01・黒の凶刃
午前4時。東京都月白区。
朝もやに包まれた雑居ビルの非常階段で、チノパン姿の男が唇を震わせた。
「お、おい! 人違いじゃないのか!? 俺は何もしていない!」
チノパンの男は体の数カ所を鋭利な刃物で切られており、その傷口からは白い蒸気が弱々しく上がっている。
「俺は、反人間組織の構成員じゃない! このビルの居酒屋で働いている、一般のグラウカだ!」
「そんなことはね、どうでもいいんだよ」
顔を引き攣らせたチノパンの男を追い詰めるように、一人の人物がゆっくりと近付いた。
艶のある黒髪をワックスできっちりと整えた人物は、海のダイビング等で使用する大きな水中メガネを顔に装着している。
「だったら、何故……!!!」
チノパンの男は非常階段の踊り場で後ずさった。
目の前に迫る水中メガネの人物に、最大の疑問をぶつける。
「あんたは、インクルシオ対策官だろう!? なんでこんなことを……!!!」
「んー。趣味かな?」
そう言うと、黒のツナギ服を纏った人物──水間洸一郎は、インクルシオの刻印の入ったサバイバルナイフを振り上げた。
「……っ!!!!」
チノパンの男は、目を見開いて声にならない声をあげる。
非情な刃は、その眉間をやすやすと貫いた。
7月下旬。東京都月白区。
『厚生省特殊外郭機関インクルシオ』東京本部の隣に建つインクルシオ寮の食堂で、南班に所属する「童子班」の5人は朝食を済ませた。
10日ほど前に反人間組織『トレデキム』と交戦した高校生の新人対策官たちは、すでに夏休み期間に入っており、任務と鍛錬に専念する日々を送っていた。
食後のアイスカフェラテを一口啜った塩田渉が言う。
「もうすぐ、『インクルシオ夏祭り』だな! すっげぇ楽しみ!」
鷹村哲が冷たい緑茶を飲んでうなずいた。
「そうだな。『インクルシオ夏祭り』で南班が出す屋台は、たこ焼き、イカ焼き、焼きとうもろこし、わたあめ、ヨーヨー釣りの5つか。俺は、わたあめ係だ」
最上七葉がアイスティーにガムシロップを入れて微笑む。
「私も、わたあめ係だわ。なるべく綺麗に作って、お客さんを喜ばせたいわね」
「……僕、上手に接客できるかな……」
オレンジジュースのグラスを前にした雨瀬眞白が不安げに呟き、向かいに座る特別対策官の童子将也が「大丈夫やって」と励ました。
──『インクルシオ夏祭り』は、インクルシオが隔年の7月30日に開催している夏祭りの名称である。
今年で12回目を迎える夏祭りは、東京本部、大阪支部、仙台支部、福岡支部の4ヶ所で行われ、各拠点の対策官たちは様々な屋台を出して一般客をもてなす。
開催当初、東京本部は建物の敷地内で夏祭りを行っていたが、回を重ねるごとに一般客が増加し、近年は『月白噴水公園』に会場を移していた。
アイスカフェラテを飲み干した塩田が、童子に訊いた。
「童子さん。大阪支部の夏祭りって、どんな感じだったんですか?」
「そうやなぁ。他の拠点のまともな夏祭りとは違て、大阪支部はボケ倒しやったで。30以上ある屋台が、全部『たこ焼き』とか……」
「ええーっ!? マジですか!?」
窓際のテーブルにつく高校生たちが、驚愕に目を丸くする。
童子は可笑しそうに笑って言った。
「かなりビビるやろ? 実は、各屋台の暖簾を『たこ焼き』で揃えただけやねん。中身はちゃんと様々な種類の屋台やで。こんな風に、大阪支部は渾身のボケを仕掛けて、それを見たお客さんからのリアクションに夏祭りの全てを賭けとったで」
「うわぁ〜……。さすが大阪だなぁ」
塩田が感心した声を漏らし、鷹村が「ハンパないな」と息をつく。
童子はスマホの時計に目をやって、アイスコーヒーのグラスを置いた。
「さてと。そろそろ出よか。今日は一日巡回や。夏らしく気温が高いけど、体調に気を付けて担当エリアを回っていくで」
「──はい!」
高校生たちが元気よく返事をする。
黒のツナギ服を着た「童子班」の5人は、熱を帯びた朝日が照らすテーブルから立ち上がった。
午前9時。
インクルシオ東京本部の最上階の会議室で、定例の幹部会議が開かれた。
各班による捜査状況等の報告の後、本部長の那智明が手元の資料をまとめて言う。
「そう言えば、7月30日は『インクルシオ夏祭り』だな。各班、当日に向けての準備は大丈夫か?」
東班チーフの望月剛志が、コーヒーに手を伸ばして答えた。
「ああ。大丈夫だよ。屋台に必要な道具なんかは総務が用意してくれるしな。後は夏祭り中の巡回が手薄にならないように、対策官たちのシフトを調整すれば問題ない」
「うちの班はパンケーキの屋台を出す対策官たちが、毎日夜遅くまでふわふわに焼く練習をしてますよ」
中央班チーフの津之江学が笑みを浮かべて言い、北班チーフの芥澤丈一が両手を頭の後ろで組んだ。
「うちの連中も、やれ射的だ輪投げだって、いい歳してクソ浮き立ってるぜ」
「まぁ、二年に一度のお祭りだからな。わくわくする気持ちはわかるよ」
南班チーフの大貫武士が顔を綻ばせて言う。
西班チーフの路木怜司が、ボールペンを指で回して「そういうものですかね」と無表情で言った。
インクルシオ総長の阿諏訪征一郎が、徐に口を開く。
「我々インクルシオが主催する『インクルシオ夏祭り』は、元々は対策官と地元の人々の交流を目的として始まった。最初はほんのささやかな規模だったが、今では数多くの屋台が並び、遠方からも人が訪れる一大イベントとなった。対策官たちは各々の任務で忙しいだろうが、みんなが楽しめる夏祭りになるように尽力して欲しい」
阿諏訪の言葉に、各班のチーフが首肯する。
ほどなくして、定例の幹部会議は滞りなく散会となった。
会議終了後、会議室の扉から通路に出たところで、那智が津之江に声をかけた。
「……津之江。先週着任した、水間洸一郎の様子はどうだ?」
津之江が振り向き、他のチーフたちが足を止める。
「ええ。特に問題はないですよ」
津之江の返答に、那智は「そうか」と安堵したように返した。
那智が話題に出した『水間洸一郎』という人物は、7月20日付けでインクルシオ名古屋支部から東京本部に異動してきた対策官だった。
年齢は27歳で、現在は中央班に所属している。
水間の実父は、厚生省の事務次官を務める水間正一であった。
「あー。水間クンかぁー。お偉いさんのボンボンで、俺だったらやりづらいなぁ」
インクルシオの黒のジャンパーを着た望月が、頭を掻いて言う。
大貫が「確かになぁ……」と同意し、芥澤が「そんなの気にしてたら、仕事にならねぇぞ」と悪態をついた。
「危険な任務で怪我でもさせたら、閑職に左遷ですかね」
路木の一言に、チーフたちが固まる。
津之江は眉尻を下げて言った。
「いやぁ。芥澤チーフの言う通り、気にしても仕方のないことですからね。たとえ水間事務次官のご子息であっても、他の対策官と同じ任務をこなしてもらいますよ。……あ。ちょっと失礼」
津之江は視線を下げると、スラックスのポケットからスマホを取り出した。
着信したメッセージに目を通した津之江の表情が、みるみるうちに変わっていく。
「……津之江? どうした?」
その不穏な雰囲気に、那智が訊ねた。
津之江はスマホの画面に目を落としたままで言った。
「……今朝、月白区の雑居ビルで起きたグラウカ殺害事件について、司法解剖を担当した監察医の先生からメッセージが届きました」
「ん? 確か、その事件の被害者は一般のグラウカだろう? 被害者の交友関係を見ても反人間組織絡みではなさそうだし、うちとは関係がないんじゃないか?」
望月が眉根を寄せて訝しむ。
津之江は顔を上げて答えた。
「被害者であるグラウカの男性は、『アンゲルス』の分泌量が極端に少ない、珍しい個体だったそうです。つまり、普通のグラウカなら『アンゲルス』の再生能力で塞がるはずの傷が、塞がりきらずに絶命した。そこで、男性の体に残った傷痕から、殺害に使われた凶器のサイズやセレーションの特徴を推察することができた」
「……どういうことだ?」
嫌な予感に、那智が低い声音で問う。
津之江は硬い表情で言った。
「凶器の形状は、インクルシオのサバイバルナイフに非常に似通っているそうです」