01・ハヤブサと不治の病
──あれは、今から24年前の冬の終わり。
大学時代に知り合った、聡明で慈愛に満ちた女性と結婚して2年が過ぎた頃。
美しい面差しの女性は男児を出産し、俺は父親となった。
昼下がりの太陽光が照らす産婦人科医院のベッドの上で、女性は元気よく泣く赤子を愛おしげに見つめて言った。
「……ねぇ。この子は、貴方の息子よ」
「………………」
その時は妻だった女性の囁きに、俺はどう返事をするのが適切なのかわからず、ただ黙って床に立ち竦んだ。
しかし、女性はそんな俺を怒ることはなく、声音に明るさを乗せた。
「この子の名前。貴方は私が決めていいって言ってたわよね? それで、今日まで色々と候補を考えていたんだけど、『隼人』ってどうかな?」
「………………」
「隼人というのは、元々は、大昔に薩摩地方に居住していた勇猛果敢な人々のことを指すらしいの。でも、そういった歴史的な意味からじゃなくて、単純に、私が空を飛ぶハヤブサを見るのが好きで。だから、ハヤブサの漢字と、人を合わせて隼人。直感だけど、この子はこの名前がいいわ」
母親となった女性は無邪気に笑って、隣の息子の頬を撫でる。
俺は特に感想が思い浮かばず、四角い部屋の窓に目を向けた。
すると、ガラス越しの青空に、一羽のハヤブサが舞っているのが見えた。
その姿はシャープで、知的で、どこまでも自由だった。
「……隼人……」
閉じていた口が無意識に開く。
そこから零れた名前は、確かに、男児に合っているように思えた。
2月中旬。
東京都月白区にある『厚生省特殊外郭機関インクルシオ』東京本部の南班に所属する「童子班」の5人は、反人間組織『キルクルス』のリーダーである乙黒阿鼻がグラウカの“特異体”と判明したことを受け、日々の捜査により一層の力を入れていた。
そんな中、バレンタインデーを目前に控えたこの日、非番の最上七葉はインクルシオ寮でガトーショコラを手作りした。
東班に所属する特別対策官の芦花詩織の部屋のキッチンで、最上は粗熱を取ったガトーショコラに粉糖を振りかけて、ほっと息を吐く。
「……よし。できた。我ながら、なかなか美味しそうだわ」
「ふふ。七葉ちゃんは、お菓子作りが上手だものね。きっと、「童子班」のみんなも喜ぶわよ。ところで、学校とかインクルシオとかで、誰か好きな人はいるの?」
最上と同じく非番の芦花が、東班の対策官に配るチョコブラウニーを透明な小袋に入れながら訊き、最上は「えっ?」と肩を揺らした。
「……あー、えっと、その……。正直に言うと、インクルシオ対策官になった最初の頃は、童子さんのことが好きでした。童子さん、強くてカッコイイのはもちろん、すごく優しい人だから……。でも、新人対策官として様々な任務にあたっていくうちに、今は恋よりも優先すべきことがあると気付いて……」
最上が睫毛を伏せて告白し、芦花が「そうだったの」と返す。
二人が立つキッチンがしんと静まり、最上はパッと顔を上げた。
「それに、今日、私がこれを作った理由は、バレンタインが近いからだけじゃないんです。……実は、最近、雨瀬と鷹村の元気がなくて。ただ単に疲れているだけかも知れませんが、美味しい物を食べて、二人に元気になって欲しいんです」
そう言って、最上は「さぁ。片付け、片付け」と動き出し、30分後に芦花の部屋を出た。
寮のひっそりとした通路を歩き、来慣れた『211号室』のドアをノックする。
途端にドアが勢いよく開いて、ラフな私服姿の塩田渉、鷹村哲、雨瀬眞白が、「待ってましたー!」「おお、ガトーショコラだ」「美味しそう」と口々に言って室内に招き入れた。
早速、8畳間に置かれたテーブルを囲んだ「童子班」の男性陣が、最上が切り分けたガトーショコラを堪能する。
「あー! チョコが濃厚しっとりでチョー旨い! さすが、最上ちゃん!」
「うん。これは絶妙な焼き加減だな。それに、中に入っているクルミやアーモンドが、食感のいいアクセントになっている」
「甘過ぎるのは苦手だけど、これならいくらでも食べられる……」
塩田、鷹村、雨瀬が舌鼓を打ち、部屋の主である特別対策官の童子将也が、大きな欠片をぱくりと頬張った。
「チョコのほろ苦さが、コーヒーによう合うな。ほんまに旨いで。最上」
童子が顔を向けて微笑み、最上は「あ、ありがとうございます」と仄かに頬を赤らめて、手にしたフォークを口に運ぶ。
あっという間に皿を空にした塩田が、満足げに言った。
「いやー。マジで旨かったぁ。今回、最上ちゃんに素敵なバレンタインのスイーツを貰ったから、ホワイトデーには何かお返しをしなきゃな」
塩田の言葉を聞き、鷹村が「ああ。そうだな」と同意し、雨瀬がうなずく。
童子が「最上。何がええ?」と訊くと、最上は「い、いえ。そんな、お返しなんて……」と恐縮して手を振った。
「あ! じゃあさ! 俺が、ホワイトデーにマカロンを作るよ! みんなにも配るから、楽しみにしてて!」
「おいおい。塩田。マカロンて、手作りするのはけっこう難しいぞ。それに、お前が作ると、中のクリームに“何か”を仕込みそうでコワい」
塩田の高らかな宣言に、鷹村が不穏な疑念を抱き、雨瀬が「塩田君、ワサビとかハバネロとか入れそう……」と身を震わせ、童子が「“闇タコ”の次は“闇マカロン”か。俺は遠慮しとくわ」ときっぱりと断る。
塩田が「え〜! みんな、ヒドい〜! 俺を疑い過ぎだって〜!」と大仰に声をあげ、その場の全員が笑った。
明るく賑やかな雰囲気の中、最上は笑顔の雨瀬と鷹村をそっと見た。
「……よかった」
最上が小さく漏らした声に、二人が「ん?」と反応する。
最上は「何でもないわ」と返して、ガトーショコラの残りを口に放り込んだ。
午後10時。
月白区の閑静な住宅街に建つ白壁の邸宅で、インクルシオ総長の阿諏訪征一郎は、広いリビングルームのソファに腰掛けた。
阿諏訪の向かいには、反人間組織『イマゴ』のリーダーである穂刈潤が座っており、湯気の立つカモミールティーを一口飲む。
穂刈はゆっくりとした動作で、ティーカップをソーサーに置いた。
「……グラウカの“特異体”である『キルクルス』の乙黒阿鼻は、僕ら『イマゴ』が必ず捕らえてみせます。その暁には、是非とも、『クストス』に収監中の僕らの“先生”の出所を叶えて下さるよう、お願いします」
10年前に思想犯としてインクルシオに拘束された、グラウカ支援施設「ひまわり苑」の元職員──韮江光彦の姿を思い浮かべて、穂刈が言う。
阿諏訪はやや険しい表情で、徐に口を開いた。
「……今日、お前をここに呼んだのは他でもない。その韮江の件で、つい先日私が入手した情報がある。実は、彼は昨年から度々体調不良を訴えていたそうで、『クストス』で詳しく検査をしたところ、『アンゲルス毒素症』だとわかった」
「……え……!?」
阿諏訪が発した予期せぬ言葉に、穂刈の息が一瞬止まる。
『アンゲルス毒素症』とは、グラウカ特有の病気で、脳下垂体から分泌される『アンゲルスホルモン』が毒化し、早ければ半年〜1年で死亡する病であった。
また、現在はその治療法・特効薬はなく、不治の病として知られていた。
「……韮江はまだ40歳と若い。私も残念だよ」
阿諏訪は穂刈の顔を見て、気遣うように低く言う。
しかし、その言葉が耳に入ることはなく、穂刈は目を見開いたまま、身じろぎ一つもできなかった。




