03・二つの情報
午前8時。東京都月白区。
インクルシオ東京本部の2階にある女性用のロッカールームで、東班に所属する特別対策官の芦花詩織は、脱いだフレンチスリーブのブラウスをハンガーに掛けた。
ロッカーの中から黒のツナギ服を取り出して、すらりと伸びた足を通す。
ジッパーを指でつまんで上げながら、芦花は言った。
「七葉ちゃん。今朝早くに、熨斗目区の路上で、またグラウカ誘拐事件が起きたそうよ。このタイミングだと、おそらく『ノクス』の仕業ね」
南班に所属する最上七葉が、反対側のロッカーにいる芦花を振り返る。
「そうなんですか。これでもう5件目ですね。乙女区の捜査の方は、どうですか?」
「ええ。現場周辺の聞き込みで、複数の目撃情報が出ているわ。防犯カメラの件といい、『ノクス』の犯行はけっこう杜撰ね。乾エイジは、『ノクス』をある程度利用したら、さっさと切る算段でいるかもしれないわ」
「……なら、早く捕まえないと……」
芦花の言葉に、最上が黒革製のベルトを腰に巻く手を止めて言った。
芦花は「そうね」と返して、ロッカーの扉を閉める。
「今回、最も重要なのは、『ノクス』の構成員の確保よ。彼らが乾と繋がっているうちに、何としてでも見つけ出して、情報を吐かせなければならないわ」
長い睫毛を瞬かせて言った芦花に、最上は唇を結んでうなずいた。
男女それぞれのロッカールームでツナギ服に着替え、武器の装備を済ませた「童子班」の5人は、通路で合流した後、階段を使って1階に降りた。
エントランスに向かう途中で、塩田渉がふと視線を上げる。
「あ! 穂刈さんだ! おはようございまーす!」
塩田が手を振った先には、『カフェスペース・憩』の穂刈潤の姿があった。
店のエプロンをつけた穂刈が、食材の入った段ボールを抱えてこちらを向く。
「みなさん、おはようございます!」
明るい笑顔を浮かべた穂刈に、特別対策官の童子将也が「おはようございます」と挨拶を返し、鷹村哲、雨瀬眞白、最上が「おはようございます!」と続く。
塩田が口の開いた段ボールの中を覗き込んだ。
「これって、ズッキーニっすか?」
「そうだよー。今日のランチの夏野菜カレーの具材なんだ。こっちのアスパラガスとオクラもね」
「わー。旨そー。もう腹が減ってきた」
塩田が腹部を摩り、鷹村が「さっき朝メシ食ったばかりだろ」と突っ込む。
穂刈は柔和に微笑んで、目の前の対策官たちに言った。
「今日も暑くなりそうです。体調に気をつけて、任務頑張って下さいね」
午後2時。東京都空五倍子区。
ブレードとサバイバルナイフを腰に提げた塩田と最上は、ペアを組んでアーケード商店街を巡回していた。
童子、鷹村、雨瀬は、商店街近くにある住宅街を回っている。
多くの人で賑わう通りを歩きながら、塩田が顔を手で扇いで言った。
「あー。あっついよー。最上ちゃん、そこのコンビニでアイス買おうよー」
「巡回中は、飲み物以外はダメよ。サボってると思われるわ」
「えー。童子さんは、隠れてこっそり食べるならいいって言ってたよ。こないだ童子さんと雨瀬と3人で巡回した時は、コンビニの裏でアイス食べたし」
「まったく。童子さんは、甘いんだから……」
塩田の話に、最上がショートヘアの黒髪を耳にかけて息を吐く。
すると、指を耳にかけたまま、最上の動きがピタリと止まった。
「……ん? 最上ちゃん、どうかした?」
塩田が首を傾げて訊くと、最上は人々が往来する通りから視線を離さずに言った。
「……塩田。童子さんに、緊急連絡を入れて。そこのパチンコ店から、『ノクス』の構成員が出てきたわ」
「!」
最上が硬い声音で言い、塩田が急いでパチンコ店の方を見やる。
色とりどりの電飾が瞬く店の軒先には、スキンヘッドの大柄な男──『ノクス』の構成員の一人である伊井田陽介が立っていた。
伊井田は煙草を口に咥え、ライターで火をつけて一服する。
二人はチェーン店のカフェの陰に身を潜め、塩田がツナギ服の尻ポケットからスマホを取り出してタップした。
緊急連絡を送って10秒もしないうちに、童子からの返信が届く。
塩田はスマホの画面に素早く目を走らせて言った。
「……最上ちゃん。今から伊井田を追うぞ。そんで、ここに奴を誘導するんだ」
塩田が翳したスマホを見た最上が、「了解」と短く返事をする。
ほどなくして、伊井田が煙草の吸い殻を足元に落としたのを合図に、最上は前方に、塩田は後方に向いてアスファルトを蹴った。
商店街の通りに出た最上は、「伊井田!」と鋭く叫んだ。
顔を隠す為のマスクをつけようとしていた伊井田が、インクルシオ対策官の姿に驚いて、慌てて走り出す。
その進行方向に路地裏を回り込んできた塩田が出現し、「逃さねぇぞ!」と両手を広げて立ちはだかった。
「──クソッ!!」
二人の対策官に挟まれた伊井田は、周囲を見回して一番近くの路地に逃げ込む。
塩田と最上もすぐさま同じ路地に走り込み、「待て!」と伊井田を追った。
車一台分の幅の路地は、奥が行き止まりとなっており、伊井田は「チッ!」と舌打ちをすると、手前にある売り物件のプレートがかかった雑居ビルに飛び込んだ。
古びた雑居ビルは4階建てで、中はがらんとしていて誰もいない。
薄暗い階段を駆け上がった伊井田は、4階にあるオフィスのドアを開けた。
事務机も棚もないオフィスは、ライトグレーのカーペットが剥がれた部分から、電気の配線が剥き出しの状態になっている。
「……フン。あの二人、かなり若い対策官だった。ここまで追ってきたら、俺様が返り討ちにしてやる」
そう独りごちると、伊井田はジーンズのポケットに入れた折畳みナイフに手をかけた。
──その時、オフィスのドアが派手な音を立てて蹴破られた。
「っ!!」
伊井田がビクリと肩を揺らして顔を上げる。
そこに、インクルシオの黒のツナギ服を纏い、両腿に2本のサバイバルナイフを装備した童子が現れた。
「……お、お前は……!!!」
「『ノクス』の伊井田陽介やな。乾エイジはどこや?」
童子はオフィスに足を踏み入れると、ずかずかと歩いて伊井田に近付く。
インクルシオNo.1の特別対策官を目の当たりにして、伊井田は激しく動揺したが、すぐに歯を剥き出して威嚇した。
「だ、誰が教えるかよ!!! テ、テメエなんざ、グラウカの俺様が、軽く捻り殺して……ウボォッ!!!」
「すまんが、悠長にやりとりしとる暇はないねん」
伊井田が両目を限界まで見開き、童子がその耳元で低く言う。
童子はすでに右脚からサバイバルナイフを抜いており、インクルシオの刻印の入った黒の刃は、伊井田の鳩尾に深々と突き刺さっていた。
「ぐ……うおおおぉぉおおぉぉ……っ!!!!!」
オフィスの宙に、白い蒸気がもうもうと上がる。
童子は「……歯ぁ食いしばれ」と静かに言うと、伊井田の腹部に差し込んだサバイバルナイフをぐるりと一回転させた。
「あ、あああぁぁああぁぁぁあああぁぁぁーーーーっ!!!!!!」
「これ以上苦しみたくなければ、情報を吐けや。乾はどこにおる? お前らがグラウカを誘拐する目的はなんや?」
伊井田が痙攣しながら絶叫する中で、童子が質問する。
童子の指示でドアの外に待機していた高校生の新人対策官たちは、通路に漏れる断末魔の叫びを聞き、こめかみにじわりと汗を滲ませた。
鷹村がまっすぐに前を向いて言う。
「……乾エイジに繋がる情報を持っているのは、『ノクス』だけだ。グラウカ誘拐事件の解決の糸口を掴む為にも、ここで手を抜くわけにはいかない」
鷹村の言葉に、雨瀬、塩田、最上がしっかりとうなずく。
やがて室内がしんと静まり返り、童子が「大貫チーフに連絡する」と言ってドアから出てきた。
その後、童子の報告により、二つの情報が明らかになった。
一つは『ノクス』は乾からグラウカ誘拐の目的は知らされていないこと、もう一つは明日の午後11時に伽羅区で乾と会い、礼金の残りを受け取ることだった。
これらの情報は、インクルシオ東京本部の幹部及び西班の対策官全員に、直ちに共有された。
西班に所属する特別対策官の真伏隼人が、伽羅区で起こったグラウカ誘拐事件の捜査中に、スマホに着信した緊急連絡に目を通す。
「……仕方がない。俺の出番だな」
そう呟くと、真伏はスマホをしまって踵を返した。