05・不穏な来訪者
東京都月白区。
インクルシオ東京本部の隣に建つインクルシオ寮で、塩田渉は抗議の声をあげた。
「童子さん! こんな時に休んでなんていられませんよ!」
寮の1階にある休憩スペースのソファには、「童子班」の高校生4人がラフな私服姿で座っている。
この日は日曜日であり、高校生の新人対策官たちは全員が非番となっていた。
「捜査情報をまとめたりとか、事務的な仕事だけでも手伝えないかしら」
花柄のチュニックにショートパンツを合わせた最上七葉が提案する。
「童子さんが一緒であれば、外回りをしてもいいんですよね?」
紙コップに入ったコーヒーを片手に鷹村哲が訊ねた。
「僕も何かしたいです」
雨瀬眞白が小さいながらもはっきりとした口調で言う。
休憩スペースの壁に設置されたテレビには、『インクルシオ対策官、次々と殺害される』のテロップが映し出されていた。
二頭の虎がプリントされたシャツに濃紺のジーンズを履いた特別対策官の童子将也は、テレビ画面をちらりと見やって言った。
「お前らの気持ちはようわかる。せやけど、休むことも大事な仕事やで」
「でも、童子さんはこの後捜査に行くんですよね? 俺らと同じ非番なのに……」
「昼からな。俺は特別対策官やから、お前らとは立場がちゃうしな」
「……そんなの……俺らだって……」
コの字型のソファに腰掛けた塩田の語気がだんだんと弱くなる。
自分たちが義憤に駆られて童子に我儘を言っていることは、ソファに座る高校生全員が理解していた。
数瞬の沈黙の後、鷹村が口を開いた。
「……童子さん。何か新しい情報が入ったら、俺たちにも教えて下さい」
童子は小さく微笑むと、「もちろんや」と了承した。
午前11時。
休憩スペースのソファを立った雨瀬は、スマホのニュースサイトを見ている鷹村に「ノートを買ってくる」と告げた。
「どこ? 遠い店なら俺も一緒に行くけど」
「そこのコンビニ。一人で大丈夫だよ」
高校生たちがよく利用するコンビニエンスストアは、寮を出て大通りを挟んだ向かい側にある。
赤信号に引っかからなければ、徒歩20秒で行ける場所であった。
「あー。それじゃあ……」
鷹村から「ついでに」ということでガムを、「俺らもー!」と便乗した塩田と最上からアイスクリームを頼まれた雨瀬は、休憩スペースを出てエントランスを抜けた。
5月の爽やかな日差しが雨瀬の痩身を照らす。
白のTシャツに色落ちしたジーンズ、紐の緩んだスニーカーを履いた雨瀬は、大通りの横断歩道を渡ってコンビニエンスストアを目指した。
すると、目的地に着く数メートル手前で、「久しぶり」と背後から声をかけられた。
「──!」
振り返った雨瀬の目が大きく見開く。
青々と茂る街路樹が並ぶ歩道に立っていたのは、黒のパーカーのフードを目深に被った人物──乙黒阿鼻だった。
乙黒はフードの奥の双眸を細めて言った。
「眞白。本当に久しぶりだね。哲は元気? 二人共、インクルシオ対策官になったんだってね。訓練生から正式な対策官になれるのはほんの少数だって聞いてるのに、すごいよ」
そう言って、乙黒は微笑んだ。
雨瀬は背筋が戦慄いた気がした。
向かい合う二人の横を、通行人が通り過ぎていく。
乙黒は「ちょっとそこで話そうよ」と言って、歩道の脇に設置されたベンチを指差した。
「──…………」
雨瀬は黙ったまま、乙黒の後に続いて木製のベンチに腰掛けた。
乙黒は15歳で、雨瀬や鷹村と同じ不言区にある児童養護施設「むささび園」の出身である。
また、乙黒は『グラウカ』でもあった。
雨瀬、鷹村、乙黒の3人は「むささび園」で共に育った幼馴染であるが、乙黒は中学一年生の春に「むささび園」から忽然と姿を消した。
園はすぐに警察に捜索願を出したが、乙黒の消息は一向に掴めなかった。
それから数ヶ月後、雨瀬と鷹村はインクルシオの訓練生となり、埼玉県にある訓練生用の寮に入る為に「むささび園」を出た。
ベンチに座った乙黒は、雨瀬の顔を覗き込んで無邪気に笑う。
「背が伸びたね眞白。顔つきも大人っぽくなった。でも、その癖っ毛は全然変わってない」
くすくすと笑う乙黒に、雨瀬は僅かに身を引いた。
雨瀬は幼い頃から、乙黒の人懐こい笑顔に得体の知れない恐怖を感じていた。
パーソナルスペースを無遠慮に侵略してくる乙黒に、ぞわりと鳥肌が立つ。
努めて冷静な声で、雨瀬は訊いた。
「……今まで、どこで何をしてたの。阿鼻」
「んー。別に。フツーに生きてただけさ」
「急にいなくなって、園の先生もみんなも心配してた」
「みんなってのは嘘だね。哲だけは、心配してない」
「………………」
雨瀬は乙黒を見た。乙黒は雨瀬を見ていた。
乙黒は「それよりさ」と、大通りの向こう側に建つインクルシオ東京本部に目を向けた。
「眞白は、グラウカの“特異体”って知ってる?」
「……? 噂だけなら……」
唐突に出された話題に訝しさを抱きつつも、雨瀬は返事をした。
──グラウカには、“特異体”と呼ばれる個体が存在する。
“特異体”は今から50年前に発見された個体であり、通常のグラウカとの違いは『死からの蘇生』が可能な点であった。
グラウカは脳下垂体から『アンゲルス』というホルモンを分泌して驚異的な再生能力を発揮している。
『アンゲルス』は身体のどの部分を損傷しても機能するが、分泌元である脳下垂体を破壊された場合は再生することができずに“死”に至る。
しかし、グラウカの“特異体”は、死に直面した際──脳下垂体を破壊された時──に血中の『アンゲルス』濃度を爆発的に上昇させ、脳下垂体を即座に修復して、“死の状態からの蘇生”を可能とするのである。
「グラウカの“特異体”はさ。50年前に発見された一個体だけなんだって。その個体は今でもインクルシオがどこかに隠匿してるって、ネットの『都市伝説特集』で見たよ」
そう言いながら、乙黒は可笑しそうに笑った。
乙黒の話の意図が読めず、雨瀬は白髪を揺らして下を向く。
「……それはただの噂話だよ。“特異体”の存在自体、公的な記録はどこにもない」
「まぁ、所詮『都市伝説』だしね。でもさ、もし本当に“特異体”がいたら、すごいと思わない? 死なないカラダがあったら何でもできる」
乙黒は両手を頭上に上げると、ゆったりと伸びをした。
雨瀬が口を開こうとした時、乙黒は「画廊『ロタ』」と短く告げた。
「え?」
「反人間組織『アダマス』の新しい拠点だよ。久しぶりに会えて嬉しかったから、情報提供」
雨瀬は眉根を寄せて乙黒を見る。
乙黒は雨瀬を見返して、穏やかに微笑んだ。
「……なんで、阿鼻が反人間組織の拠点を知っているの?」
「僕も作ったんだよ。『キルクルス』っていう反人間組織」
「──!!!」
乙黒はベンチから立ち上がった。
黒のパーカーの裾が、5月の風に翻る。
「じゃあ、そろそろ行くよ。また会える時を楽しみにしてる。哲にも、よろしく」
雨瀬に軽く手を振ると、乙黒は背を向けて歩き出した。
雑踏に紛れて消えゆく後ろ姿を、雨瀬は暫く呆然と見送った。
数分後。
雨瀬は月白区の閑静な通りにある、画廊『ロタ』の前に立っていた。
打ちっ放しのコンクリート造りの画廊は、展示スペースに何も飾られておらず、現在は空き店舗のようだった。
(……この画廊は、インクルシオ東京本部から5分くらいしか離れていない。こんな近くに『アダマス』が拠点を構えるとは思えない。やっぱり、阿鼻は僕をからかったんじゃ……)
雨瀬はスマホで童子に連絡を入れることを躊躇った。
乙黒が反人間組織を作ったという話も俄には信じ難い。
雨瀬は半信半疑の気持ちを抱きながら、『ロタ』のドアを慎重に引く。
ドアには鍵がかかっておらず、あっさりと開いた。
雨瀬が足を踏み入れると、長方形の展示スペースの奥に『OFFICE』と書かれたスチール製のドアがあった。
(……っ!!!)
雨瀬は驚愕に息を詰まらせる。
10センチほど開いたドアの隙間から、反人間組織『アダマス』の剛木壱太の姿が見えた。
すぐに壱太だと判別できたのは、肘にも額にも『アダマス』のタトゥーがなかったからだ。
雨瀬はジーンズの尻ポケットから急いでスマホを取り出し、「童子班」の全員宛てに緊急連絡のメッセージを打ち込んだ。
(他の二人はいない。剛木壱太に見つかる前に、ここから離れないと……)
メッセージを送信した雨瀬は、前を向いたまま静かに後ずさった。
その時。スニーカーのソールがフローリングの床を擦る小さな音が鳴った。
缶コーヒーを飲んでいた壱太が「お前ら戻ったのか」とドアを向く。
コンクリートに囲まれた薄暗い建物の中で、雨瀬と壱太の視線が交わった。
「……てめぇは……」
壱太は目を見開くと、獰猛な声を喉から押し出した。
『剛木壱太。画廊ロタ』
インクルシオ寮の休憩スペースで、スマホに着信したメッセージを見た鷹村は言葉を失った。
塩田と最上も同様に動きが止まる。
そこに、廊下で他班の対策官と話していた童子が走り込んできた。
「雨瀬からのメッセージは見たな。最上、中央班の対策官全員に緊急連絡を入れろ。俺は武器を取ってすぐに出る。お前らはここで待機」
「童子さん! 俺も行かせて下さい!」
鷹村が弾かれるように顔を上げて叫んだ。
「俺も!」
「私も行きます!」
塩田と最上が座っていたソファから立ち上がり、大きく声を張り上げる。
童子は選ぶべき道を一瞬で決めた。
「……俺についてこい。その代わり、決して無茶はするな。ええな?」
「はい!!!」
しっかりと返事をした3人は、童子の後に続いて、寮のエントランスに走り出した。