02・“鍵”の人物
午前1時。東京都木賊区。
繁華街の路地裏に佇むグラウカ限定入店の『BARロサエ』は、スチール製のドアに「CLOSED」のプレートを下げていた。
しんと静まった店の2階のビップルームでは、反人間組織『イマゴ』のリーダーの穂刈潤、No.2の乾エイジ、主要メンバーの一人であるオネエのママのリリーが、テーブルに置かれた1台のノートパソコンを囲んでいる。
淡い光を発する液晶ディスプレイの中には、全国に散って活動する『イマゴ』の5人の幹部──髪を赤色に染めた赤枝真矢、体重120キロの巨漢の友田太、銀行員で細面の土居佳成、スーパーのパート従業員でセミロングの髪を一つに束ねた早乙女京、左目の下に泣きぼくろのある玉井礼央が映っていた。
穂刈から緊急ミーティングの連絡を受け、グラウカ至上主義を説いた“恩師”の韮江光彦の病状を知らされた幹部たちは、鎮痛な表情で黙り込む。
緩いウェーブのかかった黒髪に丸メガネをかけた穂刈が、重たい沈黙を破った。
「……10年前、表の世界に顔が利く大ボスと手を組み、彼の要望であるグラウカの“特異体”探しに協力することで、韮江先生の『クストス』の収監期間を少しでも短くしようと頑張ってきた。でも、もうそんな悠長なことは言っていられない。先生の命は残り僅かだ。こうなったら、『クストス』を襲撃してでも先生を外に出すしかない。そして、僕は、先生が“最期を迎えるその日”まで、一分一秒でも長く側に居たい」
穂刈の掠れた声が、薄暗い室内に響く。
短髪を燻んだシルバーブルーに染め、裾の長い上着を羽織った乾が、切れ長の双眸を向けて言った。
「潤。その気持ちはわかるが、『クストス』は厳重なセキュリティシステムと鍛えられた刑務官に守られている。そこを襲撃するってのは、なかなか無茶だな」
「ええ。エイジ君の言う通りよ。『クストス』の正門にあたる大きく頑丈な扉は、一分の隙間もなく閉ざされている。もちろん、裏門も。映画やドラマなんかでは出入り業者を装って侵入する手があるけど、それでも中に入れるのはいいところ3〜4人よね? そんな少人数で収監者を外に連れ出すなんて、とても現実的だとは思えないわ」
乾に続いてリリーが否定的な意見を述べ、ノートパソコンの画面に映る幹部たちも、一様に難しい顔をする。
穂刈はテーブルに置いたコーヒーカップを持ち上げ、すっかり冷め切った液体を喉に流し込んで、鋭い眼光を放った。
「……この襲撃計画を成功させる為の、“鍵”となる人物がいる。彼に動いてもらう」
午前10時。
『イマゴ』の緊急ミーティングから一夜明け、人々の往来で街が活気付く頃、インクルシオ東京本部の西班に所属する特別対策官の真伏隼人は、『BARロサエ』のカウンター席に座っていた。
この日、真伏は非番であり、穂刈に呼び出されて韮江の病の件を知った。
また、穂刈は『クストス』の襲撃を企てていることを話し、更にその計画内容を密やかな声で打ち明けた。
「……これは、一般にも公開されているスケジュールだけど、『クストス』は平日の午後3時から午後6時までが収監者の自由時間だ。収監者たちは図書室で読書をしたり、レクリエーション室でゲームに興じたり、習い事をする為にカルチャー教室に行ったりする。この自由時間の間に『クストス』内部に侵入し、正門を始めとした建物内全ての出入り口の電子ロックを解除する。そして、全国から招集した『イマゴ』の構成員80人と僕らが、一気に中になだれ込む」
真伏の隣のスツールに座る穂刈が、熱を帯びた息を吐いて説明する。
「『クストス』に突入したうちの幹部と構成員は、中にいる刑務官と、通報を受けて駆け付けたインクルシオ対策官の相手をする。その間に僕とエイジが韮江先生を探し、見つけ次第、建物の外に出すというのが今回の襲撃計画の筋書きだ。……そこで、ここからが本題だけど、捜査機関側の人間として自然に『クストス』に入り、施設の職員に電子ロックの解除をさせることが出来るのは、君だけだ。この重要な役割を、もちろんやってくれるね? 真伏君」
そう言って、穂刈は有無を言わせぬ強い視線を向けた。
真伏は一拍の間を置き、慎重に口を開いた。
「……その襲撃計画に加担したら、俺が『イマゴ』の一員だと周りにバレてしまう。そうなれば、もう、インクルシオにはいられなくなる」
「ああ。そうだね。だけど、心配は要らないよ。韮江先生を無事に外に出すことができたら、君を『イマゴ』の幹部にする。それと、僕とエイジしか知らない大ボスにも、必ず会わせるよ」
「……………………」
穂刈が薄く微笑んで言い、真伏はカウンターの天板に目を落とす。
そのまま長い時間が過ぎ、やがて、「わかった」と低く承諾した。
午後9時。東京都月白区。
予報外れの雨が降り出した夜、東京本部の南班に所属する特別対策官の童子将也は、個人トレーニングのロードランニングを取りやめて道を引き返した。
インクルシオ寮のエントランスに着いた童子は、髪や肩に付いた雨粒を片手で払いながら、『211号室』で寛いでいる高校生4人に『雨で戻ってきたけど、一緒に筋トレするか?』とスマホのメッセージを送る。
すぐさまに高校生たちから『やります!』と返信が届き、5人はエントランスで落ち合うと、東京本部の敷地内に建つトレーニング棟に小走りで向かった。
2階に続く階段を上がって、ジャージ姿の塩田渉が言う。
「俺、ダンベルプレスと、ラットプルダウンと、レッグカールと、チェストプレスをするぜ! 目指せ、マッスル対策官!」
「バカか。そんなにできるわけがねぇだろ。ソッコーでバテるぞ」
「私はランニングマシンで、外の雨の景色を眺めて走るわ。雨瀬は?」
「僕も、持久力を付けたいから、ランニングマシンにするよ」
塩田の意気込みに鷹村哲が突っ込み、最上七葉と雨瀬眞白が和やかに話す。
童子が「筋トレはやり過ぎたらあかんで。程々にな」と笑い、様々なマシンが並ぶトレーニングルームのドアを開けた。
すると、雨の夜のせいか珍しくひと気のない室内で、唯一人、ベンチに腰掛ける真伏の姿が目に入った。
「……ま、真伏さん!! お疲れ様です!!」
高校生たちが即座に挨拶をし、童子が「お疲れ様です」と続く。
トレーニングウェアを着た真伏は、無言で眉間に皺を寄せて、首筋に流れる汗をスポーツタオルで拭った。
「さ、さーて! 筋トレ、頑張るぞー! どのマシンにしようかなー!」
塩田が殊更に明るい声をあげ、他の高校生3人がそそくさと動き出す。
真伏は顔を顰めたままベンチから立ち上がり、ドアに向かおうとした。
「真伏さん。顔色が悪いですよ。どないしました?」
「──……っ!」
童子がすれ違い様に声をかけ、真伏は肩を揺らす。
「……別に、どうもしない。ここの照明のせいで、そう見えるだけだ」
「そうですか? あいつら4人と比べても、大分肌が青白いですよ? もし、どこか体の不調があるんやったら……」
「何でもないと言っているだろうっ!!!」
童子の言葉を遮って、真伏が大きく怒声を発した。
広いトレーニングルームに散った高校生たちが、驚いて振り返る。
真伏は苛立った動作でドアを開けると、大股で立ち去り、童子はその後ろ姿をじっと見送った。