05・闇の中
午後10時45分。東京都伽羅区。
日中の気温が下がりきらない夜の街に、複数のワークブーツが降り立った。
4月に倒産した冷凍食品会社「クール石井」から300メートルほど離れた民営駐車場で、黒のツナギ服を纏った男たちが闇に乗じて蠢く。
インクルシオ東京本部の西班に所属する特別対策官の真伏隼人は、生暖かい夜風に顔を顰めて、左腕の腕時計を見やった。
「真伏さん。あと15分で突入ですね」
同じく西班に所属する佐々木悟が、駐車場に佇む真伏に声をかける。
真伏が中心となって組んだ突入チームは7人で、オペレーターは置いていない。
佐々木は駐車場の先に目をやって言った。
「突入は慣れてるつもりですけど、なんだか緊張してきましたよ。交戦の最中にトイレに行きたくなったら、マズいなぁ」
おどけるように笑った佐々木に、真伏がそっけなく返す。
「お前たちの相手は『ノクス』だ。ただのチンピラ連中に、緊張する必要はない」
佐々木は「ですよね」と眉尻を下げると、すぐに真顔になった。
「……真伏さんの相手は、乾エイジですね。かなり手強いでしょうが、真伏さんなら、必ず奴を確保してくれると信じています」
「………………」
佐々木の真摯な言葉が夜の闇に消え、真伏は黙ったまま前を見つめた。
そして、腰に提げたブレードを、指先でひと撫でした。
午後10時50分。東京都月白区。
インクルシオ東京本部の3階にあるオフィスで、南班に所属する特別対策官の童子将也は、ノートパソコンに向かっていた。
反人間組織に関する最新情報と、各班の捜査状況等を確認し、次いで高校生の新人対策官4人の日報に目を通す。
塩田渉の日報の『その他』欄に書かれたなぞなぞに回答したところで、童子はノートパソコンから顔を上げて一息ついた。
デスクに置いた缶コーヒーを手に取り、壁に掛かった時計を見上げる。
「……童子さーん」
すると、オフィスのドアから、ひょっこりと塩田が顔を出した。
塩田の後ろには、鷹村哲、雨瀬眞白、最上七葉がいる。
ラフな私服姿の高校生たちに、童子は「どないした?」と椅子を回して訊いた。
「いやぁー。西班の突入がもうすぐだと思うと、ドキドキしてきちゃって……」
「童子さんはまだ仕事中なのに、邪魔してごめんなさい」
童子の側にやってきた塩田が頭を掻き、最上が肩を小さくして謝る。
童子は「かまへんで」と優しく言うと、手にした缶コーヒーを一口飲んだ。
「突入は、もうまもなくやな」
「ええ。無事に終わることを祈ってますけど、やっぱり心配だな……」
鷹村が呟くように言い、雨瀬がやや不安げな表情でうなずいた。
童子は穏やかな声で、高校生たちに言った。
「今回の突入は、乾エイジを捕らえる千載一遇のチャンスや。これを真伏さんが逃すはずがあらへん。きっと、大丈夫やで」
午後11時。東京都伽羅区。
冷凍食品会社「クール石井」の敷地内の倉庫に、グラウカの犯罪グループ『ノクス』のリーダーの遠田文貴と、6人の構成員が足を踏み入れた。
窓から差し込む月明かりがぼんやりと照らす倉庫は、発泡スチロールや段ボール等の資材が雑然と積まれている。
「文貴。陽介の奴、腹痛で少し遅れるってよ」
構成員の一人が、スマホに着信した伊井田陽介のメッセージを遠田に伝えた。
遠田は「そうか」と短く返事をすると、倉庫の奥の暗がりに視線を向ける。
そこには、短髪を燻んだシルバーブルーに染め、裾の長い上着を羽織った長身の男──乾エイジが立っていた。
遠田は両手をカーゴパンツのポケットに入れたままで言った。
「乾さん。依頼通りに、何人かのグラウカを誘拐してあんたに渡した。礼金の残りを貰いたい」
「ああ。とても、いい仕事をしてくれたよ。ありがとう」
乾は切れ長の目を細め、黒のパンツのポケットに右手を入れた。
その中から、薄茶色の封筒ではなく、鋭利に光る物体がちらりと覗いた──その時。
耳を擘く音を立てて倉庫の窓が割れ、入り口の扉が勢いよく開いた。
「インクルシオだ!!! そこを動くな!!!」
「──っ!?」
割れた窓と開いた扉から、インクルシオ対策官たちが飛び込んでくる。
乾が周囲に顔を巡らし、『ノクス』の構成員が驚いて体を硬直させた。
対策官の一人が黒革製の鞘からブレードを引き抜いて叫ぶ。
「大人しくしろ! 少しでも抵抗すれば、お前たちを殺す!」
「……ク、クソっ! お前ら、ボーッとすんな! こいつらを殺せ!」
遠田が大声で怒鳴り、『ノクス』の構成員たちが慌ててナイフを取り出す。
それまで静かだった倉庫内は、一気に騒然となった。
様々な資材や物が床に散乱し、辺りに大量の埃が舞い上がる。
「うわっ……!!」
双方入り乱れての交戦の最中、突入チームの一員である佐々木は、床に落ちた段ボールを踏んで足を滑らせた。
そのまま数歩後退し、発泡スチロールの山に背中から突っ込む。
「やべっ……!」
佐々木はすぐさま起き上がり、ブレードを持ち直して体勢を整えた。
──次の瞬間。
佐々木の両目が大きく見開いた。
倉庫の中央付近には真伏がおり、『ノクス』の構成員を次々と斬り倒している。
その黒の刀身のブレードは縦横無尽に宙を舞い、目にも留まらぬ速さで相手の急所を仕留めていく。
いつもなら、「さすが真伏さん!」と称賛を送っているところだが、佐々木の顔は強烈な違和感に強張った。
喉奥からせり上がるような疑問が、口をついて出る。
「……ま、真伏さん……? 乾エイジは……?」
つい5分前、錆びた鉄製の扉から突入した真伏は、脇目も振らずに倉庫の奥に向かった。
『ノクス』の7人の“露払い”は他の対策官たちの役割で、真伏はキルリストの個人最上位に載る強敵の相手をしているはず──だった。
佐々木は、眼球をゆっくりと動かした。
真伏の僅か1メートル後方の位置で、乾が鷹揚な動作でナイフについた血を払っている。
乾の足元には、突入チームの対策官5人が、すでに生気を失った顔で倒れていた。
乾は血溜まりの中の亡骸を見下ろして言った。
「……なんだ。思ったより、手応えがなくてつまらないな」
「馬鹿を言うな。俺が阻止しなかったら、危うく童子がここに来るところだった」
「え? そうなの? それはヤバいな。助かったよ」
そう言って、大仰に肩を竦めた乾に、真伏は荒くため息を吐く。
佐々木は目の前で何が起こっているのか、全く理解できずにいた。
まるで深い泥濘にはまったように全身が硬くなり、ブレードを持つ手が無意識に震える。
その様子に乾が気付き、薄い笑みを浮かべた。
「……さてと。君が最後だな」
「……!」
上着の長い裾を翻して、長身の男がゆらりと近付いてくる。
佐々木は咄嗟に真伏を見た。
それは、助けを懇願する眼差しだった。
真伏は佐々木を見返したが、同じワークブーツを履いた足は、薄暗い闇の中から動くことはなかった。
午後11時30分。東京都月白区。
インクルシオ東京本部に凶報が入った。
伽羅区の冷凍食品会社「クール石井」に突入した西班の対策官6人が殉職し、真伏は怪我こそなかったものの、既のところで乾を取り逃がした。
また、『ノクス』はリーダーの遠田を含めた構成員全員が死亡した。
これにより、誘拐されたグラウカの行方と乾の目的は、依然不明のままとなった。
「………………」
3階にあるオフィスで、緊急連絡を受け取った童子が沈黙する。
童子の周りに集まって結果を待っていた「童子班」の高校生たちは、一様に言葉を失った。
窓の外には、夜空が広がっている。
先ほどまで煌々と光っていた月は、いつのまにか、濃い暗雲に覆い隠されていた。