01・二つの反人間組織
午前0時。
ゆったりとしたジャズが流れるバーで、卯田恭介は琥珀色のウィスキーが揺れるロックグラスを傾けた。
卯田は反人間組織『トレデキム』を率いる24歳のリーダーで、卯田の隣には別の反人間組織の人物が座っている。
カウンターでウィスキーを呷った卯田は、得意げな様子で言った。
「こないだの八王子のライブハウス襲撃は、俺らがやったんだ。その前は立川のショッピングモール、町田ではグルメフェス会場を襲った。恐怖に顔を引き攣らせて逃げ惑う人間共を殺すのは、楽しくて仕方がねぇ」
卯田はコースターにグラスを置き、尖った犬歯を剥き出して笑った。
「八王子ん時はさ。けっこう早くにインクルシオ対策官が来たんだけど、サクッと返り討ちにしてやったよ。俺は今までに3人の対策官を殺してる。正直、あいつら程度じゃ相手にならねぇよ」
そう言うと、卯田は隣に座る人物をちらりと見やった。
黙ってカクテルを飲んでいる人物に、窺うように低く言う。
「なぁ。俺を、あんたら『イマゴ』のメンバーに加える気はねぇか? このまま『トレデキム』のリーダーとしてやっていくのも悪くはねぇが、『イマゴ』ほどの組織に入れりゃ将来は安泰だ。決して損はさせねぇぜ?」
卯田の申し出に、艶のあるルージュを引いた唇が弧を描いた。
大きな花柄のワンピースの裾が、足の細いスツールから離れる。
爽やかなシトラス系の香水をつけた人物は、「ごちそうさま」と告げてバーを出て行った。
「……ちぇっ。つれねぇな」
一人残された卯田は、片目を歪めて頬杖をついた。
7月中旬。東京都月白区。
『厚生省特殊外郭機関インクルシオ』東京本部の隣に建つインクルシオ寮で、最上七葉はチーズケーキを乗せた皿を持ってうなだれた。
「ごめんなさい。こんな出来になっちゃって……」
「へーきへーき! ちょっと表面が黒コゲになって、生地がベチャっと潰れてるだけじゃん! 全然大丈夫だって!」
「お前は、デリカシーというものが皆無だな」
Tシャツにハーフパンツ姿の塩田渉が慰め、鷹村哲が呆れ顔で突っ込む。
鷹村の後ろにいた雨瀬眞白が、「味は美味しそうだよ」と控えめにフォローした。
乙黒阿鼻をリーダーとする反人間組織『キルクルス』の凶行から10日が経ち、インクルシオ東京本部の南班に所属する高校生の新人対策官たちは、任務に勤しむ日々を送っていた。
非番のこの日、お菓子作りが好きだという最上が、「童子班」の4人に手作りのチーズケーキを振る舞うことになった。
寮の各部屋には小さなキッチンがあり、IHクッキングヒーター、オーブンレンジ、小型の冷蔵庫が備え付けられている。
夕食後に自室のキッチンでチーズケーキを焼いた最上は、その出来に暗澹たる面持ちとなり、2階にある特別対策官の童子将也の部屋を訪れた。
すると、先に集まっていた塩田たちが「待ってました!」と笑顔で出迎え、最上は両手で皿を持ったまま、ますます身を縮こませた。
「最上が一生懸命に作ってくれたんや。それだけで旨いわ」
人数分の取り皿とフォークを用意した童子が、穏やかな声音で言う。
5人は木製の丸テーブルを囲んで座り、切り分けたチーズケーキを口に運んだ。
「……あれ? 意外と旨い!」
「うん。焦げた部分さえ除ければ、全く問題ない。これはイケるな」
「こんなに美味しいチーズケーキ、初めて食べた」
手作りのチーズケーキを頬張った高校生たちが、次々と感想を述べる。
最上が「本当? 気を遣ってない?」と訝しんで訊くと、二頭の虎がプリントされたTシャツを着た童子が「ほんまに旨いで」と笑った。
「……よかった。でも、なんで失敗しちゃったんだろう? 小学生の頃から家で何度も作っていて、いつも上手く焼けてたのに……」
最上の呟きに、鷹村が反応する。
「それは、ここのキッチンと最上の家のオーブンレンジが違うからだろうな。使い慣れていないレンジだと、熱の伝わり具合の癖なんかがわからないから、失敗に繋がりやすい。そういった癖や焼きムラの有無を確かめる為に、一度天板にクッキーを敷き詰めて焼くといいぜ」
「……そうかも。鷹村、やけに詳しいわね」
「俺も児童養護施設にいた時に、よく焼き菓子とかを作ってたからな」
鷹村の言葉に、雨瀬が「哲の作るバナナマフィンは、みんなの好物だった」とうなずいた。
ほどなくして最上が持ってきたチーズケーキはきれいになくなり、高校生たちは童子の淹れたコーヒーを飲んで一息ついた。
コーヒーカップを置いた塩田が、「あ! そうだ!」と声をあげてハーフパンツのポケットに手を入れる。
塩田は折り畳んだ紙を広げて、テーブルの上に差し出した。
「童子さん! これ、今度の土日の体験学習のプリントです!」
折り目のついたA4サイズの用紙には、『木賊第一高校・体験学習の開催について』と表題が記載されていた。
「童子班」の高校生4人が通う木賊第一高校は、毎年7月中旬に1泊2日の体験学習を実施している。
一年生の生徒たちは「牧場」、「果樹園」、「寺」、「キャンプ」の4コースから、好きなコースを選んで参加することになっていた。
「お前らは、キャンプにしたんやったっけ?」
童子がプリントに目を通しながら訊き、塩田が「そうっスー!」と答える。
「奥多摩の山間でキャンプ! 飯盒炊さん楽しみ!」
「確か、一番人気は果樹園だったわね。次点が牧場とお寺で、キャンプはあまり人気がなかったわね」
「俺は寺とキャンプでけっこう迷ったな。まぁ、今回はキャンプでいいかな」
「泊まりで行くから、任務を休むことになりますけど……すみません」
最上と鷹村が言い、雨瀬がぺこりと頭を下げた。
童子は片手を伸ばし、雨瀬の白髪をくしゃくしゃと掻き混ぜて言った。
「学生時代にしか経験できへんことがある。みんなで、思いきり楽しんでこい」
翌日。午前9時。
インクルシオ東京本部の最上階の多目的室で、南関東エリアの拠点の支部長を招集した臨時会議が開かれた。
多目的室の会議テーブルにはインクルシオ総長の阿諏訪征一郎と本部長の那智明を始め、東班チーフの望月剛志、北班チーフの芥澤丈一、南班チーフの大貫武士、西班チーフの路木怜司、中央班チーフの津之江学が着席し、更に立川支部、横浜支部、さいたま支部、千葉支部の支部長が顔を揃えた。
臨時会議では那智が反人間組織『キルクルス』の台頭について話し、今後の各拠点の捜査の徹底と情報の共有を指示した。
会議終了後、エレベーターホールに向かう通路の途中で、立川支部の支部長の曽我部保が、大貫と芥澤に「よぉ」と声をかけた。
立川支部は23区を除く東京都全域を管轄する支部で、東京本部とは常に緊密な関係にある拠点である。
「大貫。芥澤。久しぶりだな。お前ら、いつ見てもむさ苦しい顔してるな」
「そっちの方がむさ苦しいだろうが。クソが」
昔から反りの合わない曽我部と芥澤に、大貫が「まぁまぁ」と苦笑する。
インクルシオの黒のジャンパーを着た芥澤が、顔を大仰に顰めて言った。
「曽我部よ。最近、『トレデキム』が随分と暴れてんじゃねぇか。八王子のライブハウス襲撃事件では対策官が何人か怪我したようだし、壊滅に手こずってんのかよ?」
「おいおい。芥澤。聞こえの悪いことを言うなよ。うちはうちでちゃんとやってるんだ。放っとけよ」
「放っとけるかよ。『トレデキム』のリーダーの卯田恭介は、あの『イマゴ』との繋がりが疑われてんだ。とっとと捕まえて、その真偽を吐かせろよ」
「ハッ。お前、そんなガセネタを鵜呑みにしてるのか? 『トレデキム』は13人の小規模な反人間組織だぞ? 『イマゴ』との関係があるなんざ、卯田がフカしてるだけに決まってる」
「ああ? 何を根拠にそんなこと言ってんだ?」
「お前こそ」
芥澤と曽我部が声音を尖らせて、ギリギリと睨み合う。
二人の周囲に剣呑な空気が漂う中を、路木が「お二人共。相変わらずですね」と一瞥して去っていった。
大貫が「そう言えば」と明るい声を出して話題を変える。
「曽我部。今度の土日に、うちの班の新人対策官の高校生4人が、体験学習で奥多摩にキャンプに行くんだ。何かあったら、助けてやってくれ」
ダークグレーのスーツを着た曽我部が、大貫をぎろりと見やる。
「大貫。いくら新人でも、そいつらは正式な対策官だろう? 仮に何かあったとしても自分たちで対処しろよ」
「まぁ、そうなんだが……。やっぱり心配でな」
「過保護かよ。そんなんじゃ、立派な対策官が育たないぞ」
曽我部は大きくため息を吐くと、「無駄話をしすぎた」と言ってエレベーターホールに歩き出した。
その背中を見送った芥澤が、「相変わらず、クソムカつく野郎だぜ」と毒づく。
大貫は小さく笑って、すぐに口元を引き締めた。
声のトーンを落として、真剣な表情で言う。
「……『キルクルス』はもちろん、『イマゴ』も『トレデキム』も必ず壊滅しなければならない。各拠点と協力し合って、しっかりと捜査していこう」
大貫の言葉に、芥澤は「ああ」とうなずき、二人は長い通路に足を踏み出した。




