11・本当の幸せ
──これは、何だろう。
理由はわからないが、突然、昔の思い出が脳裏に浮かんだ。
こんな時に呑気だな、と思ったが、こんな時だからかもしれない。
今から15年前。
当時、小学4年生だった俺──乾エイジと、幼馴染で同学年の穂刈潤は、東京都立川市にあるグラウカ支援施設「ひまわり苑」で生活をしていた。
そこに児童福祉司として勤務していた韮江光彦先生は、“グラウカ”というだけで学校の同級生からいじめを受けていた俺たちに、『グラウカ至上主義』の思想をこっそりと説いた。
『いいことを教えてあげる。暴力はね、“人間”相手なら振るってもいいんだ』
そんな韮江先生の過激で危険な思想に、潤はキラキラと目を輝かせて、底のない沼に嵌まるように傾倒していった。
「エイジ! 人間はグラウカよりも能力が劣っている生き物だから、仲良くしなくてもいいし、殺してもいい、それが弱肉強食の自然の摂理なんだって、すごく驚いたね!」
潤は大いに興奮し、頬を紅潮させて言った。
「韮江先生の教えは、僕の“虐げられてきた自尊心”を蘇らせてくれたよ! どんなにいじめられたって、仲間外れにされたって、グラウカであることを誇りに思っていいんだ! この世の真の支配種として、堂々と生きていいんだって!」
両手をブンブンと振って喜ぶ潤を前にして、俺は「うん」と返した。
本当は、俺はそこまで韮江先生の思想に共鳴をしなかったけれど、潤に嫌われたくなくて、距離を置かれたくなくて、共に心酔しているフリをした。
それから、俺は潤の意見や、潤がやりたいことを全て肯定し、あいつが進む『道』の後を黙ってついてきた。
(……そんな自分の生き方を、俺は納得しているつもりだった。だけど……)
ふと、韮江先生の思想に染まる前に、潤が言った言葉を思い出す。
あれは、二人で町内の散歩に出掛け、歩道に咲いた一輪のムラサキカタバミを見つけた時のことだった。
『僕にはエイジがいる。そして、エイジには僕がいる。血が繋がった家族ではないけれど、この花のように一人きりじゃない。これって、すごく幸せなことだよね』
そう言って、潤が優しく笑い、俺は泣きそうになった。
『4歳児検診』でグラウカと判明したことが原因で両親に捨てられ、その深い悲しみと孤独感の中で、互いに慈しみ合い、支え合える唯一無二の存在。
(……同級生にいじめられても、親がいなくても、流行りのゲーム機を買えなくても、いつも腹が減っていても。潤が側で笑っていれば、俺はそれだけで……)
長い間、心の奥底に沈殿していた本音が、ふわりと舞い上がる。
たとえ、『グラウカ至上主義』の思想に救われなくとも、反人間組織を作って人間に力を誇示しなくとも、俺が求める“本当の幸せ”は──。
(……ああ。今更、こんなことを思うなんてな……)
懐かしい記憶に揺蕩っていた意識が、厳しい現実にフォーカスする。
俺は胸に小さな痛みを感じながら、顔を上げて、無理矢理に笑みを浮かべた。
東京都乙女区。
午後3時半を少し回った時刻、グラウカ収監施設『クストス』の5階の北側にある通路で、反人間組織『イマゴ』のNo.2の乾エイジは、にぃと口角を上げた。
「いやぁ。インクルシオNo.1の特別対策官のお出ましか。こうして顔を合わせるのは、初めてだな」
「……お前は、『イマゴ』のNo.2の乾エイジやな。ついでに言えば、インクルシオのキルリストの個人1位に載る男でもある。ここで会うたのは幸運や。お前を屠らせてもらうで」
短髪を燻んだシルバーブルーに染め、裾の長い上着を羽織った乾が軽い口調で言い、その数メートル先に立つ人物──インクルシオ東京本部の南班に所属する特別対策官の童子将也が、前を見据えて低く返す。
「おお、怖いな。これまでに多くの同胞を倒してきた百戦錬磨の男にそう言われると、さすがにビビるね。だけど、俺はそんなに簡単にはやられないぜ?」
乾は冗談めかして言うと、収容エリアの通路に面して並ぶ収容部屋の一室に、するりと身を滑り込ませた。
「……狭い室内で、交戦をするつもりか」
黒のツナギ服を纏い、両腿に2本のサバイバルナイフを装備した童子は、乾が消えた部屋のドアに向かって走り出す。
すると、童子の右側に位置する壁が、突如としてドォンという大きな音を立てて崩れ、その内側から乾の右脚が現れた。
「──!」
童子は咄嗟に上体を反らし、眼前に迫ったブーツの爪先を避ける。
乾はそのまま連続で強烈な蹴りを繰り出して、収容部屋の壁を横方向に破壊し、童子はその猛スピードの攻撃に合わせて体を後退させた。
まもなく、ロの字型をした建物の長い通路は、足の踏み場もない程に壁の残骸が散乱し、大量の埃で白く煙る。
4人一部屋の収容部屋にぽっかりと開いた穴から、乾が通路に出て言った。
「はは。さっきの不意打ちの一撃を、既のところで避けるとはね。なるほど、凄い反射神経だ。こりゃあ、インクルシオNo.1の看板はダテじゃないな」
「……『クストス』の強化建材で作られた壁を、いとも容易く蹴破るとは。俺が今までに交戦したグラウカの中でも、屈指のパワーやな」
乾が切れ長の双眸を細め、童子が鋭い眼光で見返す。
童子は「せやけど」と言って手を動かし、右腿のホルダーの留め具を外してサバイバルナイフを抜いた。
「今の一連の攻撃で、お前の“最優先“の目的が俺を足止めすることやとわかった。俺がここに来る直前、お前を含む3人の影が窓から見えた。おそらく、あとの二人は、『イマゴ』のリーダーと韮江光彦やろう。お前が派手に壁を壊して俺を後退させたんは、その二人が逃げた方向……北側の内階段に行くのを阻む為や」
「……!」
童子の言葉に、乾が僅かに表情を強張らせる。
「せやったら、この後も、お前は別の収容部屋に入って壁を壊しつつ、俺との距離を取って戦うはずや。そんな無駄な時間稼ぎをさせるわけにはいかへん。お前が正面から来うへんのなら、俺は今すぐにあの二人を追うで」
そう言うと、童子は瓦礫を踏んで前に駆け出した。
「……チッ。俺の目論みを看破したか。本当は、潤と先生が外に出た頃合いを見計らって、俺も逃走するつもりだったが……。こうなったら、インクルシオNo.1を倒すしかない。全く、人生は甘くないなぁ」
乾は顔を歪めて自嘲し、黒革のパンツの尻ポケットから折り畳みナイフを取り出して、目の前に迫り来る童子を迎え撃つ。
まずは凄まじい破壊力を誇る蹴りを出し、間髪入れずに、宙に翻った上着の裾の陰からナイフを数回突き出したが、童子はその攻撃をことごとく躱して、一気に乾の懐に踏み込んだ。
(……あぁ、やっぱり。ほんの一瞬で、勝負は決したか)
唐突に自身の死を悟った乾の眉間を、渾身の力を込めた黒の刃が貫く。
グラウカの弱点である脳下垂体が正確に破壊され、乾は声をあげることなく、ゆっくりと仰向けに倒れた。
周囲に埃が舞い、弱々しい白い蒸気が天井に上がる。
急速に薄れていく意識の中で、穂刈の笑顔が心に浮かんだ。
(……潤……。俺は、お前の支え方を間違っていた……。もし、もう一度……二人で道端の花を愛でたあの頃に戻れるのなら……。今度こそは、俺がお前の手をしっかりと引っ張って……“人”としての『正しい道』を……、“本当の幸せ”を……)
乾の半分閉じかけた目から、一筋の涙が流れる。
その後悔と希求が混じった水滴は、窓から差し込む光を反射して、静かに床に落ちた。