05・海辺の5人
東京都月白区。
インクルシオ東京本部から徒歩5分の場所にある立ち食いそば店で、南班チーフの大貫武士と、北班チーフの芥澤丈一はそばを啜っていた。
時刻は午後9時を少し回ったところで、店内にいる客はまばらである。
芥澤は天ぷらそばのエビ天を齧って言った。
「気が付いたら、こんな時間とはな。今日は仕事に忙殺されて、昼飯すらろくに食えなかったぜ」
たぬきそばの麺を啜った大貫が返す。
「食事の時間が不規則になると、間食が増えてしまってよくないな。ついつい最中や饅頭に手が伸びて、最近は体重がマズいことになってる」
「はっ。お前はそんな菓子ばっかり食ってるから、クソメタボになるんだよ」
「いやいや。そこまでメタボじゃないぞ。中年らしく、腹は出てるがな」
芥澤が悪態をつき、大貫は腹部を摩って笑った。
その時、大貫のスマホの着信音が鳴った。
大貫はインクルシオの黒のジャンパーのポケットからスマホを取り出し、片手で画面をタップする。
丼の淵に箸を置いた芥澤が、「何か緊急案件か?」と訊ねた。
大貫はスマホの画面に目を落として、「いや」と首を振る。
「千葉支部の支部長からのメールだよ。さっき、『アラネア』の最新情報を聞いておいたんだ」
「何だよ。気になってたのかよ」
「まぁな。うちの高校生たちが南房総に行ってるし、念の為と思ってな。奥多摩で起こった『トレデキム』襲撃の件もあるし……」
大貫が眉尻を下げて言うと、芥澤は大仰に顔を歪めた。
「クソ心配性だな。仮に何かあったとしても、今回は童子がいるから大丈夫だろ」
「まぁ、そうなんだが……。あまり童子に頼ってばかりでは、ダメだしな」
大貫はスマホをトレーの脇に置いて、壁に掛かったテレビに目をやった。
バラエティー番組の賑やかな画面を見ながら、静かに言う。
「……童子は、来年の3月には、大阪支部に戻ってしまうからな」
その細い声音に、芥澤は何も言わずにコップに入った水を飲んだ。
ほどなくして、二人はトレーを片付けて、立ち食いそば店を出た。
大貫が千葉支部の支部長から受け取った反人間組織『アラネア』の情報は、構成員がリーダーを含めて全員で68人、拠点は不明、ここ半年ほどは目立った事件は起こしていないというものだった。
また、補足情報として、組織のNo.2とNo.3の仲が悪いと書かれており、メールを見た芥澤は「クソくだらねぇな」と鼻で笑った。
午後9時半。千葉県南房総市。
美しい海に面して建つ『カリダ南房総』の庭園で、インクルシオ東京本部の南班に所属する雨瀬眞白は、半ば呆然として呟いた。
「……童子さんの異動に、期限が……」
雨瀬の前に立つ特別対策官の童子将也が、夜風の吹く東屋でうなずく。
「せや。この話は、東京本部と大阪支部の一部の人間しか知らへん」
童子の言葉に、雨瀬はふと目を開いて言った。
「あの。実は、こないだの焼肉の時に薮内さんから聞いたんですけど……。童子さんのスマホに、よく大阪支部の支部長から電話がかかってくるって……。それが、挨拶だけの内容だとは思えないって……」
雨瀬の話を聞いた童子は、苦い表情を浮かべて頭を掻く。
「そうなんか。ほんま、偶然やねんけど、薮内さんと一緒におる時にようかかってくんねん」
「それは、どういう用件の……」
「いや。挨拶の電話ていうのは、嘘やないねん。大阪支部の支部長は情に厚い人やし、俺のことを気に掛けてくれとるからな。せやけど、それだけやなくて、大阪支部の細かい捜査情報や、反人間組織の活動状況なんかを教えてくれとるんや。俺があっちに復帰した時に、少しでも動きやすいようにて」
童子が夜の海に目を向けて言い、雨瀬が「……そうだったんですか……」と小さく声を漏らした。
そのまま、二人の間に暫くの沈黙が流れる。
童子が「……そろそろ、帰ろか」と海から視線を戻した時、東屋の横の植え込みから数人の影が走り出た。
「大阪に帰ってしまうなんて、絶対にイヤです!!! 童子さん!!!」
「盗み聞きして、ごめんなさい……! でも、でも……!」
「童子さんが新人の指導担当についた理由は、何となく察していました。それに関しては、眞白が任務に尽くして信用を得ていくしかない。だけど、童子さんの異動に期限があることは予想外でした。そりゃあ、大阪支部からしたら、そう要望するのは当たり前だけど……。でも……。クソ、何だか、言うことがまとまらないな……」
突如として庭園に現れた塩田渉、最上七葉、鷹村哲が、次々と口を開く。
3人は、雨瀬と童子がエントランスから出て行くのを見て、こっそりと後をついて来ていた。
童子は膝頭に草を付けた高校生3人に言った。
「お前ら、植え込みから影が出とったで。尾行は一から勉強し直さなあかんな」
「気付いてたんスか! そして、ダメ出し! いやもう、それでいいっスから、ずっと俺らの側にいて下さい!」
塩田がやけくそ気味に叫び、童子はやや視線を下げる。
鷹村が低い声音で言った。
「童子さんの高い戦闘技術は、俺らが何年かかったって、とても学びきれるものじゃない。でも、だからこそ、指導担当期間が終わっても色々と教えて欲しいんです。……こんなの、子供じみた我儘だって、十分にわかっているけど……」
最上が睫毛を伏せて唇を噛む。
「尾行を始めとする捜査手法だって、もっと童子さんの下で勉強したいわ。一年だけでも、全然足りない。それなのに……」
淡い月明かりを背にした高校生たちは、肩を落としてうなだれた。
雨瀬が顔を上げて、まっすぐな眼差しで童子に言う。
「……僕もみんなも、童子さんがいなくなると寂しいです。こんなことを言っても童子さんを困らせるだけですが、それでも、これが一番の正直な気持ちです」
「……そうか」
童子は目の前の高校生たちを見やって、一言だけ返した。
それ以上は誰も喋ることなく、「童子班」の5人は、夜の海辺にじっと佇んだ。
午後10時。
『カリダ南房総』の宿泊ルームのソファに腰掛けた鷹村は、自動販売機で購入したペットボトルの緑茶を開けた。
爽やかな浅葱色のソファの向かいには、雨瀬が座っている。
新人懇親会に参加した対策官には、広い部屋でゆっくりと休んで欲しいという総務部の計らいで、一人につき一部屋のツインルームが用意されていた。
鷹村は緑茶を一口飲んで言った。
「……童子さんの異動の件は、驚いたな」
「……うん」
雨瀬はポットの湯で淹れたほうじ茶を手にして、返事をする。
鷹村は窓の外に広がる星空に目を向けた。
「……実を言うとさ。童子さんを見てて、時々思っていたことがあるんだ。もし、俺に兄貴がいたら、あんな感じかなって。いつだって頼りがいがあって、優しくてさ……」
「………………」
「家族がいない分、余計にそう思うのかもしれないな」
「……うん……」
雨瀬は白髪を揺らしてうなずくと、ほうじ茶の湯飲みを見つめた。
不意に喉が熱くなり、鼻の奥がつんとする。
すると、テーブルの上に置いた鷹村のスマホが鳴った。
鷹村はスマホを手に取り、着信したメッセージに目を通す。
「……石坂君からだ。今から、新人のみんなでお菓子やジュースを持ち寄って、石坂君の部屋で話さないかって。なんか、修学旅行みたいだな」
「……新人17人だと、ツインルームでも狭いかも」
「そこは、ぎゅうぎゅう詰めでわいわい話すのがいいんじゃないか? せっかく誘ってくれたんだし、気分を変える為にも行くか」
そう言って、鷹村はスマホの画面をタップして返信を打った。
雨瀬が「うん」と返してほうじ茶を飲もうとした時、遠くから悲鳴が上がった。
「──!?」
夜の静寂を切り裂く声に、二人は咄嗟にドアに振り返る。
それは、反人間組織『アラネア』の襲撃の狼煙だった。