から泡を吹いて死亡するという事件が起きた。先ほど入ったグラウカ研究機関『アルカ』からの報告によると、女性の遺体を司法解剖した結果、血中成分から『アンゲルス』が検出されたそうだ。女性は“人間”で、『アンゲルス』はクスリ等による経口摂取ではないかとの見解が添えられている」
「……ああ。やっぱりな。凶暴化と急死で、そうだろうと思ってたよ」
東班チーフの望月剛志が、顎を手で摩った。
北班チーフの芥澤丈一が、顔を顰めて言う。
「人間にとっちゃ、『アンゲルス』は致死性の毒だ。それを、わかっていて口に入れるクソ酔狂な奴はいねぇ。おそらく、反人間組織の仕業だろうな」
中央班チーフの津之江学が「そうでしょうね」とうなずき、西班チーフの路木怜司が「僕も、そう思います」と無表情で指に挟んだボールペンを一回転させた。
──『アンゲルス』とは、グラウカの脳下垂体から分泌されるホルモンの名称で、ラテン語で『天使』を意味する言葉である。
この『アンゲルス』の働きにより、グラウカはその超パワーと超再生能力を発揮する。
しかし、人間が『アンゲルス』を体内に取り入れた場合、脳に重篤なダメージを及ぼし、激しい興奮状態に陥った末に、30分から1時間で死に至る。
その致死率は100パーセントとされていた。
南班チーフの大貫武士が、険しい表情を浮かべる。
「天区は、南班の管轄エリアです。この若い女性が、どのような経緯で『アンゲルス』を口にするに至ったのかは不明ですが、まずはこれ以上の犠牲者が出ないように、対策官全員に捜査の徹底を命じます」
阿諏訪が「うむ」と低く言い、那智が「頼むぞ」と鋭い眼差しで返す。
ほどなくして、朝の光が照らす緊急の幹部会議は散会となった。
午後4時。東京都三鷹市。
インクルシオ東京本部の中央班に所属する特別対策官の影下一平は、チェーン店のハンバーガーショップでビーフパテを焼いていた。
影下の制服の胸元には、『佐藤一平』のネームプレートがある。
黒のフレームのだて眼鏡をかけた影下が、鉄板に並んだビーフパテをヘラで返していると、アルバイト仲間の女子大生が側にやってきた。
「佐藤さーん。聞いて下さいよー。こないだ友達とカラオケに行こうとしたらー。変な男がクスリ買わないかって言ってきてマジしつこくてー」
影下は女子大生の“クスリ”の一言にぴくりと反応した。
午前中に津之江から天区の事件に関するメールが送られてきており、その中に書かれていた『クスリ等による経口摂取』の一文が脳裏を掠める。
影下は笑顔で振り向いて訊ねた。
「へぇぇ。怖いねぇ。それは、どこでぇ?」
女子大生は業務用の冷蔵庫からトマトとレタスを出して答えた。
「天区の、“ハッピーロード”です」




