03・求める者と拒む者
──俺は、記憶にある限り、父さんに名前で呼ばれたことがない。
ましてや、笑顔を向けられたり、抱き締められたこともない。
一方、母さんはそれとは正反対で、俺が欲するものを全て与えてくれた。
いつだって笑顔を向け、名前を呼び、温かな腕で抱擁した。
だからこそ、俺は余計に父さんからの愛情の欠乏感に苦しみ、どうしてもそれが欲しいと、強く強くこいねがうようになった。
俺が小学校に上がる時、父さんと母さんが離婚した。
それまでの苗字の「路木」から「真伏」になった俺は、心の中で父さんへの思慕をますます深めた。
当時、すでに父さんはインクルシオ東京本部に勤務しており、俺は中学生になるや否や、埼玉県にあるインクルシオ訓練施設に入った。
年上ばかりの訓練生の中で、トップの成績を取り、2年後に正式なインクルシオ対策官となる資格をもぎ取った。
配属先は父さんがチーフを務める東京本部の西班を希望し、運良くそれが叶った。
配属初日、真新しい黒のツナギ服に身を包んだ俺は、数年振りに父さんに会えることが嬉しくて、ドキドキと胸を高鳴らせて執務室のドアを開けた。
「──お久しぶりです! お父さん! 息子の隼人です!」
頬を紅潮させて挨拶をした俺を、執務机についた父さんは無表情で見やった。
そのまま、すぐにノートパソコンに視線を落とす。
「今日から任務につく、新人対策官の真伏か。指導担当をつけるから、なるべく早く仕事の内容を覚えるように」
「……は、はいっ!」
「それと、ここは職場だ。個人的な間柄は関係がない。わかったな」
父さんはキーボードを叩いて抑揚のない声で言い、俺は「……あ、し、失礼しました! 以後、気を付けます!」と慌てて返事をした。
途端にいたたまれない気持ちが湧き、ぎこちのない動きで執務室を辞する。
退出の際にちらりと盗み見た父さんは、ドアが閉じ切る最後まで、冷たく静かな表情を崩すことはなかった。
正午。東京都月白区。
インクルシオ東京本部の1階のエントランスホールで、西班に所属する特別対策官の真伏隼人は、ふと顔を上げて声を発した。
「路木チーフ。お疲れ様です。これから、昼食ですか?」
偶然に真伏の前を歩いていた西班チーフの路木怜司が立ち止まり、振り向いて「ああ」と答える。
外部からの訪問客や職員が出入りする場所で、真伏は路木の側に歩み寄った。
「俺も、昼食に出ようとしていたところなんです。今朝は食欲がなくて朝食を取らなかったんですが、さすがにこの時間になると腹が減ってしまって」
「そうか」
路木の能面のような容貌を見ながら、真伏が懸命に話しかける。
すると、二人の後方から、よく知る複数人の声が聞こえた。
「俺、今日はコンビニ弁当にするわ。何か甘いデザートも付けちゃおうかな」
「僕もそうしよう。ミートドリアとサラダと飲み物と……」
「俺は、いつもの立ち食いそば店に。かき揚げ天のサービス券があるから、これを使って豪勢にしよう」
真伏が目を向けると、黒色のジャンパーを羽織った東班チーフの望月剛志、中央班チーフの津之江学、南班チーフの大貫武士が、ぞろぞろと歩いてくる。
スラックスのポケットに両手を入れた北班チーフの芥澤丈一が、エントランスホールに立つ路木と真伏に気付いて声をかけた。
「よう。お二人さん。たまには、親子で一緒にランチしてきたらどーだ?」
芥澤が口にした“親子”というワードに、真伏は内心でどきりとする。
チーフ4人は「じゃあ、お先にー」と二人の脇を通り過ぎ、真伏は乾いた唇を湿らせて、思い切るように路木に向き直った。
「路木チーフ。よかったら、昼食をご一緒してもいいですか?」
「……いや。今日は、一人で食べたい」
しかし、路木はにべもなく断り、真伏は「そ、そうですか……」と落胆した。
顔をうつむけた真伏を見やって、路木が薄い唇を開いた。
「真伏。以前にも言ったが、俺に父親としての“何か”を求めるのはやめろ。お前がどんなに期待しても、俺は“それ”を与えることはできない」
「……い、いえ。俺は、ただ……その……」
真伏は返事に窮して、歯切れ悪く口ごもる。
路木は真伏からすっと視線を外し、背中を向けると、外光が差し込むエントランスを出ていった。
午後5時半。
東京本部の3階にある対策官用のオフィスで、南班に所属する「童子班」の5人は、有名パティシエの店舗のロゴが入ったチョコレートを口に入れた。
「おお。すげぇ。一粒は小さいのに、口の中でぶわっと旨味が広がる」
「本当ね。カカオの風味とコクがすごいわ。やっぱり、有名店の物は違うわね」
「こんな高そうなチョコ、初めて食べた……。美味しい……」
「うん! マジで旨い! でも、こないだの最上ちゃんのガトーショコラは、これに負けないくらいに絶品だったよ!」
各々のデスクの椅子に座った高校生4人──鷹村哲、最上七葉、雨瀬眞白、塩田渉が順に感想を述べ、黒のツナギ服を纏った特別対策官の童子将也が「ご馳走さんでした。旨かったです」と言う。
「童子班」の面々の前には、中央班に所属する特別対策官の影下一平がおり、目の下に浮かぶ隈を指先で掻いた。
「みんなに喜んでもらえて、よかったよぉ。このチョコは、俺のバイト先の店長の奥さんがくれたんだけど、一人で食べるのは勿体ないからねぇ」
「え? その奥さん、もしかして影下さんにホの字っスか??」
塩田が興味津々の顔で訊き、影下が「いやいや〜。毎年、バレンタインの時期に、従業員全員に配ってるんだってぇ〜」と笑って返す。
わいわいと明るい雰囲気の中、影下は別の方向に目をやった。
「あのぉ〜。真伏さんも、お一ついかがですかぁ?」
そう言って、影下が「童子班」のデスクを離れ、オフィスの一角でノートパソコンを睨んでいる真伏に近付く。
真伏は画面に表示したグラウカ収監施設『クストス』の平面図を閉じて、「いらん」とそっけなく返した。
「ええ〜。とっても美味しいですよぉ? そんな、遠慮せずにぃ〜」
「いらんと言っているだろう。仕事に集中したいから、あっちに行け」
影下がチョコレートの箱を差し出すと、真伏が片手を振って追い払う。
アルバイト帰りで私服姿の影下は、「ちぇ〜。わかりましたよぉ」と渋々ながらにその場を退散した。
その時、真伏のデスクに置いたスマホが鳴った。
真伏がスマホを手に取ると、『BARロサエ』のオネエのママであるリリー──元西班の対策官の玉井理比人からのメッセージが着信していた。
『真伏。本当に、『クストス』襲撃計画に関わるつもりなのか? そんなことをすれば、お前は直ちにインクルシオの特別対策官という立場と職を失う。それだけではなく、もし捕まったら、間違いなく刑務所行きだぞ。それでもいいのか?』
普段のオネエ言葉から男口調に戻った玉井のメッセージを読み、真伏は暫し手中のスマホを見つめる。
ゆっくりと指を動かして、返信を打った。
『今回の襲撃計画が成功すれば、俺は穂刈にとって最大の功労者となる。穂刈が言った通り、奴は俺を『イマゴ』の幹部にし、大ボスに会わせるだろう。『イマゴ』の黒幕である大ボスの正体さえ掴めれば、奴らを完全壊滅に追い込める。この最大のチャンスを逃すわけにはいかない』
メッセージの送信ボタンを押して、真伏は目を閉じた。
少し離れた場所で、「童子班」の5人と影下が雑談をして笑い合う。
真伏は目を開くと、ノートパソコンを操作し、再び画面に『クストス』の平面図を表示した。