03・渇望と実際
午後6時半。東京都月白区。
インクルシオ東京本部の5階にある執務室で、西班チーフの路木怜司は、ゆったりとした動作でオフィスチェアに背を凭せた。
黒のジャンパーを羽織った路木の前には、西班に所属する特別対策官の真伏隼人が、両手を後ろに組んで立っている。
腰にブレード1本を装備した真伏は、背筋をピンと伸ばして言った。
「路木チーフ。蘇芳区の捜査ですが、現在のところ、グラウカの女性3人を誘拐したと見られる『フォルミカ』のメンバーの行方、および奴らの拠点に関する手掛かりは掴めていません。ですので、今後は蘇芳区以外の区にも捜査範囲を広げるつもりです」
「ああ。そうした方がいいだろう。引き続き、しっかりと捜査をしてくれ」
真伏の報告を聞いた路木は、感情の窺えない眼差しで簡潔に返す。
真伏は「はい」と返事をして、執務室を退室しようと体を動かした。
すると、路木は細身のスラックスを履いた足を組み、「ところで、真伏」と抑揚のない声で呼び止めた。
「今回の誘拐事件の裏に、『イマゴ』が潜んでいる可能性があるのは、捜査会議で伝えた通りだ。そう言えば、お前はこれまでに何度となく、俺に『イマゴ』を壊滅してみせると言っているが……」
「……は、はい」
路木に急に話を振られ、真伏はどきりと胸を鳴らして、ドア側に向けた半身を慌てて戻す。
「俺はインクルシオという組織に属する者として、その自信に満ちた宣言が、なるべく早く現実のものとなるように願っている。だから、頼んだぞ」
「……はい!! お任せ下さい!!」
路木の激励の言葉を聞き、真伏は頼もしい表情を作って請け負った。
そのまま「では、失礼します!」と一礼をし、きびきびとした動作でドアを開けて通路に出る。
実の親子である二人の間を隔てるドアが閉まると、ひと気のない長い通路にしんとした静寂が降りた。
(……インクルシオに属する者として……か……)
真伏は僅かに口端を上げ、“父親として、息子に期待して欲しい”という強い渇望を、心の中で押し殺す。
(……とにかく、今は『インクルシオ』と『イマゴ』の間で、上手く立ち回るしかない。この俺が、奴らの“大ボス”の正体を暴き、完全に壊滅するまでは……)
真伏は胸の痛みを振り払い、双眸を鋭く細めて、通路を歩き出した。
午後7時。
東京本部の南班に所属する「童子班」の5人は、担当エリアの巡回任務を終えて、黒のジープで本部に戻ってきた。
5人は地下駐車場からエレベーターで1階に上がり、本部の隣に建つインクルシオ寮で夕食を取る為に、エントランスの方向に進む。
その途中で、塩田渉が両手を擦り合わせて言った。
「童子さーん。夕メシを食う前に、何かあったかいモノを飲みましょうよー」
「賛成。今日はすげぇ冷え込んでたから、体がカチカチだ……」
鼻の頭を赤くした鷹村哲が賛同し、雨瀬眞白と最上七葉がこくこくとうなずく。
黒のツナギ服に黒のジャンパーを羽織った特別対策官の童子将也が、「ほな、こっちに行こか」と通路を引き返し、一行は『カフェスペース・憩』の前にやってきて開け放しのドアを潜った。
注文カウンターで飲み物をオーダーし、トレーに5人分のドリンクを乗せて、店内の空いているテーブルにつく。
その時、童子が別のテーブルにいる真伏に気付き、挨拶をした。
「真伏さん。お疲れ様です。ここで、夕メシですか?」
ホットドッグを齧っていた真伏がちらりと視線を寄越し、ホットレモネードを手にした高校生たちが「ま、真伏さん! お疲れ様です!」と声を揃える。
「……フン。俺はこの後も、捜査で忙しいからな。寮でゆっくりと夕食を取っている時間はない。お前たちは、今からティータイムか? 悠長なことだな」
「俺らは巡回任務から戻ってきたところなんですが、外の気温がかなり低かったので、温かい飲み物をと思いまして。真伏さんも、捜査に出るなら使い捨てカイロがあった方がええですよ」
真伏の嫌味を躱して、童子はホットコーヒーを一口飲んだ。
「そんで、『フォルミカ』の捜査はどうですか? 何か進展はありましたか?」
「……いや。ない。連中の行方も、拠点も、全くの不明だ」
童子が質問をし、真伏は素っ気なく答えて、ホットドッグの最後の欠片を口に放り込む。
しかし、真伏は実際には、グラウカの犯罪グループ『フォルミカ』の拠点の在り処も、一連のグラウカ誘拐事件が反人間組織『イマゴ』の“あの人”と呼ばれる“大ボス”の命令で起こっていることも、乾エイジから聞いて知っていた。
(……乾の話によると、“大ボス”はグラウカの“特異体”を探しているらしい。そんな都市伝説でしかあり得ない存在の為に、こっちは捜査が進まないように気を遣わなくてはならない。まったく、とんだ迷惑だな)
真伏は内心で苛立ち、トレーを持って椅子から立ち上がった。
すると、店内にガチャンと甲高い音が響いた。
空のコーヒーカップを不注意でテーブルから落とした対策官が、「わぁ! すみません!」と声をあげて床にしゃがみ込む。
高校生たちが咄嗟に動いて割れたカップの破片を拾い、その際に雨瀬が右手の指先を切って、「いたっ……」と小さく声を漏らした。
「あ! みなさん! 危ないですから、拾わなくていいですよー!」
店のアルバイト従業員である穂刈潤が、箒と塵取りを持って走ってくる。
カップを割った対策官が申し訳なさそうに謝り、エプロン姿の穂刈が笑顔で応じて片付け、雨瀬は他の高校生3人が心配する中、「ちょっと切っただけ。平気だよ」と言って白い蒸気が上がる傷口を隠した。
真伏は「気を付けろ」と対策官に一言注意をして、店を出ていく。
童子は雨瀬が背中側に回した右手を、無言でそっと見やった。
午後8時。東京都伽羅区。
派手なネオンが彩る繁華街の一角に、覗き部屋、個室ビデオ、SMクラブ等が入る6階建ての風俗ビルがある。
その地下1階の空きテナントで、『フォルミカ』のリーダーの蟻本王介は、日焼けサロンで焼いた肌がじわりと汗ばむのを感じた。
「こないだは、グラウカ3人を誘拐してくれてありがとうな。いい仕事だったよ」
「あ、ああ……。俺らのグループは誘拐は不慣れなんで、けっこう雑な感じで攫っちまったけど、役に立てたのならよかったよ」
元々はピンクサロンだった場所で、花柄のソファに腰掛けた人物──『イマゴ』の幹部である乾が笑みを向け、蟻本は視線を下げて返す。
世間の誰もが知る“大物の犯罪者”を前にして、手の甲に蟻のタトゥーを彫った22歳の蟻本の体が、無意識に緊張で強張った。
「じゃあ、またグラウカを誘拐したら連絡してくれ。ここまで、引き取りに来るから」
短髪を燻んだシルバーブルーに染めた乾が立ち上がると、蟻本が顔を上げた。
「い、乾さん。一つ訊きたいんだけど、グラウカを誘拐して、すぐに殺すのは何でだ? 俺、乾さんからこの仕事を依頼された時は、てっきり身代金目的だと思ってたんだけど……」
乾は店のドアに向かおうとした足を止めて、振り向いた。
「んー。それは言えないなぁ。ま、とにかく、君らは何も気にせずにグラウカを誘拐してくれ。その人数に応じた礼金は、ちゃんと払うからさ」
そう言って、乾は裾の長い上着を翻し、ドアを開ける。
蟻本と室内にいた『フォルミカ』の10人のメンバーは、コンクリートの階段を登って遠ざかっていく足音を、緊張の解けきらない顔で聞いていた。




