03・肯定と否定
──あれは、4歳の時だった。
僕、雨瀬眞白は、保健所が行う『4歳時検診』でグラウカだと判明した。
僕の育った不言区の児童養護施設「むささび園」では、グラウカは僕と乙黒阿鼻の二人であった。
元々、人とのコミュニケーションが苦手だった僕は、『4歳児検診』の結果を受けて“普通の人間”や“大多数”といった枠から外れることになり、ますます内にこもる性格になった。
同じ施設で育った幼馴染の鷹村哲は、「グラウカはちょっと力が強くて傷の治りが早いだけ。人間と何も変わらないって」と僕に言ったが、それは当時4歳の僕の幼心でも──おそらく哲自身も──無理のある慰めだとわかっていた。
その後、保健所を通して厚生省から『グラウカ登録証』が発行され、僕は生物的にも社会的にも人間とは区別された。
それから一年が経った、ある晴れた日。
5歳になった僕は、「むささび園」の庭先でカブトムシを見つけた。
カブトムシは僕の目線と同じ高さにある、木の窪みの中に入っていた。
僕は長い時間、一人きりでカブトムシを見続けた。
時折、ほんの僅かに前脚が動くだけだったが、見ているだけで楽しかった。
すると、僕の隣に阿鼻がやってきた。
上機嫌そうな笑みを浮かべた阿鼻は、唐突に眼前の木の幹を手で鷲掴むと、そのまま力を込めて握り潰した。
阿鼻が凄まじい握力で破壊した場所には、先ほどのカブトムシがいた。
僕は目を見開いて愕然とし、阿鼻は頬を紅潮させて言った。
「グラウカってさ、こんなことも出来るんだ! すごいね!」
「………………」
「僕と眞白は、トクベツなんだ! グラウカでよかったね!」
「………………」
僕は無言で、阿鼻の手に目をやった。
丸みのある幼い手には、細かく砕けた木片と、どろりとした液体が付いていた。
──次の瞬間。僕は、地面に蹲って激しく嘔吐した。
更に、一年後。
僕が6歳の時に、筒井美鈴という女性の先生が「むささび園」にやってきた。
筒井先生は優しく面倒見のいい性格で、すぐに園のみんなが懐いた。
僕も、徐々にではあったが、筒井先生に心を開いていった。
しかし、まもなく筒井先生は、右腕を粉砕骨折するという大怪我を負った。
その原因は、グラウカである阿鼻が、筒井先生の右腕にじゃれついた際に力加減を誤ったからであった。
結局、筒井先生は入ったばかりの園を去った。
園長先生からの悲しい報告に、哲は険しい表情で黙り込み、僕はただうつむくだけだった。
それ以降、僕は精神的にも肉体的にも、人と接することを拒絶した。
何年もの間、頑なに“人間”の輪に加わろうとはしなかった。
そんな僕に、哲は怒ったり困ったりしていたが、一つの思いが心を雁字搦めに縛った。
阿鼻は肯定し、僕は否定した“事実”。
──グラウカは、大切なものを一瞬で壊す力を持っている。
午後6時。東京都月白区。
インクルシオ東京本部から300メートルほど離れた場所にある『月白噴水公園』で、『インクルシオ夏祭り』の設営が行われた。
公園の中央広場には、総務部の職員やイベント業者だけではなく、任務後に準備にやってきた対策官の姿が多くあった。
「よっ! いよいよ、祭りは明日だな! 準備は進んでるか?」
北班に所属する特別対策官の時任直輝が、屋台の前で作業をする「童子班」の高校生たちに声をかけた。
黒のツナギ服を着た時任の隣には、同じく北班の市来匡がいる。
ダンボール箱の中からヨーヨーを取り出していた塩田渉が、「はーい! 順調っスよー!」と笑顔で親指を立てた。
わたあめの屋台の幟旗を持った鷹村哲が言う。
「時任さんたちは、射的の屋台ですよね。俺、明日の休憩時間に行きますよ」
「おー、来い来い! 目玉の景品は最新ゲーム機だぞ!」
時任が快活に言い、塩田が「マジっすか! 俺も行くー!」と目を輝かせる。
市来がたこ焼きの暖簾を掛けた屋台に顔を向けた。
「童子さーん! 明日はたこ焼き買いますよ! 童子さんの作る本場の味が、今から楽しみです!」
提灯を手にした最上七葉が、「私も、絶対に行くわ」とうきうきと言う。
屋台の中で業務用の器具を確認していた特別対策官の童子将也が、「一個オマケしたるわ」と顔を出して笑った。
「──…………」
雨瀬眞白は、ヨーヨー釣りのポスターを屋台の表面に貼っていた。
地面にしゃがんで、紙が曲がらないように慎重に位置を調整する。
雨瀬は過去に一度だけ、近所の神社で開催された夏祭りに行ったことがある。
それはインクルシオの訓練生時代で、人混みは苦手であったが、祭り独特の華やかな喧騒や煌びやかな風景は嫌ではなかった。
「明日が、楽しみだな」
雨瀬の側に立った鷹村が言う。
公園の正面入り口から中央広場まで、歩道の両脇にずらりと並んだ屋台を見て、雨瀬は「うん」とうなずいた。
すると、数メートル離れた場所から「お疲れ様です!」と元気な声が聞こえた。
高校生たちが目をやると、中央班に所属する水間洸一郎が、東班に所属する特別対策官の芦花詩織に駆け寄っていた。
「芦花特別対策官! お荷物をお持ちします!」
「いえ、軽いから大丈夫ですよ。ありがとうございます」
右手に“東班・りんご飴”と書かれた紙袋を持って、芦花が優しく微笑む。
水間は芦花の横に並んで一緒に歩きながら、「僕の班は準備が終わったので、そちらを手伝いますよ」と爽やかに笑った。
その様子を見ていた塩田が言った。
「……水間さんてさぁ。お偉いさんのおぼっちゃんなのに、意外と腰が低いよなぁ」
「そうだね。僕らは忖度だなんだって、彼をつい色メガネで見がちだけど、本人は謙虚で真面目なタイプなのかもね」
市来が言い、塩田は「そうかもですねー」と相槌を打った。
「………………」
雨瀬は、背中を向けて歩いていく水間をじっと見た。
先日から続く悪寒のような異様な感覚に、内心で強く戸惑う。
ふと、ツナギ服の袖から出た腕に目を落とすと、そこには無数の鳥肌が立っていた。
午後11時。東京都不言区。
閉園済みの児童養護施設「むささび園」の地下の物置部屋で、反人間組織『キルクルス』のリーダーの乙黒阿鼻は、ベッド代わりの冷蔵庫の上に寝転がった。
手にしたスマホに、つい数分前に一枚の画像を送ったメンバーから次々とメッセージが着信する。
『おいおーい! 画像見たぞ! なんで女装!?』
『ふふ。驚いた? 明日のインクルシオ夏祭りに行く為だよ』
『あー、なるほど。変装なわけね。マジでびっくりしたぜ』
獅戸安悟が予想通りの反応を返し、乙黒は満足げに微笑んだ。
『明日は、半井と茅入と3人で行くんだっけか。つか、正直、可愛くないな。俺ならナンパしないわ』
獅戸の遠慮のない感想に、乙黒は「ひどいー」と声に出して笑う。
鳴神冬真は『俺はいいと思うよ』と紳士的なメッセージを寄越し、遊ノ木秀臣は『変装としてはよく出来てる』と無難にコメントした。
『それにしてもさー。半井は、よく行く気になったなー』
『僕が敵情視察のつもりでってしつこく誘ったから。やっぱり、悪かったかな』
画面に表示された獅戸の言葉に、乙黒が表情を曇らせる。
少し間を置いて、半井蛍から『別に』という短いメッセージが返され、乙黒はほっと安堵の息をついた。
『阿鼻君、蛍君! 明日は5時に現地集合ね! じゃあ、みんなおやすみ〜!』
茅入姫己が元気に締め括る。
乙黒は全員に向けて『おやすみ』とメッセージを打つと、スマホを脇に置いた。
途端に、うとうとと瞼が重くなる。
「楽しみだなぁ」
乙黒は天井を見上げて小さく呟き、ゆっくりと目を閉じた。