03・遭遇
──『グラウカ』は、人間をはるかに凌駕する身体能力と再生能力を持つ。
その拳はコンクリートブロックを粉砕する超パワーを持ち、身体中のどこを損傷しても驚異的な再生力で短時間に修復してしまう。
しかし、グラウカは“不死身”の生物ではない。
それらの能力の源となっている『アンゲルス』の分泌を絶てば、グラウカは死亡する。
(……即ち、脳下垂体を破壊すればこいつらは死ぬ!)
東京都不言区の公園で、インクルシオ東京本部の南班に所属する樋口勇樹は、腰に提げた黒皮製の鞘に手をかけた。
樋口の眼前には、反人間組織『アダマス』の三兄弟が立っている。
(……いや。相手は3人だ。俺ひとりではやられる。ここはいったん引いて応援を呼ばなくては)
樋口は大柄な男たちを見据えながら、自分の置かれた状況を冷静に判断した。
樋口の足元には同僚の古関大地の亡骸が横たわっている。
共に戦ってきた仲間の無残な姿に、樋口は唇を強く噛んだ。
「どうした? 鞘に手がかかったままだぞ? さっさと抜きなよ」
『アダマス』のタトゥーを両肘に入れた剛木弍太が挑発するように笑った。
「…………」
樋口はじりじりと後ずさり、走り出すタイミングを見計らう。
その時、額にタトゥーを入れた剛木三太が「あっ!」と声をあげた。
「そうだ。お前んとこにグラウカの対策官がいるだろ? そいつの名前と外見の特長を教えてくんねぇ?」
「!」
樋口は目を見開いた。後ずさっていた足が止まる。
(グラウカの対策官といえば雨瀬のことか? 一体、なぜ……)
樋口の顔に浮かんだ疑問に、三太がニヤニヤと笑って答えた。
「そんなの決まってんだろ。“裏切者”は、始末するんだよ」
「……っ!!!」
「お仲間の情報を素直に吐けば、お前は見逃してやってもいいぜぇ?」
三太がいやらしく口角を上げる。
樋口の頭に瞬時に血がのぼった。
「インクルシオを舐めるなっ!! 誰が貴様らなどに言うものかっ!!」
樋口は大声で叫ぶと、鞘からブレードを抜いた。
インクルシオの刻印の入った黒の刀身が、煌々と照らす月明かりの下に現れた。
翌日。東京都月白区。
インクルシオ東京本部の最上階の会議室で緊急の幹部会議が開かれた。
時刻は午前7時を少し回ったところだった。
楕円形の会議テーブルに慌ただしく着席したのは、インクルシオ総長の阿諏訪征一郎、60歳。本部長の那智明、55歳。中央班チーフの津之江学、52歳。東班チーフの望月剛志、54歳。北班チーフの芥澤丈一、53歳。南班チーフの大貫武士、53歳。西班チーフの路木怜司、47歳──の7名であった。
組織の中核を担う人物たちを前に、本部長の那智が口を開いた。
「つい先ほど判明した情報によると、公園近くに設置された防犯カメラの映像から、南班の古関大地と樋口勇樹を殺害したのは反人間組織『アダマス』と断定された」
「……クソが……。あいつら顔を隠す気なんてないからな。おそらく、わざと防犯カメラに写りやがったんだ」
大貫の隣に座る芥澤が、資料をテーブルに放って低く呻る。
大貫は沈痛な面持ちで両手の指を組んだ。
資料に目を落としていた路木が手を上げた。
「……この現場写真。古関が頭部のみを潰されているのに対して、樋口は致命傷以外に左手の指を3本折られていますよね。これは何か意味があるんでしょうか」
「クソ共がいたぶって遊んだんだろ」
「うん。『アダマス』はそういう連中だよ。特に対策官には惨い仕打ちをする」
芥澤と望月が苦々しく答え、路木は「確かに」と納得する。
那智が大貫に訊ねた。
「大貫。『ピエタス』の聴取の方はどうなっている?」
大貫は顔を上げて、重たい声を絞り出す。
「昨夜遅くに、リーダーの男が『アダマス』との繋がりを認めました。しかし、『アダマス』の拠点だという不言区のラーメン店に対策官を向かわせましたが、すでにもぬけの殻でした」
「まぁ、そうでしょうね。奴らの尻尾を掴むのは容易じゃない」
津之江が顎を手で撫でながら言った。
芥澤が「クソが」と歯噛みをし、那智が「総長」と阿諏訪に目を向ける。
阿諏訪は手にした資料を静かにテーブルに置いた。
各班のチーフたちが阿諏訪に注目する。
阿諏訪は鋭く前を見据えて言った。
「なんとしても『アダマス』を見つけ出して壊滅しろ。それが、殉職した対策官への唯一の手向けだ」
短く発せられた阿諏訪の言葉に、その場の全員がしっかりと首肯した。
「樋口さんと古関さん……。強くて優しい先輩だったのに……」
東京都木賊区のガード下で、塩田渉が小さく呟いた。
「……うん」
塩田の隣を歩く雨瀬眞白が紐の緩んだスニーカーに視線を落とす。
インクルシオ東京本部の南班に所属する高校生4人は、普段は木賊区にある木賊第一高校に通っている。
この日、鷹村と最上はクラスの用事があり、雨瀬と塩田は先に下校していた。
「……そりゃあさ。対策官ってのはそういう仕事だよ。いつ誰が死んでもおかしくない。それは分かってるし覚悟もしてる。でもさ……やっぱり……昨日まで顔を合わせてた人が急にいなくなるのはさ……なんかさ……」
塩田の声音に悲しさとやるせなさが滲む。
雨瀬は黙ったまま、肩に掛けた学生鞄の紐を強く握り締めた。
「お前が、雨瀬眞白?」
すると、ガード下のトンネルの入り口に、一人の男が現れた。
「癖のついた白髪。痩せ型。木賊第一高校の生徒。よしよし。どうやら、お前で合ってるな」
「──!!!」
男の姿を見た雨瀬と塩田は、両目を瞠って戦慄した。
二人の目の前に出現した大柄な男は、三つのダイヤモンドと“ADAMAS”の文字のタトゥーを額に刻んだ──反人間組織『アダマス』の剛木三太だった。
「……ア、ア、ア、『アダマス』……!!!!」
塩田が引きつった声を喉から押し出す。
無意識に腰まわりを手で探ったが、そこにはインクルシオ対策官の武器であるブレードもサバイバルナイフもない。
塩田のこめかみにどっと汗が流れた。
「──!」
一瞬、塩田の視界に何かが映った。
それは、学生鞄を歩道に投げ捨てた雨瀬の背中だった。
雨瀬はアスファルトの地面を蹴り、高い跳躍力で三太との距離を一気に詰めた。
空中で大きく腰を捻り、左足で三太の右側頭部に蹴りの一撃を狙う。
だが、三太は雨瀬が繰り出した渾身の蹴りを片手で難なく受け止めると、そのまま足首を掴んで地面に叩き落とした。
「……ぐ、ぅっ……!!!」
アスファルトに強かに背中を打ち付けた雨瀬は呻き声をあげる。
しかし、雨瀬は苦痛に顔を歪めながらも、両腕を伸ばして三太の首根を掴んだ。
同時に三太も雨瀬の細い首筋を右手で鷲掴む。
「……この、“裏切者”のクソガキがぁっ!!!!」
「……くっ……あ、あああぁっ……!!!!」
薄暗いガード下のトンネルに、雨瀬の頚椎が砕ける鈍い音が響いた。
塩田は必死の形相で「武器! 武器!」と周囲を見回す。
三太の五指が皮膚を突き破って食い込んだ雨瀬の首筋から、もうもうと白い蒸気が上がる。
雨瀬は朦朧とする意識を歯を食いしばって繋ぎ止めると、「塩田君……! ここから逃げて……!」と叫んだ。
──その時。
三太の体に誰かが勢いよく体当たりした。
三太と共に地面に転がった人物は、すかさずに立ち上がって雨瀬の左手を掴む。
「……哲!!!」
「武器なしじゃ無理だ!! 逃げるぞ!!」
大声で怒鳴った鷹村哲は、雨瀬の学生鞄を拾い上げて元来た道を走り出した。
制服のスカートを翻した最上七葉が、「走って!!」と塩田の腕を力強く引っ張る。
高校生たちはあっという間にガード下の向こうに走り去っていった。
三太はジーンズに着いた埃を払い、ゆっくりと立ち上がる。
雨瀬に掴まれた首根がズキズキと痛んだ。
「……ハッ。思ったよりやるじゃねぇか、あの白髪のガキ。こりゃあ、インクルシオの人間共と一緒にしっかりと潰さねぇとなぁ」
そう言うと、三太は大股に歩き出した。口元には笑みが浮かんでいる。
三太はジーンズのポケットに両手を入れて、楽しそうに独りごちた。
「今日のところは挨拶だ。まだまだ遊びは始まったばかりだぜ」
インクルシオ東京本部の新人対策官である高校生4人は、人通りの多い商店街まで走った。
客で賑わうファストフード店に入り、最上がスマホでインクルシオに連絡を入れた。
ほどなくして、近くを巡回していた数名の対策官が駆け付け、高校生たちを東京本部に送り届けた。
その後、南班の対策官全員を招集した緊急会議が開かれた。