06・尾行の落とし穴
東京都月白区。
街路樹が等間隔に並ぶ大通り沿いのコンビニエンスストアで、影下一平は釣り雑誌を立ち読みしていた。
影下はタンクトップにアロハシャツを羽織り、茶髪のカツラをつけている。
午後5時半を回った時刻、ガラス張りの自動ドアが軽快な音と共に開いた。
「……お疲れ様です」
ぼそりと低い声で言い、影下の隣に立った客──鷹村哲は、棚にある漫画雑誌を手に取った。
鷹村はカーキ色のハーフパンツ姿で、バケットハットを深く被っている。
釣り雑誌のページをめくって、影下が小声で言った。
「お疲れさん〜。今日の任務は、終わったぁ?」
「はい。さっき、巡回から戻ってきました。“奴”の方はどうですか?」
「今のところ、フツーに任務をこなしてるよぉ。妙な動きやそぶりはないねぇ」
影下の回答に、鷹村は「……そうですか」とやや落胆する。
「まぁ、尾行を始めてまだ3日だからねぇ。焦らずに、じっくりといこうぜぇ」
影下は雑誌を棚に戻すと、「じゃあねぇ」と片手を上げて店内から出ていった。
鷹村は短く息をつき、大通りの反対側にある歩道を見やる。
──そこには、同僚のインクルシオ対策官と談笑しながら歩く、中央班に所属する水間洸一郎の姿があった。
インクルシオ東京本部の南班に所属する「童子班」の5人は、中央班に所属する特別対策官の影下と共に、周囲には内密で水間の調査を開始した。
高校生の新人対策官たちは、夏休み期間中は午前8時から午後5時までが任務となっており、4人の指導担当につく特別対策官の童子将也も同様であった。
童子は6人の任務時間外で交代制のシフトを組み、特に夜間は注力して、水間の尾行を行なった。
また、非番の日は二人一組で、朝から水間に張り付くことにしていた。
「グラスをお下げしても、よろしいですか?」
「……あっ。すみません。お願いします」
時計の針が午前0時を指した深夜。
24時間営業のファミリーレストランで、最上七葉は店員に頭を下げた。
程よく混んでいるファミリーレストランの窓からは、インクルシオ東京本部の隣に建つ、インクルシオ寮の正門が見える。
窓際のテーブル席に座った最上は、スマホをいじる振りをして、寮の正門を注視した。
万が一、水間が出てきた場合に備えて、気を緩めることなく神経を集中する。
そこに、薄手の白のパーカーを着た雨瀬眞白がやってきた。
「最上さん。お疲れ様。交代の時間だよ」
「雨瀬。お疲れ様。雨瀬は、3時までよね。眠いと思うけど、頑張って」
「うん。少し仮眠してきたから大丈夫。ありがとう」
最上がレシートを持って立ち上がり、雨瀬が入れ替わるように席に座る。
雨瀬はパーカーのフードを被って白髪を隠し、店内の照明を反射する窓ガラスに目を向けた。
それから2日が経った、晴天の日曜日。
この日、水間は非番となっており、紺色のポロシャツにチノパン姿で寮を出た。
時刻は午前9時を少し回ったところだった。
水間と同じく非番の童子と塩田渉が、コンビを組んで尾行につく。
童子は無地の開襟シャツにジーンズを履いてサングラスをかけ、塩田はTシャツとカーゴパンツにキャップを被り、水間の後を追った。
「水間さん、こないだ鷹村と雨瀬が見たっていう緑色のバッグを持ってるっスね。中身がけっこう膨らんでるような……」
「あの中に何が入っとるんか、気になるな」
童子と塩田は距離を保ちつつ、慎重に水間をつける。
水間は地下鉄の『月白中央駅』から電車に乗ると、蘇芳区の駅で下車し、若者で賑わう街をぶらぶらと歩いた。
午前11時を過ぎた頃、水間は狭い路地に建つハンバーガーショップに入った。
数分の間を置いて、童子と塩田も入店する。
水間はシックな色合いの壁に面したカウンター席に座っており、二人はその後方を通って、店の奥のボックス席についた。
キャップを深く被り直した塩田が、「ここのチーズバーガー、超人気なんスよ。俺らも食いましょう」と席を立ち、チーズバーガーとポテトのセットを二つ購入してきた。
「んー! やっぱり旨い!」
店の看板メニューを口いっぱいに頬張った塩田に、童子が苦笑する。
すると、多くの客で混み合う店内に、ドスの利いた怒鳴り声が響いた。
「オラァッ!! さっき買ったハンバーガー、虫が入ってるじゃねぇか!!!」
「も、申し訳ございません……! すぐに、お取り換え致します……!」
童子と塩田が振り向くと、肩に髑髏のタトゥーを入れた3人組の男が、注文カウンターの前でいきり立っていた。
塩田がポテトをつまんで、眉を顰める。
「……なんか、ガラの悪い連中っすね」
「せやな」
二人は暫く成り行きを見守ったが、3人組は「慰謝料出せよ!」とカウンターを叩いて要求し、店員は身を小さくして困り果てていた。
童子がサングラスを外し、ボックス席のソファから腰を上げる。
「……しゃーない。仲裁に行ってくるわ」
「え? 目立つことをしたら、水間さんに見つかっちゃうんじゃ……」
「今日の尾行はしまいや。水間さんがこっちに気付いたら、偶然会うたことにする」
そう言って、童子は3人組のいる注文カウンターに足を向けた。
それと同時に、水間がトレーを持って立ち上がる。
水間はダストボックスに空き容器を入れ、店内の揉め事には無関心の様子で外に出ていった。
童子が鋭く目配せをすると、塩田が「……追います!」と席を立つ。
店の外に走り出た塩田は、行き交う人々の中に紛れる水間を追跡した。
水間はふらりと一本の路地に入り、塩田も急いで同じ道に駆け込む。
「──っ!!!」
一瞬、塩田は大きく目を瞠った。
追っていた水間が、腕を組んでこちらを向いている。
水間は双眸を訝しげに歪めて言った。
「……ここ数日、誰かにつけられてるんじゃないかと感じてたんだ。正面から顔を見てわかったけど、君は南班の新人対策官の子だよね? この僕に、何か用があるのかい?」
塩田の背筋に冷たい汗が流れる。
塩田は被っていたキャップを取り、水間をまっすぐに見据えて口を開いた。
「水間さん。バッグの中身を見せて下さい」
「……何?」
「その緑色のバッグです。今すぐに、中身を見せて下さい」
「……お前。自分の言ってることが、わかっているのか?」
水間が俄に気色ばみ、塩田をきつく睨め付ける。
その時、塩田の背後から「ええ。十分にわかっています」と声が聞こえた。
「……童子さん!」
塩田が振り返り、水間は路地に現れた童子を見やる。
「……童子特別対策官。一体、これはどういうことですか?」
「塩田の言うた通りです。バッグの中身を、見せてくれませんか?」
「まさか、僕を、グラウカ連続殺害事件の犯人だと疑っているんですか?」
「先日の情報提供で、対策官とされる件の事件の犯人が、緑色のバッグを所持していることはご存知ですよね? ……端的に言うと、対策官と緑色のバッグの組み合わせで、水間さんに疑惑を抱いています」
「ええっ!? たったそれだけで、僕を犯人扱いですか!? 緑色のバッグなんて、どこにでもありますよね? 新人対策官ならともかく、貴方ほどの人があまりにも短絡的な思考じゃないですか?」
「疚しいことがないなら、中身を見ても大丈夫ですよね?」
童子の静かな眼差しに、水間は「……はっ」と肩を揺らして笑った。
「……そこまで言うなら、いいでしょう。どうぞ、しっかりと見て下さい」
水間は肩に掛けた緑色のバッグを外して、徐に上下を逆さにした。
バッグの開いた口から、旧型のポータブルCDプレイヤー、ヘッドフォン、文庫本、財布、パスケース、スポーツタオル、涼感スプレーが次々と地面に落ちる。
それらを見た塩田の顔色が、急速に青くなった。
水間は腰を屈め、アスファルトに散らばった私物を拾い集めて言う。
「ほらね。ご期待の、水中メガネやサバイバルナイフはありませんよ」
「す、すみません……」
塩田がうつむいて小さく呟くと、水間は勢いよく顔を上げた。
「謝って済む問題じゃないですよ? あらぬ嫌疑をかけられて、僕はとても不愉快です。今回の件、そちらのチーフはもちろん承知しているんでしょうね? そこら辺も含めて、後ほどきちんと話をさせてもらいますよ。相応の処分は、覚悟しておいて下さいね」
水間は声高に言い募り、バッグを乱暴に肩に掛けて、童子と塩田の間を大股で通り過ぎた。
そのまま路地から出ていった背中を、童子は無言で見送る。
「……童子さん。すみません。俺が水間さんに見つかったせいで……」
塩田の謝罪に、童子は大通りを見やったまま首を振った。
「いや。謝らんでええ。あの人は、数日前からこっちの尾行に気付いとった。それで、誰がつけとるんかを探る為に、わざと中身を詰めたバッグを持って出掛けたんや。対策官らしいやり方やと言えばそうやけど、俺としては、ますます“疑惑”が深まったな」
そう言うと、童子は一つ息をついた。
──それから一時間後、童子のスマホが鳴った。
スマホの画面には、南班チーフの大貫武士の名前が表示されていた。