06・駆け引き
午前9時。東京都聴区。
古い製粉工場の敷地内にある事務棟の事務室で、反人間組織『コルニクス』のリーダーの烏野瑛士はノートパソコンから目を上げた。
パソコンや書類が撤去された事務室のソファには、“右腕”の糸賀塁がいる。
烏野に声をかけた吉窪由人は、手を後ろに組んでソファの前に直立した。
「なんだ? 由人?」
烏野が怜悧な眼差しを向け、吉窪が緊張した面持ちで口を開く。
「俺がこないだ会ったインクルシオ対策官ですが、一人はグラウカなんです」
「え? インクルシオにグラウカぁ?」
吉窪の言葉を聞いた糸賀が驚いた声をあげた。
皺一つないスーツに身を包んだ烏野は「ほう」と片眉を動かす。
吉窪は直立の姿勢のまま、話を続けた。
「今までインクルシオは人間だけの組織でしたが、そいつ……雨瀬は、“グラウカ初の対策官”としてインクルシオに入ったらしいんです」
「へぇー。そういや、ちらっと噂で聞いたことがあるな。本当だったんだな」
缶コーヒーのプルトップを開けて、糸賀が言う。
烏野は「それで?」と吉窪を促した。
「はい。うちはこれから、グラウカも“商品”として取り扱うんですよね? だったら、“グラウカの対策官”は『ある筋』に高く売れるんじゃないかと」
「……反人間組織の顧客か」
烏野の回答に、吉窪が「そうです」とうなずく。
缶コーヒーを呷った糸賀が、「おいおい。インクルシオ対策官が反人間組織に売られたら、マジで生き地獄の目にあうぞ」と笑った。
烏野がノートパソコンを閉じて言う。
「面白い提案だが、そいつはお前の旧友だろう? いいのか?」
「もう、友達でも何でもありません。先日のGPS発信機の礼です。今度は俺が騙して、雨瀬を『コルニクス』に連れて来ます」
吉窪は真剣な表情で烏野を見た。
烏野は「ふむ」と手で顎を摩ると、「いいだろう。やってみろ」と許可を出した。
午後10時。
軋んだ音を響かせて、製粉工場の錆びた扉が開いた。
大型の製粉機が並ぶ工場内に足を踏み入れたのは、吉窪とインクルシオ対策官の雨瀬眞白だった。
白のTシャツに色落ちしたジーンズを履いた雨瀬は、『コルニクス』の“No.2”の糸賀と5人の構成員の姿を見て目を瞠った。
「よっちゃん! 自首したいって話じゃ……!」
焦って振り向いた雨瀬に、吉窪が「悪いな。眞白」と冷たい声で言う。
吉窪は薄暗い工場の奥に立つ糸賀に顔を向けた。
「糸賀さん。こいつが例のインクルシオ対策官です。嘘の自首話を持ちかけて、一人でここに来させました。烏野さんは新拠点ですよね。早速、こいつを連れて行きましょう」
「そうか。クサい芝居はもういいぜ。由人」
「……え?」
「お前の“裏切り”は、とっくにバレてんだよ!」
糸賀は大声をあげると、手にしたスマホを高く翳した。
その画面には、吉窪が鷹村に送った『捜査に協力する』のメッセージが表示されていた。
「──っ!!!」
吉窪は慌ててジーンズの尻ポケットを手で探る。しかし、そこには何もない。
「……いつの間に……!!!」
吉窪が掠れた声で言うと同時に、糸賀の後ろにいた構成員4人が二手に分かれ、雨瀬と吉窪の体をそれぞれ取り押さえた。
「くっ……!」
「いやぁ〜。念の為に調べろと言った烏野さんの勘が当たったなぁ」
糸賀はニヤニヤとした笑みを浮かべて、床に膝をついた雨瀬と吉窪を見下ろす。
「そんでさぁ。由人が捜査に協力してるなら、当然インクルシオは俺たちの新拠点を特定しにくるはずだよな。……ってことは、その体のどこかに『GPS発信機』が埋め込まれてるはずだよなぁ? “グラウカ初の対策官”さんよぉ?」
雨瀬を見やった糸賀が、黒革のパンツの後ろからナイフを取り出した。
2人の構成員に両腕を押さえられた雨瀬が、糸賀を睨み上げる。
糸賀は雨瀬の目の前にナイフをちらつかせて言った。
「お前はわざと俺たちに捕まって、『コルニクス』の新拠点に行く予定だった。体内に埋めたGPS発信機と共にな。それをどこかで潜んでいるお仲間が追跡する。これがお前たちの“作戦”だ。だが、残念だったな。GPS発信機はここに捨てて行く」
そう言って、糸賀は顎をしゃくった。
それを合図に、一人の構成員が電波探知機を持って雨瀬に近付く。
雨瀬は腕を引かれて立たされると、電波探知機が足元から這い上がった。
すると、雨瀬の顎の辺りで、甲高いアラーム音が鳴った。
「ははーん。これは多分、耳たぶだな。……どれ」
そう言うや否や、糸賀は雨瀬の左の耳たぶをナイフで削いだ。
「……く、ああぁっ……!!!」
「眞白っ!!!」
コンクリートの床にボタボタと鮮血が落ち、雨瀬は苛烈な痛みに背中を曲げる。
肉が削がれた傷口から、グラウカの証である白い蒸気が上がった。
「ビンゴ」
糸賀が血に塗れた小さな機器を、屈強な指でつまむ。
糸賀は雨瀬の白髪を乱暴に掴むと、その双眸を覗き込んで囁いた。
「この発信機は『見つけさせる』ためのダミーだ。もう一つ、体の別の場所に『本命』がある」
「──!」
雨瀬は両目を見開いた。糸賀は口角を上げた。
「おそらくは体の後ろ側だ。うなじか、背中か、腰か……。じっくり探して抉り出してやる。それから、お前を俺たちの新拠点に連れて行く」
糸賀は尖った犬歯を見せて笑った。
電波探知機を持った構成員が雨瀬の背後に回り込む。
雨瀬とそれを見ていた吉窪のこめかみから、幾筋もの汗が流れ落ちた。
午後10時半。
聴区にある民営駐車場で、インクルシオの黒のツナギ服を着た塩田渉は、同じ場所を落ち着きなく行き来した。
「まだ動きはないのかよ……? 雨瀬が心配だな」
「心配する気持ちはわかるけど、焦れても仕方がないわ」
夜の街並みに目をやった最上七葉が硬い声音で言う。
雨瀬が潜入した製粉工場から1キロほど離れた民営駐車場には、インクルシオ東京本部の南班に所属する30名の対策官が集まっていた。
駐車場の敷地内にはインクルシオの黒の車両が並び、組み立て式の机の上には地図が広げられている。
ノートパソコンを操作していた通信オペレーターが振り向いた。
「雨瀬君に仕込んだGPS発信機の位置が、10分前から全く変わっていません。これは、2つとも見つかって取り除かれた可能性が高いです」
オペレーターの報告に、周囲で待機していた対策官たちに緊張が走る。
ベテラン対策官の薮内士郎が「そうか」と短く返事をした。
鷹村哲は眉根をきつく寄せて、ブレードにかけた手に力を込める。
特別対策官の童子将也は、沈黙したまま、鋭い眼差しでじっと宙を睨んだ。
「ようこそ。『コルニクス』の新拠点へ」
Tシャツの裏側の肩甲骨の部分を血で染めた雨瀬に、烏野が微笑みかけた。
雨瀬と吉窪が連れられた『コルニクス』の新拠点は、聴区の北西にある閉鎖済みの屋内遊戯施設だった。
ボウリング、ビリヤード、卓球、ダーツ、カラオケと看板に書かれた屋内遊戯施設は、建物のあちこちが錆びて朽ちている。
「ここは、もう何年も前に閉鎖した施設でね。少々老朽化しているが、まぁ、使い勝手はそう悪くない」
1階にある事務室のソファに座った烏野が、鷹揚に足を組んで言う。
『コルニクス』の構成員に腕を押さえられた雨瀬は、唇を固く結んで烏野を見据えた。
雨瀬の隣には、同じように腕を拘束された吉窪がいる。
「烏野さん。“裏切り者”の由人は、今ここで処分するか?」
短髪を燻んだ赤色に染めた糸賀が、拳をボキボキと鳴らして言った。
雨瀬と吉窪の表情が、瞬時に強張る。
烏野は「……ちょっと待て」と糸賀を制止すると、ガラステーブルに置いたノートパソコンを操作した。
烏野の細い指が音を立ててキーを叩く。
「……よし。たった今、『92番』の商談が成立した。かなり高い値がついたぞ。“出荷”は、明朝だ」
烏野の言葉を聞いた吉窪がハッと反応した。
吉窪は顔を横に向けて、「グレーの髪色の子だ!」と雨瀬に告げる。
「──!」
雨瀬の額に大粒の汗が浮かんだ。
烏野はノートパソコンから視線を上げると、口端を上げて言った。
「雨瀬眞白。次はお前を売る番だ。せいぜい高い値がつくように、期待しているよ」