07・強襲
東京都聴区。
数年前に閉鎖した屋内遊戯施設は、1階の受付ロビーを抜けると右手にボウリング場がある。
その奥には施設従業員用の事務室があり、扉の中央に『STAFF ONLY』のプレートが貼られていた。
午後11時を回った時刻、事務室のソファに座った反人間組織『コルニクス』のリーダーの烏野瑛士は、頬杖をついて眼前の光景を眺めた。
「──寝るのはまだ早いぜ! 由人!」
白のタンクトップに黒革のパンツを履いた糸賀塁が、右腕を振り上げる。
その拳には、棘状の装飾が付いたナックルダスターが嵌まっていた。
糸賀は気を失いかけて脱力している吉窪由人の胸ぐらを掴み、ナックルダスターを装着した右拳で顔面を殴りつける。
鋭利な突起が吉窪の顔の肉を容赦なく抉り、空中に血が飛び散った。
糸賀の殴打の衝撃で、吉窪の左耳に付けた5つのピアスが辺りに弾け飛ぶ。
「やめろーーーっ!!!!」
インクルシオ対策官の雨瀬眞白は、『コルニクス』の構成員に背後から両腕を拘束された状態で叫んだ。
雨瀬は渾身の力で上体を捻るが、スキンヘッドの構成員に腕をギリギリと締め上げられてびくともしない。
雨瀬は歯噛みをして、烏野を睨んだ。
「烏野! もうやめさせろ! 痛めつけるなら、僕にしろ!」
烏野は薄い笑みを浮かべて、雨瀬を見返した。
「雨瀬君。君がいくら再生能力のあるグラウカとはいえ、大事な“商品”を傷つけるのは忍びない。それに、由人は『コルニクス』を裏切った。組織に背いた罰として、制裁を受けるのは当然だ」
「よっちゃんに罪はない! 組織を裏切るように仕向けたのは、この僕だ! だから、遠慮なく僕をやれよっ!」
「フッ。旧友をかばうか。美しい友情だ。だが、無駄だよ雨瀬君」
烏野の怜悧な双眸が、ソファの前にいる糸賀を見やる。
糸賀は仰向けに倒れた吉窪に馬乗りになり、返り血のついた口端を舐め上げた。
「こいつは、ここでブッ殺す! 頭蓋骨を砕き、脳下垂体を潰してな!」
そう言って犬歯を剝き出すと、糸賀はナックルダスターを頭上に上げた。
雨瀬が「やめろ!!!」と白髪を振って暴れ、烏野が目を細める。
──その時。
突然、耳を劈く轟音が響き、屋内遊戯施設の建物が揺れた。
「……な、何だ!?」
夜の街に轟く爆発音に、『コルニクス』の構成員たちが慌てて周囲を見回す。
烏野は瞬時に顔色を変え、勢いよくソファを立った。
「音はボウリング場の方からだ! 全員、すぐに向かえ! 塁、お前もだ!」
烏野の指示を聞いた糸賀は、即座に吉窪の上から飛び退き、「来い!」と怒鳴って構成員と共に事務室を走り出た。
老朽化した施設内が俄に騒然とし、雨瀬の両腕を拘束するスキンヘッドの構成員の力が緩む。
雨瀬はその隙をついて素早く片手を抜き、構成員の眉間に肘鉄を打った。
「ぐぅっ……!!!」
急所を強打された構成員が白眼を剥いて床に倒れる。
構成員の拘束から逃れた雨瀬は、「よっちゃん!」とすぐさま吉窪の側に駆け寄った。
ソファから立ち上がったままの烏野が雨瀬を睨めつける。
「これは、インクルシオの強襲か……! だが、お前の体に埋め込まれたGPS発信機は、ダミーも本命も取り除いたはずだ! どうやってここを割った!?」
「……ほ……本命は……こっちだ……」
「!」
僅かに身じろいだ吉窪が、掠れた声を出した。
吉窪は血のついた手を伸ばし、床に散らばったピアスの一つを拾う。
「……眞白の体の発信機は……どっちも『ダミー』だ……。本当の『本命』は……俺のピアスに……仕込んでいた……」
「──由人ぉぉぉぉぉーーーーーっ!!!!!」
真実を知った烏野が、怒りに吠えた。
烏野は凄まじい形相でスーツの内ポケットからナイフを取り出し、ソファの前のテーブルを乗り越えて雨瀬と吉窪に飛び掛かる。
すると、事務室の窓ガラスが一斉に割れ、複数の影が室内に飛び込んだ。
「──眞白っ!! よっちゃんっ!!」
「待たせたな!! 二人共!!」
「観念しなさい!! 烏野!!」
事務室の床に着地して声をあげたのは、インクルシオ東京本部の南班に所属する「童子班」の高校生たちだった。
振り向いた烏野のナイフを最上七葉が蹴り落とし、黒革製の鞘からブレードを引き抜いた鷹村哲と塩田渉が、その切っ先を喉元に突き付ける。
それと同時に事務室の扉が大きな音を立てて開き、ベテラン対策官の薮内士郎を先頭に多数の対策官がなだれ込んだ。
屋内遊戯施設の建物のあちこちから、インクルシオ対策官と『コルニクス』の構成員が交戦する音や怒声が聞こえる。
事務室に呆然と立ち尽くす烏野に、薮内が言った。
「……『コルニクス』はもう終わりだ。烏野」
特別対策官の童子将也は、屋内遊戯施設の非常階段を上がって屋上に出た。
錆びたフェンスに囲まれた場所に立った糸賀が、ニヤリと口角を上げる。
「……お前が、童子将也か。会うのは初めてだな」
「わざわざこんな所まで誘導したんは、挨拶が目的か?」
インクルシオの黒のツナギ服を纏い、両腿に2本のサバイバルナイフを装備した童子が、糸賀を見据えて言う。
短髪を燻んだ赤色に染めた糸賀は、肩を竦めて笑った。
「ハハッ。違うさ。俺がお前をブチ殺すのを、誰にも邪魔されないようにだ」
「そうか」
糸賀の言葉に、童子は眉一つ動かすことなく返事をする。
糸賀は右手に嵌めたナックルダスターを、目の前に翳して言った。
「童子。いいことを教えてやる。俺の戦闘スタイルは『撲殺』だ。このナックルダスターで、相手をとことん痛めつけて殴り殺す。そうやって、今までに数え切れないほどの人間共を殺してきた。そうそう、お前んところの対策官も、8人を殺ったぜ。どいつも顔がぐちゃぐちゃになるまで、何十発も殴ってやったよ」
右腿のサバイバルナイフに触れていた童子の指先が、ピクリと反応する。
糸賀は口端を吊り上げて言葉を続けた。
「ここでお前を殺せば箔が付く。インクルシオNo.1の特別対策官を殺ったとなれば、『コルニクス』が潰れても他の反人間組織から引く手数多だ。……だからよ、お前は俺の踏み台になれ」
糸賀はナックルダスターの光る右手を軽く振ると、足を踏み出した。
童子は両腕をだらりと下げて、近付いてくる糸賀を見やる。
糸賀と童子の間の距離が徐々に縮まった。
「どうした? そのナイフを抜かないのか? お前の武器だろ?」
「…………」
「あと二歩で俺のリーチに入るぞ? ビビってんのか?」
「…………」
「おい、聞いてんのか?」
「ええから早よ来いや」
「!!!」
鋭く言い放った童子に、糸賀の頭に一瞬で血が上る。
糸賀が右手を後ろに引いて、「テメェを殴り殺してやるっ!!!!」と大声で咆哮した──次の瞬間。
童子の右拳が、糸賀の顔面にめり込んだ。
「ごっ……ぼっ……!!!!!」
暗がりの屋上に骨の砕ける音が響き、糸賀の鼻と上唇が陥没して血が吹き出す。
糸賀は眼球をぐるりと上向かせ、そのまま膝を折って地面に崩れ落ちた。
童子は拳についた血を払い、黒革製のホルダーからサバイバルナイフを抜く。
ところどころにヒビが入ったコンクリートに片膝をついて、顔から白い蒸気を上げる糸賀の額にインクルシオの刻印の入った黒の刃をあてた。
「……人間の命を嬲りものにしてきた報いや。糸賀塁」
そう呟くと、童子はグリップを持つ手に力を入れた。
「いたぁーっ!!!」
まもなく午前0時になろうとしていた時。
屋内遊戯施設の2階を捜索していた塩田が、用具室に閉じ込められた8人の児童を発見した。
手足を革ベルトで拘束された児童の中には、薄いグレーの髪色の少女──阿諏訪灰根の姿があった。
恐怖と絶望から解放された児童たちは、饐えた匂いのする用具室を出た途端に大泣きしたが、灰根は凪いだ瞳で大人しく佇んでいた。
また、屋内遊戯施設にいた『コルニクス』の構成員20名は、インクルシオ対策官との交戦の末に、糸賀を含む全員が死亡した。
リーダーの烏野については、直ちに身柄がインクルシオ東京本部に送られ、取調べによる供述で残りの構成員が確保された。
屋内遊戯施設の事務室から押収されたパソコンと資料の数々は、その後の『コルニクス』の人身売買の全容解明に大きく役立った。
そして、反人間組織『コルニクス』は壊滅した。
夜半の風を受けて、雨瀬は屋内遊戯施設の駐車場の縁石に座っていた。
ずらりと並んだインクルシオの車両の周りでは、南班の対策官たちが慌ただしく動いている。
「眞白」
名前を呼ばれて顔を上げると、鷹村が缶コーヒーを差し出した。
「ありがとう。哲。……やっぱり、僕も何か手伝った方が……」
缶コーヒーを受け取った雨瀬が、忙しく行き来する対策官たちを見やって言う。
「いいんだよ。お前はゆっくり休んでろ」
そう言って、鷹村はTシャツに血の染みが残る雨瀬の隣に座った。
二人の視線の先には、押収物の入ったダンボールを運ぶ塩田と最上、その向こうに薮内と話す童子がいる。
雨瀬と鷹村は、暫く無言でその様子を見つめた。
やがて、鷹村が静かな声で言う。
「……また、よっちゃんと3人で遊べるといいな。小学生の頃のように」
「……うん」
雨瀬がうなずくと、鷹村は小さく微笑んで腰を上げた。
鷹村に続いて雨瀬も立ち上がる。
二人は、淡い月明かりの下を並んで歩き出した。