01・キルクルス-I
──あれは、中学校に入ってすぐのことだった。
たまたま覗いたインターネットの掲示板で、ある“存在”が話題になっていた。
僕はその“存在”を知った途端に強い興奮を覚え、急いでナイフを用意し、思いきり自分の額に突き刺した。
だけど、なかなか思うように深く刺さらなかったので、ナイフを眉間に当てて壁に頭突きをしてみたけれど、痛みと眩暈が酷くて途中で断念した。
結局、インターネットの掲示板で募集をかけて、素性も知らない誰かに刺してもらい、僕の高まりきった興奮は暗転と共に漸く鎮まった。
そして、ぱちりと目が覚めた時、僕は腹を抱えて笑った。
笑いすぎて何度も嘔吐いた。
顔中が血と涙と涎に塗れていたけれど、そんなことは全く気にせずに笑い続けた。
恍惚とした理想と空想が現実になった。
僕は生まれて初めて、この上ない幸せを感じた。
7月上旬。東京都蘇芳区。
澄み渡った青空が広がる快晴の日曜日。『厚生省特殊外郭機関インクルシオ』東京本部の南班に所属する「童子班」の5人は、“若者の街”として有名なスポットに遊びに来ていた。
「うわぁ〜! 竹ノ子通りは相変わらず人でごった返してるなぁ!」
ボーダー柄のTシャツに7分丈のカーゴパンツを履いた塩田渉が、狭い通りにひしめく人混みを見渡して驚嘆する。
鷹村哲、雨瀬眞白、最上七葉も、予想以上の人の多さに目を丸くした。
10日ほど前、反人間組織『マグナ・イラ』の壊滅に尽力した高校生たちは、未だに続くマスコミの取材攻勢に辟易しつつも、日々の任務に励んでいた。
そんな中、4人の指導担当である特別対策官の童子将也が「たまには、息抜きに遊びに行こか」と提案し、非番のこの日に全員で蘇芳区にやってきた。
トレンドの最先端を行く街は、明るく眩しい活気に満ちている。
最初は人出の凄まじさに面を食らっていた新人対策官たちは、色とりどりの通りを歩いているうちに自然に笑顔を浮かべた。
「このベビーピンクのスニーカー、可愛い」
「眞白ー。どっちのシャツがいいと思う?」
「どっちも似合ってる」
「このカバン欲しい! こっちの財布も! あそこのジーンズも!」
「虎がプリントされた服は、どこにあるんや?」
あちこちのショップを見て回った「童子班」の面々は、小腹が空いたところで“竹ノ子通り名物”のクレープを購入した。
歩道に設置されたガードレールに腰掛けて、童子と鷹村が話す。
「甘いモンもええけど、たこ焼きとか食いたいな」
「ああ。たこ焼きもいいですね。この辺に売ってるのかな?」
童子の隣で、チョコバナナクレープを齧っていた雨瀬がぽつりと呟いた。
「……たこ焼きは、童子さんが作るのが一番美味しいです」
「なんや、雨瀬? 持ち上げても何も出ぇへんぞ?」
童子が片手を伸ばして、雨瀬の癖のついた白髪をくしゃくしゃと掻き回す。
雨瀬は体を揺らして「本当です」と小さく言った。
木製のベンチに座った最上が、前方の建物をじっと見つめる。
そこには、中高生に人気の高いプリントシール専門店があった。
最上の眼差しに気付いた塩田が「みんなで、プリ撮ろうぜ!」と言って、ベンチから立ち上がる。
クレープを食べ終えた5人は、ファンシーな外観の専門店に足を踏み入れた。
「こういうの、初めて撮るな」
「うん。なんだか、緊張する……」
「カメラ位置が自由に動かせるのね。背景はどれを使おうかしら。撮影が終わったら、落書きブースの加工で盛れるだけ盛って……」
「童子さん! 変身ヒーローのポーズしましょうよ!」
「ええで。手をクロスさせよか」
最新のプリントシール機でワイワイと撮影し、数分後にシールが出来上がった。
「童子班」の全員で写ったシールを手にした最上は、嬉しそうに顔を綻ばせた。
その後、5人はファッションビルや雑貨店等を回り、大通りにあるハンバーガーショップで遅い昼食をとった。
ハンバーガーショップを出ると、通りの先の人だかりが目に入った。
大勢の人々が集まった場所では何かの撮影をしている様子で、カメラマンの指示を聞く少女が見える。
「……あれ、茅入姫己じゃね?」
額に手をかざして、塩田が言った。
鷹村が「誰?」と訊くと、最上が「今人気の読者モデルよ。確か、中学2年生くらいの子」と答えた。
撮影は短時間で終了し、さらさらとしたロングヘアが印象的な少女は、関係者に連れられて白のバンに乗り込んだ。
「なんだ。もう終わりかぁ」
爪先立ちをして見ていた塩田が、残念そうな声を出す。
童子がスマホの時計に目をやって、「そろそろ帰ろか」と高校生たちに告げた。
「童子さん。寮に戻ったら、トレーニング棟で近接格闘の練習相手をしてもらえませんか?」
童子の横に並んで申し出た鷹村に、塩田が「あ! 俺も俺もー!」と便乗する。
「ええで。お前らがヘトヘトになるまで相手したるわ」
童子が穏やかに笑って了承すると、5人は駅に向かって歩き出した。
ふと、雨瀬は後ろを振り返った。
白のバンのスモークガラス越しに、先ほどの少女──茅入姫己と目が合った気がした。
午後11時。埼玉県所沢市。
獅戸安悟の足元に、頭部の潰れたサラリーマンが崩れ落ちた。
獅戸は五指に付着した血を払い、薄暗い公園の柵に背を凭せる。
節ばった指を折って、ゆっくりと数を数えた。
「神奈川で7人。千葉で5人。埼玉で8人。今日一日で、けっこうやったな」
公園の道路脇に停めた愛車のオートバイに目をやり、獅戸は満足げに言う。
ジーンズの尻ポケットに手を伸ばして、スマホを取り出した。
「そろそろ腹が減ったな。どっかでラーメンでも食って帰るか。この近くに、旨い店はあるかな」
そう独りごちると、獅戸は赤黒い血溜まりの中で、鼻歌交じりにグルメサイトの検索ボタンをタップした。
同刻。東京都立川市。
半井蛍は、鈍く光るナイフをデイパックにしまった。
半井の目の前には、黒のツナギ服を着たインクルシオ対策官が血を流して倒れている。
地面に落ちていた黒革製の対策官証を拾い上げると、そこには『インクルシオ立川支部』と記載されていた。
(………………)
半井は何の感慨もなく、対策官証を地面に戻した。
肩に掛けたデイパックには、昼間に指定店で購入したばかりの、明日から通う新しい高校の制服が入っている。
(……明日は早めに登校するんだった。もう帰ろう)
半井はナイフと制服で膨らんだデイパックを肩に担ぎ直すと、ひと気のない商店街の裏通りを後にした。
同刻。東京都蘇芳区。
茅入姫己は、シャワーを浴びて服を着た。
所属するモデル事務所を出た時に、茅入の熱烈なファンだという男性が声をかけてきた。
しつこく付きまとわれたので、茅入が誘って近くのホテルに入った。
20代後半と思われる男性は、華奢な両手で頚椎を握り潰すと、あっという間に事切れた。
茅入は骨の折れる音が好きで、男性が絶命した後も身体中の骨を折り続けてその音色を愉しんだ。
「じゃあね。バイバイ」
キャンバス生地のトートバッグの中から、マスクを取り出して耳にかける。
茅入は美しいロングヘアを靡かせて、悠々と部屋を出た。
午前2時。東京都不言区。
児童養護施設「むささび園」の門柱には、『閉園』のプレートが掛かっていた。
施設長の高齢による体力の衰えと、資金繰りの困難さで1年半前に閉園した施設の建物は、ひっそりと静まり返っている。
その地下にある物置部屋で、乙黒阿鼻はスマホをスクロールした。
ニュースサイトに続々と殺人事件の報道が掲載される。
不意に電子音が響き、スマホの画面にメッセージが表示された。
『ニュース見た? みんな、派手にやってるね』
『そうだね。ところで、彼は元気かい?』
『ああ。彼の体調はいいよ。とても安定してる』
乙黒は目を細めると、『それはいいね。じゃあ、近々みんなで集まろうか』とメッセージを送った。
数秒と経たないうちに、相手から『オーケー』と返事が届く。
乙黒のいる物置部屋に窓はなく、細い月明かりさえ届かない。
吸い込まれそうな常闇の中で、乙黒はゆったりと口角を上げた。