05・裏切り者
──今から4年前。
宮城県仙台市の郊外にあるレンタル倉庫会社の敷地内で、インクルシオ仙台支部の1班に所属する塩田満は、緊張の息を細く吐いた。
幼少の頃から街で見かける黒のツナギ服に憧れ、18歳で念願の対策官となった満は、仙台支部に配属されて2年目の20歳であった。
冬の冷気が身を震わす夜半、満を含めた1班の対策官5人は、反人間組織『ウルラ』の構成員らしき人物が目撃されたレンタル倉庫会社に、偵察班として派遣された。
満たちの調査により、当該のレンタル倉庫会社が『ウルラ』の拠点であると確定すれば、特別対策官の日和快晴を筆頭とした突入チームが壊滅に動く。
満は周囲に何十個と並ぶ倉庫用のコンテナの陰に隠れ、敷地の奥にある平屋建ての事務所に目を凝らした。
「……塩田。俺は、事務所の裏手に回る。何かあったら緊急連絡を入れろよ」
共に任務につく右田薫平が小声で言い、満は「は、はい」と返事をする。
右田は満の1歳年上で、普段から冗談を言い合う仲の良い先輩対策官であった。
右田が足音を立てずにその場を去ると、満は再び事務所に目を向ける。
他の3人の対策官は広い敷地内にバラバラに散らばっており、しんとした辺りの静寂に心細さを煽られた満は、口内に溜まった唾をごくりと飲み込んだ。
その時、満の背後から、誰かが肩をトントンと叩いた。
「……あっ、右田さん。戻って来たんですか?」
満はホッとした顔で振り返り、すぐに驚愕に目を瞠る。
黒のツナギ服を纏い、腰にブレードとサバイバルナイフを装備した満の後方に立っていたのは、五分刈りの坊主頭の大男──『ウルラ』の幹部の一人である佃玄信であった。
佃の厚みのある掌で口を塞がれた満は、偵察の視線が注がれる事務所ではなく、パステルグリーンの大型コンテナの中に引き摺り込まれた。
そこには、『ウルラ』のリーダーの菊川伏郎と、もう一人の幹部の鉄木愛人がおり、満は急速に血の気が引くのを感じた。
「……やはり、黒いネズミがこの敷地内に潜り込んでいましたか。これは、きちんと駆除しなければなりませんね」
「おい。お前。一人でここに来たわけじゃないよな? 仲間はどこだ?」
光沢のあるグレーのスーツを着た菊川が忌々しげに言い、あちこちから棘の突き出た鉄製のバットを持った鉄木が訊く。
満の口元を左手で覆った佃は、ゆっくりと右手を伸ばして、恐怖に青ざめた対策官の片手を握った。
「……以前、俺は別の対策官を拷問したことがある。そん時、そいつは5本の指を折っても仲間の居場所は吐かなかった。すげぇ腹が立ったんで、つい情報を聞き出す前に蹴り殺しちまったけどな。でも、インクルシオ対策官ってのは、覚悟が決まってる連中だと敵ながら感心したよ。……さぁて、お前はどうだ? そいつと同じように、痛みに耐えて仲間を守るか?」
佃が耳元で低く囁き、筋肉質な五指を満の右手の指に絡ませる。
すると、満は大きく頭を振って、掠れた声で叫んだ。
「……こ、ここには俺を含めて5人で来た! お、俺が全員に緊急連絡メールを送って、この大型コンテナに集める! だから、酷いことはしないでくれ!」
「…………」
満の懇願を聞いた『ウルラ』の3人は、一瞬きょとんとして吹き出した。
「ブハッ! こ、こいつ、あっさりと仲間を裏切りやがった! なんて奴だ!」
痩身の鉄木が腹を抱えて笑い、佃が呆れた表情を浮かべる。
菊川は「じゃあ、すぐ緊急連絡メールとやらを送って下さい。残りのネズミ共を始末しますから」と命じ、満はこくこくとうなずいて、それに従った。
その後、パステルグリーンの大型コンテナの内側は、飛び散った血で汚れた。
満が送った緊急連絡メールの『構成員の一人に見つかり、やむなく交戦して倒しました。しかし、俺も負傷して動けません。北側の大型コンテナの中にいます』という文面を見て駆け付けた対策官4人は、待ち伏せていた佃と鉄木の餌食となった。
足元に転がった4つの死体を放心して見ていた満を、佃は「殺す価値もない」と解放し、『ウルラ』は拠点としていたレンタル倉庫会社から姿を消した。
満は単身で仙台支部に戻り、ふらつきながら支部長室に辿り着くと、支部長の柳秀文に全てを告白した。
「……俺が!! 俺が右田さんたちを裏切りました!! た、対策官としての覚悟とか、矜持とか、そんなことより、自分の指5本の方が大事で!! ちょっとでも痛い目に遭いたくなくて!! それで、簡単に仲間の命を差し出しました!!」
両膝を床について泣き叫ぶ満に、柳は愕然とする。
やがて、満は乱れた息を整え、首を垂れて、ぽつりと言葉を溢した。
「……俺に、対策官は無理です。もう辞めます」
午後7時。宮城県仙台市杜若区。
インクルシオ東京本部の南班に所属する「童子班」の5人は、捜査応援として仙台出張の日程を延長し、『ドミナトル』の取り調べや市内の巡回に協力した。
一日の任務終了後、ロッカールームで私服に着替えた塩田渉が「よかったら、俺の実家で晩メシでもどうっスか?」と誘い、他の4人は「家族水入らずで」と遠慮したものの、「是非、一緒に」と返されて同行することにした。
「さぁさぁ、みなさん。どうぞ沢山食べて下さい」
「本当にこの子ったら。お正月も帰らなかったのに、急に連絡してくるんだから」
緑の多い住宅街の一角にある一戸建てのダイニングで、塩田の父親の守が桶に入った寿司を勧め、母親の美和が揚げたての天ぷらの皿を出して言う。
守は中学校の社会科の教師、美和はパッチワークキルトの教室を自宅で行っており、長男の満については、食欲がなく自室にこもっている状態だと話した。
特別対策官の童子将也が「ほな、遠慮なくいただきます」と言い、鷹村哲、雨瀬眞白、最上七葉が「いただきます!」と大きく声を揃える。
塩田は熱々のエビの天ぷらを頬張り、ほくほくとした笑みを浮かべた。
「うめー! 久しぶりに食べるかーちゃんの天ぷらは、サイコーだ!」
「ふふ。渉は相変わらずねぇ。こっちのアスパラも美味しいわよ」
美和が嬉しそうに笑い、守は童子のコップに瓶ビールを注ぎつつ、メガネを掛けた双眸を細めた。
「渉は、物心ついた時からサッカーが好きで、将来の夢はプロのサッカー選手だったんですよ。地元のサッカークラブの試合でも、いつもエース級の大活躍でね」
「そうよねぇ。ワールドカップに出場して優勝するって、口癖だったわよね。それが、4年前に突然、「インクルシオ対策官になる」って言い出して……」
美和がそう言うと、不意に食卓に沈黙が降りる。
守は「あ、いい日本酒があるんですよ」と俄に重たくなった空気を払うようにテーブルを立ち、美和も「じゃあ、何かおつまみを」とキッチンに向かった。
“4年前”というワードを聞いた童子は、空にしたコップをテーブルに置き、声を潜めて塩田に訊ねた。
「……塩田。今朝、妹尾さんが言うてたことやけどな。あの内容が気になったから、仙台支部で『ウルラ』の過去の捜査報告書を全て読んだ。その4年前の記録に、拠点と思われる場所に偵察に行った対策官5人のうち、お兄さんの満さんだけが戻り、他の4人が殉職したと書かれとったが、そん時に何があったんや……?」
童子の質問に、他の高校生3人が注目し、塩田が視線を上げる。
「……えっと……。実は、俺もそれを話そうと思っていたんスよ。やっぱ、童子さんとみんなには、どんなことでも知っておいて欲しいから……」
塩田が改まった声を出した時、ダイニングに繋がるリビングのドアが開いた。
そこに現れた、無精髭を生やした不健康な顔色の人物──元インクルシオ仙台支部の対策官である塩田満が、弟を睨み付けて言った。
「……おい、渉。久しぶりだなぁ。お前がサッカー選手の夢を捨ててインクルシオ対策官になったせいで、俺の悪夢はちっとも薄れたり消えたりしねぇよ。まったく、余計なことをしやがって。俺は、インクルシオなんざ、とっとと忘れたいのによぉ!!!」
満の苛立ちに満ちた怒鳴り声が、家中に響く。
「あ、兄貴……っ!!」
塩田は悲痛な表情でテーブルの椅子を立ったが、満は対話を拒むようにリビングのドアを閉め、そのまま寒風が吹き荒む外に出ていった。